宋史卷二百六十三 列傳第二十二 李穆
李穆(字は孟雍、開封陽武の人)は易・老荘に通じた文人官僚で、江南征討に先立ち使者として李煜に入朝を促し、太宗朝で翰林学士・参知政事に至った。至孝な人柄で母の喪に服したまま太平興国九年正月、風眩により急逝、享年五十七。太宗はその死を深く惜しみ工部尚書を贈った。著作をすぐに廃棄し稿を残さない謙抑な人柄で知られた。
出自と生涯
- 開封府陽武の人。父咸秩は陝西大都督府司馬。幼くして文を能くし高い品行を持ち、遺失物を見つけては必ず持ち主を訪ねて返した。酸棗の王昭素に易・老荘を学び、その理解は師をも凌ぐと評され「異日必ず廊廟の器」と称され『易論』三十三篇を授けられた。
- 周顕徳初、進士として郢州・汝州の従事、右拾遺。宋初、殿中侍御史として洋州通判、訴訟を滞りなく処理。陝州通判、河南の租税調達命令に応じられず免官、また挙官の連座で前資を削られた。この頃、弟肅の傅州従事の任地に母とともに寄寓し、貧しくても兄弟で学問を講じ泰然としていた。
- 開宝五年(972年CE)太子中允、翌年左拾遺知制誥。五代以来の華美な詞命を正雅な文体に改めた。同門生の盧多遜と縁が深く、太祖が多遜に「李穆は仁善で辞学の外に望むところなし」と問うと「穆は操行端直で死生に節を変えず、仁にして勇なり」と答え、太祖も同意した。
- 江南征討の前夜、既に諸将を配置しながら未だ発兵していない段階で、まず李煜への入朝を促す使者として穆が派遣された。李煜が病を理由に固辞するも、穆は「朝すべきかは国王自ら定めよ、ただ宋の武力は侮りがたいゆえ熟慮すべし」と説き、帰還後に太祖に状況を報告、その言葉の誠実さが江南でも評価された。
- 太平興国初、左補闕、三年(978年CE)史館修撰判館事、金紫を賜る。四年(979年CE)太原征討に従い中書舎人、『太祖実録』の編纂に加わった。七年(982年CE)盧多遜との親交や秦王廷美の朝辞笏記代作で弾劾され司封員外郎に左遷。
- 八年(983年CE)宋白らと知貢挙、太宗の殿試親臨で受験者の疲弊した顔色を見て憐れみ、その日のうちに中書舎人史館修撰判館事に復帰。五月翰林学士、六月知開封府として明敏な裁断を行い豪右・権貴が私利を図る余地をなくし、太宗に才を認められ十一月左諫議大夫参知政事に抜擢。
- まもなく母の喪、起復の詔を三度辞退した末に服喪を続け哀毁を尽くした。九年(984年CE)正月早朝、風眩により急逝、享年五十七。左遷から員外郎・中書舎人・翰林学士・参知政事へと一年足らずで復帰した矢先であった。太宗は「穆は国の良臣、まさに登用しようとしていたのに」と哭し、工部尚書を贈った。
- 至孝な性格で、病臥する母を自ら扶けた。秦王廷美の事件に連座して獄吏に取り調べられた際、子の惟簡は祖母に「穆は詔により獄を鞫する任にある」と偽って告げ、省郎への降格すら知らせず母を安心させ続けた(隔日で当直と偽り実は僧寺・友人を訪ねていた)。喪に服す際は思慕のあまり身を損なうほどであった。
- 篆隷・文章・絵画に優れたが、その事跡を晦し、著作もすぐに廃棄し稿を残さなかった。子惟簡は将作監丞に至り、才芸に恵まれながら仕進を好まず三十余年家居し人々に称された。真宗はその品行を聞き、景徳三年(1006年CE)惟簡の子郯を将作監主簿に、大中祥符七年(1014年CE)冬惟簡を召して太子中允致仕、天禧四年(1020年CE)卒し銭十万を賜られ、郯は太子中舎に至った。
肅(季雍)――李穆の弟
- 七歳で読書し大義を解し、十歳で詩に警語を含めた。進士に登甲科、酒を好み濮州・博州の従事から保静軍節度推官に遷る。任命が下った翌夕、親友との酒宴で酔って寝入ったまま卒した、享年三十三。
- 「大宋楽章九首」(九成九夏の意を取る)を作り国家の盛徳を頌えた文才があり、「代周顒答北山移文」「弔幽憂子」「文病鶏賦」なども規諫の意を込めて著した。
史論
- 張昭は五代の末に典章撰述に専念し博洽な文史をもって治乱に通じ、君主の過ちには必ず諫めたが、当時の君主はこれを重んじても採用しきれなかった。宋の興隆に伴い碩儒が重んじられ、稽古の効を得たといえよう。
- 竇儀・儼らの兄弟は儒学を以って登用され並んで時望を集めた。儀は剛方清介で応務の材があり大用されるはずが早く没した。儼は文芸に優游し礼楽を興し、太宗尹京に仕えた偁は元僚として沖淡で晩節に忠讜を著した。その一族の宦業の盛んさは義方の効果とも見られよう。
- 呂餘慶は太祖が潜藩の頃から幕府に名を連ね、趙普・李処耘が登用されても意に介さず、後に彼らが排斥された際にはその弁護に努めた。劉熙古は大任にあっても寒素の暮らしを保ち、石熙載は朝廷で遠慮なく発言し善人を推薦し、李穆は文学と孝行で時に称された。これら数賢は創業の初めにありながら、進退の際には泰平の世の士風を漂わせ、宋の治世が盛んになるのも宜なるかなと評される。