郭守文
- 郭守文は并州太原の人。父の暉は後漢で護聖軍使を務め、周太祖に従い河中で戦死した。郭守文は十四歳で喪に服し、周太祖に憐れまれて帳下に召された。
- 広順初め左班殿直を補し、宋初西頭供奉官、蜀平定後は知簡州として剣外の乱を鎮撫。潘美の嶺南征伐に従い劉鋹捕獲を急報する使者を務めた。曹彬の江南平定にも従い李煜の護送を担当、李煜の不安を「国家は疆土回復を求めるのみで後の責を問うことはない」と慰めた逸話が伝わる。
- 太平興国初め、秦州内附の際の撫諭を任され西夏を悦服させた。汴水・霊河県の決壊の治水を歴任、太原征伐で梁迥と行営馬歩軍を護衛し、劉継元の弟継文の代州拠守を討ち平げた。定州屯兵の護衛として蒲城で遼を大破し内客省使に抜擢された。
- 滑州房村河の決壊治水、雄州の遼侵攻への援軍を歴任。雍熙二年三交屯兵、夏州鹽城鎮の岌羅膩等十四族・咩嵬族を討ち、銀麟夏三州百二十五族一万六千余戸の帰順を得て西鄙を安定させた。
- 雍熙三年北伐で幽州道行営前軍歩軍水陸都監として遼軍と戦い流矢を受けながらも督戦を続けたが、大軍の不利により逗留の罪で降格(曹彬伝に詳しい)。翌年職を復し宣徽北院使、田欽祚と共に北面排陣使として鎮州に屯した。
- 端拱初め南院使、鎮州路都部署、鎮定高陽関両路排陣使として遼騎の南侵を唐河で大破。端拱三年、五十五歳で卒し侍中・忠武の諡と譙王の追封を受けた。
- 沈厚で謀略に富み書に通じ、朝退後は毎日習字を欠かさなかった。将臣が功を求めて争って敵を招く風潮の中、郭守文は常山を鎮めて経略した。卒後、家に余財がなく士卒への俸禄・賜与を全て分け与えていたことが判明し、太宗は嘆息して銭五百万を家に賜った。娘は真宗の夫人(後の章穆皇后)となった。子の崇徳は太子中舎、崇信は西京左蔵庫使、崇儼は崇儀使など、いずれも后の兄として優遇された。