出自と生い立ち
- 李崇矩は字を守則といい、潞州上黨の人。幼くして孤貧、至孝の行いで郷里に推服された。後漢の高祖が晋陽から上党へ進んだ際、先鋒都校の史弘肇に召されて親吏となった。
- 史弘肇が乾祐初め禁兵を総べ京城巡検を兼ねて残殺を行った際、左右の者は皆離れたが李崇矩のみ謹んで仕え、弘肇誅殺後も難を免れた。周太祖は弘肇の旧恩により李崇矩を探し出し、弘肇の遺族の扶養を託した。李崇矩は弘肇の弟福を見つけ、自ら管理していた財産を全て福に渡した。
経歴
- 周太祖は李崇矩を世宗の帳下に隷させ、顕徳初め供奉官を補し高平の戦功で供備庫副使・作坊使となった。恭帝嗣位後は南唐への告哀の使者を務め、判四方館事に転じた。
- 宋初、李筠の叛乱に龍捷驍武左右射禁軍数千を率い、大会砦を陥として澤潞南面行営前軍都監となり、石守信・高懐徳・羅彦瓌と共に碾子谷で李筠軍を破った。澤潞平定後、先に入城して図籍・府庫を検分し、上党は自らの郷里であるとして父の柩を京師に護送する許可を得た。
- 判三司張美の出鎮後、右監門衛大将軍・三司使を拝し、李重進討伐に従って宣徽北院使・判三司となった。乾徳二年、趙普に代わって樞密使、五年検校太傅を加えられた。
- 剣南平定後の吕翰の乱で連座者の誅殺が議論された際、李崇矩は「万余人を誅すれば無実の者も含まれる」と太祖に諫言し、全員赦免された結果、吕翰の党も次第に自ら帰順した。
- 開宝初め太原征伐からの班師に際し常山で病んだが、皇帝から賜った涼車での帰還を「至尊の御物を使うのは死を早めるだけ」と固辞した。
- 娘を趙普の子承宗に嫁がせ両家は親密だったが、太祖はこれを快く思わなかった。門下の鄭伸に讒言され不問に付されたが鎮国軍節度に左遷された。六年に左衛大将軍として帰京、太平興国二年河堤の巡視、その後邕貴潯賔横欽六州、瓊崖儋万四州の都巡検使を歴任し、私財を惜しみなく分け与えて黎族の帰服を得た。
- 雍熙三年宋偓に代わり判右金吾街仗、端拱元年、六十五歳で卒し太尉・元靖の諡を贈られた。
- 性は純厚寡言で信義を重んじ、史弘肇の子孫を厚遇し続けた。嶺海に四五年在任しても炎荒を厭わず、渡海も一日で成し遂げた。仏教に篤く七十万人に飯を施し、黄白術(錬金術)を好み、詐りと知りつつも仙人と称する者を招いて師事した。
李崇矩の子――繼昌
- 繼昌は字を世長といい、崇矩と太祖の親交により幼くして西頭供奉官を補された。太祖が公主の婿にと望んだが崇矩は謙譲し、代わりに自ら妻を娶らせた。
- 開宝五年如京副使に転じ、東頭供奉官として大名府商税を監督し功績を挙げた。淳化中、斉の飢饉で盗賊が横行し登莱沂密七州都巡検使となり、至道二年蜀賊平定後の峡路二十五州軍捉賊招安都巡検使に任じられた。賊酋喩雷焼者を金帯の偽りの贈与で油断させ討ち取った。
- 咸平三年、王均の乱で雷有終らが偽りの敗走に乗じて城に入ろうとした際、独り砦を守り破滅を免れた。有終の危急に際しては軽々に動かず主帥の命を待つ姿勢を貫き、彌牟砦を破って千級を斬り、成都入城後は民を害さぬよう厳戒し、捕えた婦女童幼は事後に家へ帰した。
- 景徳年間、契丹との通交にたびたび使者を務め、鎮戎軍・鄜延路の要職を歴任。目疾により求めて帰京したが厚遇され、天禧初め、子の遵朂が万寿長公主の駙馬となった縁で真宗の厚い恩顧を受け、天禧二年冬七十二歳で卒した。
- 性謹厚で士大夫に慕われ、寛政を尚び民に慕われた。峡路在任時、同僚上官正の苛烈な処断を諫めて緩和し、鄭伸の困窮した母を憐れんで白金百両を与えた逸話が伝わる。