出自と生涯
- 同州白水の人。父専は後唐左諫議大夫。同光中に進士に及第し、内艱で辞官後、河東節度推官を経て晉祖に廉介を重んじられ即位後戸部員外郎・翰林学士・中書舎人となる。
- 天福三年(938年CE)、百官が上奏する際、賢者登用と国政の要諦を論じた疏を奉り帝に嘉されて典令とされた。翌年、御史中丞として朝会儀礼・楽章を詳定。刑部門下二侍郎を歴任、少帝即位で工部尚書・礼部尚書・知貢挙。
- 進士試の旧制(夜試を三燭で継続する制度)を長興二年に昼試に改めたが、貞固は昼の日照時間が短く選抜が不十分になると奏し夜試を復活、評判が高かった。刑部尚書、潁州團練使を経て漢祖入汴の際、百官を率いて滎陽で出迎えた。
- 漢の宗廟制定議論で、王制の七廟の規定を引き、光武を始祖とすべきとの正論を上言し採用された(周辺の異説を退けた)。吏部尚書を経て、蘇逢吉・蘇禹珪ら覇府出身の宰相に対し旧臣として重んじられ、司空門下侍郎平章事弘文館大学士に拝された。
- 若い頃に蠱毒に中り喉に異物が詰まっていたが、宰相就任の日に大吐して蜥蜴状のものが銀盤に落ち、悪臭が百歩も漂ったという逸話が残る。隠帝即位で司徒、本貫を「賢相郷班瑞里」から「勲貴里」に改称。楊邠・史弘肇・王章らの専横を制止できず、周祖挙兵時は蘇逢吉とともに隠帝軍に従うが敗れ逢吉は自殺、貞固は周祖に帰順。
- 太后の制により蘇禹珪・王峻と軍国政事を掌り、周祖即位後は侍中を兼ねるが、馮道が首相となると監修国史に改まり、まもなく罷相して司徒・沂国公。世宗即位で范質が司徒となると、貞固は洛陽に帰り編民として課役を負うこととなり、留守向拱に訴えるも聞き入れられなかった。
- 宋初、三公として朝謁を求めたが范質に取り合われず洛陽に戻り、山水に放浪し布衣とともに歌妓を伴って遊んだ。開寶二年(969年CE)病篤く自ら墓誌を書き、享年七十八で卒した。