宋史卷二百六十四 列傳第二十三 薛居正

薛居正(字は子平、?–981年)、開封浚儀の人。五代の後晋以来歴仕し、宋初に宰相として十八年にわたり寛簡な政治を行った。『五代史』の監修者としても知られる。

年表(8件)

出自と生涯

  • 開封浚儀の人。父仁謙は周太祖の賓客。若くして学を好み大志を抱いた。清泰初(934年CE)進士に落第し「遣愁文」を作って自らを慰めたが、その倜儻な意気は識者に「公輔の器」と評された。翌年進士に及第。
  • 晉天福中、華帥劉遂凝の従事、遂清の邦計に鹽鐵判官。開運初、度支推官に改まり、宰相李崧の鹽鐵の下で推官加大理寺直に、右拾遺。桑維翰が開封府尹の際は判官。
  • 漢乾祐初、史弘肇の専横に対し、部下吏の讒言による民の誣告事件を疑って糺明し実情を明らかにした。周廣順初、比部員外郎、三司推官、知制誥。周祖の兗州征討に従い都官郎中。顕徳三年(956年CE)左諫議大夫、弘文館学士判館事。
  • 六年(959年CE)滄州の民租を定める使者、その才幹で刑部侍郎判吏部銓に抜擢、宋初戸部侍郎。太祖の李筠・李重進征討に留司三司、許州知事、建隆三年(962年CE)樞密直学士権知貢挙。
  • 湖湘平定に伴い朗州知事の際、亡卒数千人が山沢に集まり盗賊化、監軍が城中の千余人の僧をその一味と疑い皆殺しにしようとしたのを、居正は計略で事態を緩和し、賊魁汪端を捕らえ詰問すると僧は無関係と判明、僧たちは助命された。
  • 乾徳初、兵部侍郎。太原親征に伴う大規模な運搬役で河南府に四万戸の逃亡が生じた際、居正が招集に当たり十日で復業させた。参知政事、五年(967年CE)吏部侍郎。開寶五年(972年CE)淮南湖南嶺南等道都提挙三司水陸発運使兼門下侍郎監修国史、『五代史』を監修し完成させ器幣を賜る。
  • 六年(973年CE)門下侍郎平章事、八年(975年CE)太祖が「豊作は天佑によるもの、施政に欠けがあれば共に改めよ」と述べたのに応え善政に努めた。太平興国初(976年CE)左僕射昭文館大学士、太原平定に従い司空。
  • 丹砂を服用中に毒に当たり奏事中に発病、殿門外で水を求めても飲めず、中書省に運ばれても言葉を失い水器を指すのみで、口から煙のような気を吐きながら私第に帰り、卒した。太平興国六年六月(981年CE)、享年七十。太尉中書令、諡は文恵。
  • 気貌堂々、数斗の酒を飲んでも乱れず、孝行純朴、宰相として寛簡な政治を行い士君子に評価された。参政から宰相まで十八年間、恩遇は変わらなかった。太祖はかつて居正に「古来の君主は己を正せず名を後世に残せなかったが、朕は唐太宗の直言に耐えた度量を見習いつつも異論の余地がないようにする、臣下も忠正であればこそ全う出来る」と語ったという。
  • 開宝中、居正・沈倫が並んで宰相、盧多遜が参知政事だったが、居正の死後、沈倫は多遜の南流事件に連座して責を負い、多遜自身も後に流されたことから、居正だけが守道して福を保ったと論者は評した。読書と文章を好み、子惟吉が遺文三十巻を編集して『文恵集』と名付け献上。咸平二年(999年CE)太祖廟庭に配饗された。