宋史卷二百六十三 列傳第二十二 石熙載

石熙載(字は凝績、河南洛陽の人、?–太平興国九年)は太宗の潜邸時代からの側近で、太平興国期に樞密副使・樞密使を歴任し河東親征にも従軍した宰執の一人。忠実で是非を遠慮なく言い人材を推薦する性格で知られ、太宗に深く信頼され、大臣として唯一車駕自ら弔問を受けた。子の中立も後に参知政事となった。

年表(6件)

出自と生涯

  • 河南洛陽の人。周顕徳中進士登第、疎俊で度量があり、家では厳謹に礼法を守った。宋初、太宗が殿前都虞候として泰寧軍節制を領した際、掌書記に辟され、開封尹の下で開封府推官、左拾遺左補闕。
  • 外艱に伴い起復するはずが讒言で忠武・崇義二軍掌書記に出された。太宗即位で左補闕に召還され知貢挙。梅山洞蛮の侵寇に対応するため潭州知事となり、召還後兵部員外郎、樞密直学士、まもなく簽書樞密院事に抜擢され官第を賜る。
  • 太平興国四年(979年CE)太宗の河東親征に給事中として樞密副使を兼ね従軍、刑部侍郎に遷る。五年(980年CE)戸部尚書樞密事、病により長く欠勤、八年(983年CE)辞職を求め尚書右僕射を授かるが、九年(984年CE)卒、享年五十七。侍中を贈られ諡は元懿。太宗はその死を深く悼み「事君の心が純正で他心がなかったのに」と嘆いたという。国朝で大臣の死去に車駕自ら弔問したのは熙載のみであった。
  • 忠実な性格で是非好悪を遠慮なく言い、人の善を見れば推薦した。若い頃、耒を背負って嵩陽道を歩いていた際、老人に「真人(趙匡胤)が興れば汝は輔弼の位に就くだろう」と予言された逸話が伝わる。継母牛氏に孝行で聞こえた。継母の連れ子熙導を石氏の姓で殿直に補せしめたが、熙載の死後、末弟熙正が異姓の熙導が上位にあることを嫌い詐称で財産を奪おうとした事件が起き、有罪判決の後、太宗は熙載の孝心を考慮し熙導を本姓に戻しつつ財産を分与、熙正は除名された。
  • 咸平二年(999年CE)八月、太宗廟庭に配饗された。熙正は後に供備庫副使、中孚は尚書虞部員外郎。子行簡は大中祥符進士。

中立(表臣)――石熙載の子

  • 十三歳で孤児となり、疎放で滑稽を好んだが人は怒らなかった。西頭供奉官から光禄寺丞に改まり、家財を諸叔父に譲り自らは受けなかった。直集賢院として李宗諤・楊億・劉筠・陳越と親交し秘書校讐に長けた。
  • 判三司理欠憑由司、皇帝の亳州経路に伴う国経修撰を鹽鐵判官として担当、尚書礼部侍郎判吏部南曹、御集の注釈官、判戸部勾院、戸部郎中史館修撰、在京刑獄の紏察、吏部郎中知制誥、審官院、礼部貢挙、集賢院判を歴任するも、挙官不当で史館修撰を落とされ審官院を罷免、後に復帰。
  • 右諫議大夫給事中を経て翰林学士判秘閣知制誥、貢挙にも関わる。張観と外制を兼行、尚書礼部侍郎、学士承旨兼龍図閣学士。景祐四年(1037年CE)参知政事に拝されるが、翌年災異が続いた際、諫官韓琦の「詼笑を好み大臣の体でない」との指摘で王随・陳堯佐・韓億とともに罷免。
  • 戸部侍郎資政殿学士、通進銀台司判、大学士、吏部侍郎で祥源観提挙を経て太子少傅致仕、少師に遷り卒、太子太傅を贈られ諡は文定。
  • 台閣故事に精通し近名を求めず賓客を好み酔うまで共に飲んだ。初め家産は年収百万銭に及んだが晩年ほぼ使い尽くし、帝は病を聞いて白金三百両を賜ったが没後は葬儀費用にも窮したという。子居簡は太子中允集賢校理。