宋史卷二百六十二 列傳第二十一 李穀
李穀(字は惟珍、潁州汝陰の人、?–建隆元年)は後晋・後漢・後周・北宋の四朝に歴仕した文官・宰相。契丹に捕らえられても屈しなかった気概で知られ、後周では宰相として財政・軍需を統括し南唐征討にも従軍した。厚重剛毅な人柄で人望が厚かったが、李筠の反乱に連座することを憂え病没したとされる。
出自と生涯
- 潁州汝陰の人。身長八尺、容貌魁偉、勇力があり弓に長じ、若い頃は任侠を好み郷里で困窮した。発憤して学に励み、一度目にした書は皆暗誦できたという。二十七歳で進士に及第し、華州・泰州の従事を歴任。
- 晉天福中、監察御史に抜擢され、少帝が開封尹の頃は推官、少帝が広晉尹の頃も府推官として仕え、即位後は職方郎中、度支判官、吏部郎中を歴任。天福九年(944年CE)少帝親征に扈従し、樞密直学士・給事中となるが、馮玉・李彦韜に排斥され三司副使に転出。
- 開運二年(945年CE)秋、磁州刺史・北面水陸転運使に出る。契丹が汴を陥れ少帝が北へ連行された際、旧臣で出迎える者がいない中、穀は独り路上で拝迎し君臣ともに涙した。契丹の使者を斬り漢祖に内応、河朔の豪族梁暉を安陽に潜入させたが、契丹が城の虚弱を知り再攻し陥落、穀も捕らえられた。
- 契丹主の尋問(背いて太原に帰ろうとしたかとの詰問)に対し、六度の詰問にも屈せず、契丹主が病に倒れた際も「実に術はなく人に陥れられただけ」と気色を変えず答え、その気概により寛大に扱われた。
- 永康王(世宗の前の契丹主)の統治下、給事中を署せられる。契丹将満逹の真定占拠中、李崧・和凝ら宰相一族が城内におり、李筠・何福進が満逹を追い出し白再榮が留後となると、再榮が李崧らの家財を奪い口封じに殺そうとしたのを、穀が「国亡び主辱められる中、一人の契丹将を逐うために宰相を殺せば、専殺の責めを負う」と説き、李崧らは免れた。
- 漢初、左散騎常侍に抜擢(外郡から本官帰任の際の秩を進める旧制による)。開封府権判として中牟の盗賊の巣窟を摘発し、劉徳輿という有能な人物を主簿に抜擢して盗賊集団を一掃した。
- 工部侍郎に遷り周祖の西征で西南面行營水陸転運使、関右平定後は陳州刺史。内難で召還され周祖の汴入城後は三司権判、廣順初(951年CE)戸部侍郎、まもなく中書侍郎平章事、三司判事を兼ねる。
- 周祖が河中討伐中の李守貞討伐時、穀は転運を掌り、既に人望のあった周祖から挙兵を諷されるも、常に「臣下は節を尽くして君に仕えるのみ」と答えた。開国の初め、宰相に登用され、淮陽の吏民数千が生祠建立を請うほど信望を得た(穀自身は固辞)。牛革禁令の厳しさを緩和し屯田務を廃止するなど宿弊を除いた。
- 洛陽の旧居を再建し、族人で仕官できない者に田を分与した。清風郷高陽里は「賢相郷勲徳里」と改称された。階段から落ちて負傷し辞意を示すも周祖に慰留され、兗州征討・東京留守判開封府事を歴任。
- 顕徳初、右僕射集賢殿大学士。世宗の太原征討で高平の戦いに賊に遭遇し山谷に潜んだが世宗に合流し慰撫された。太原攻めでは兵食を調達し、符彦卿に代わり太原行府事を判じた。師の帰還後、司空門下侍郎監修国史となり、史官の記録が起居注廃止以来途絶えていることを憂い、内廷日暦の編纂を上言した。
- 黄河の大決壊(斉鄆で十数州の丁壮を動員)を護督し、南唐征討では淮南道行營前軍都部署兼知廬夀等州行府事として渡淮、白延遇の勝利など緒戦を重ねた。しかし南唐の大将劉彦貞の来援に対し「水戦の備えがない我が師は退いて浮橋を守るべき」と進言、実際には退却時に混乱して淮北の役夫が寿春に陥落し、世宗の怒りを買い李重進が代わって出征した。
- 帰闕後、風痺の病を得て致仕を請うも許されず、軍国大事には中使を通じて相談を受け続けた。四年(957年CE)呉軍の紫金山布陣に対し親征を進言し勝利に導き、世宗から高く評価された(賛を陶穀に書かせて賜与)。
- 世宗が「四子の一人が病んでも見捨てない父の道」との喩えで慰留する中、平寿州の功で加爵、辞相して司空となり月に一度輿で参内。恭帝即位で開府儀同三司趙国公を求め洛邑に帰り、太祖即位で使者を遣わされ器幣を賜る。建隆元年(960年CE)卒、享年五十八。太祖はこれを深く悼み侍中を贈った。
- 厚重剛毅で沈着、談論を善くし人望が厚かった。韓熙載との友情(「江東の相となれば中原を長駆せん」「中原の相となれば江南は袋の中の物」との応酬)、李昉・扈載を見出した知人の才など逸話が多い。昭義李筠から旧交として銭を贈られ受け取ったが、その後筠が反乱を起こしたことを憂え病没した。子は吉(補闕)・拱(太子中允)。