曹翰
- 曹翰は大名の人で若くして郡の小吏となり気性が荒く郷里に評判が悪かった。後漢の乾祐初め周太祖の鄴鎮に語らって奇才とされ世宗の帳下に隷した。
- 世宗が澶淵の鎮にあった頃、太祖(当時開封尹)の病に際し、召しを待たず参内して「王は世子でありながら医薬に侍せず外廷に決を委ねるのは天下の望みを失う」と諫言し、世宗はこれを悟り府事を曹翰に委ねた。
- 世宗即位後供奉官を補し高平の戦に参謀、樞密承旨に遷り決河の護塞を行った。淮南征伐で正陽に鎧甲を残し降卒八百を護送した際、劫奪を恐れて誤って殺害してしまったが、世宗に「賊が困窮して帰順したのは心服したわけではなく、器甲を奪われれば再び淮南の乱を生む」と弁明し不問とされた。
- 瓦橋関征伐後知雄州、世宗大漸の際、范質が王著の宰相起用を諮った際、曹翰は王著の酒癖と自身の専断を理由に反対しいずれも見送られた。徳州刺史を経て宋初、澤潞征伐から済州刺史。
- 乾徳二年蜀征伐で均州刺史として澗谷を通じる道を開削、西南諸州転運使として石門から帰州への糧運を絶やさなかった。全師雄の郫県の乱を劉光毅・曹彬らと平定、吕翰の嘉州拠守の乱も夜襲の逆用で破った。
- 蔡州団練使、開宝二年太原征伐で行営都壕砦使、澶州の河決壊治水で銀器を沈めて祭ったという逸話も残る。江南征伐で行営先鋒使として池州・金陵を攻略、江州の反抗(胡徳・宋徳明)を五ヶ月かけて陥落させたが屠城し無噍類(皆殺し)としたと伝わる。廬山東林寺の鉄羅漢像五百体を輸送させたという話もある。
- 桂州観察使・判潁州を経て、太平興国四年太原征伐で攻城南面都部署、劉遇との配置を巡り朝廷の裁定で西北面を担当、水源確保の逸話(娘子廟で祈祷し水を得た)、幽州征伐での「蟹(解に通じる)」を用いた班師の予言など機知に富んだ逸話が伝わる。
- 威塞軍節度使、幽州行営都部署として南河開削・築堤を行い、五色旗による斥候制度を整えたが、郡での苛政・私的兵器取引が発覚し、御史滕中正の鞫問で棄市の判決を受けたが減刑され登州に流された。
- 雍熙二年右千牛衛大将軍として復帰、淳化三年、六十九歳で卒し太尉を追贈された。陰狡で多智、大酒を飲んでも乱れず、上奏では数十条を暗記した。「退将詩」の逸話も伝わり、咸平元年武毅の諡を賜った。