出自と経歴
- 王仁贍は唐州方城の人。若くして倜儻、刺史劉詞に仕え、詞の遺表で太祖の帳下に招かれた。宋初、武徳使・左飛龍使を経て建隆二年右領軍衛将軍・樞密承旨となり、高継沖の荆南帰順後は知軍府事を務めた。
- 乾徳二年樞密副使、蜀征伐で鳳州路行営前軍都監となったが、蜀平定後に捕虜の財貨没収・降兵殺害・蜀土擾乱の罪で右衛大将軍に降格された。
- 実は大将王全斌らの貪財・軍政廃弛が原因であったが、太祖の詰問に王仁贍は他将の過失を挙げて自らを弁じようとして失敗し、罷免の一因となった。
- 太祖の洛陽行幸に判留守司三司兼知開封府事、東京留守兼大内都部署、判三司を歴任、太平興国初め北院使・検校太保に加えられた。太平興国五年、近臣・戚里が竹木を私的に運んで倍利で官に売却していた事件を密奏し、范旻・杜載・呂端ら多数の関係者が処罰された(王承衍・石保吉・魏咸信ら駙馬都尉も含む)。
- 太平興国七年、政事を巡り僚属と争って辞に窮し右衛大将軍に降格、翌日唐州防禦使に改められた。三司を十年近く掌り下吏の不正を放置していたことが積年の弊として露見し、陳恕らの摘発により失脚、怏怏として病を得て六十六歳で卒した。
- 太宗は後年、王仁贍が三司財賦を私しつつ改革を阻んでいたことを語り、後任者が数倍の収益を上げたことを述べた。子の昭雍は崇儀副使。