出自と生涯
- 吐谷渾部の人。左右射に優れ護聖軍の騎士から軍校に累進し、田景咸・王暉らと周祖に従って汴に入り「十軍主」と号された。
- 顕徳中、彰武軍節度、宋初検校太尉、横海軍節度に加えられる。乾徳中(963-968年CE)、任を退いて帰った太祖にたびたび苑中で射を披露したが、将略には乏しく、老いてもなお強弓を引く技のみを買われた。
田景咸・王暉(附伝)――出自と生涯
- ともに太原の人。田景咸は漢に仕えて奉国右廂都校となり、周祖に従い汴に入って龍捷左廂都校、安国軍留後を経て本軍節度に真拝。世宗代に武勝軍節度、宋初左驍衛上將軍。開寶三年(970年CE)卒。
- 景咸は吝嗇で蓄財を好み、来客に肉一皿しか供さなかったという逸話や、贈答の使者「王班」を人名と誤解した逸話が伝わる。
- 王暉も同様に吝嗇で、資産は富むのに妻子には粗末な食事しか与えず、部下による民への搾取を世宗が功臣ゆえに黙認したという。右神武統軍に至り、建隆四年(963年CE)、右領軍上將軍として卒した。
史論
- 太祖は漢・周に仕えていた頃、多くの将校と兵間を共にした。宋建国後、彼らは分藩・立朝して地位が太祖と相並ぶこともあったが、皆その猛悍で屈しがたい気性を折って首を垂れ、力を尽くして仕えた。楊雄の「これを御するに道を得れば、狡猾な者もみな役に立つ」との言葉のとおり、これは太祖の英武さが創業の君主たる所以であろう、と評される。