出自と生涯
- 博州高唐の人。書計に優れ、後唐長興中に枢密院の小吏として謹愿の評を得た。晉初に滑州廩庾を掌管し牙職に補せられる。景延広が西洛留守となるとその右職に、延広の死後は陝帥白文珂に依り、文珂の推挙で周祖に仕え世宗の下で府中の要職に補せられた。
- 即位後、軍器庫使に抜擢、髙平征討の功で客省使、知青州、向拱の西征では行營都監、秦鳳平定で秦州知事、のち鳳陽・河中府の知府を歴任。顕徳三年(956年CE)内客省使として王朴に代わり開封府知事、四年(957年CE)寿州副留守、五年(958年CE)南征帰還で再び開封府判、六年(959年CE)関南征討では東京副留守、吴廷祚が河北出征の際は権知開封府事を代行。
- 恭帝嗣位で検校太傅、太祖立でさらに検校太尉。澤潞征討では澶州廵警を命じられ、鎮州・澶州の権知を経て建隆二年(961年CE)義武軍節度に拝され、数年後に風痺を得て召還。乾徳四年(966年CE)卒、享年五十九、太師を贈られた。
- 明敏で節操を重んじ、晉室滅亡の際に景延広の一族を洛から助けに向かい、遼人による掠奪の危機から延広の僚吏の家族を守った逸話がある。太祖・世宗と親交厚く、沈倫を推薦して太祖に用いさせ、のちに宰相となったことで知人の明として世に称された。子の惟質は内園使、弟の居済は水部員外郎。大中祥符三年(1010年CE)孫の建中を三班借職に録した。