宋史卷二百五十五 列傳第十四 王全斌
并州太原の人。後唐・後晉・後周を経て仕えた武将で、宋初は蜀征討の主将として西川行營前軍都部署をつとめ、乾徳四年に後蜀を降した。しかし成都平定後の略奪など軍紀の乱れが発覚し節度観察留後に降格されたが、のち武寧軍節度に復し、赴任後まもなく年六十九で卒した。
前歴
- 并州太原の人。父は後唐荘宗に仕え岢嵐軍使、私兵百余人を養い荘宗に疑われた際、全斌は十二歳で自ら人質を申し出て父を救った。荘宗入洛後、内職を歴任し同光末の内難では全斌が符彥卿らと共に宮中で防戦、荘宗が流矢を受け絳霄殿へ運ばれるのを見送り慟哭したと伝わる。明宗即位で禁軍列校、後晉初年侯益の張從賓討伐に従い䕶聖指揮使、後周廣順初年龍捷右廂都指揮使、慕容彥超討伐で行營馬歩都校、顯徳中向訓の秦鳳平定に従い恩州團練使、泗州防禦使、世宗の淮南平定・瓦橋関攻略に従軍し相州留後。
宋初の武功
- 宋初、李筠の潞州叛乱討伐で慕容延釗と東路会兵し安國軍節度、西山堡砦の修築を命じられた。建隆四年郭進らと太原境に入り数千を捕虜、乾徳二年冬忠武軍節度、同年蜀征討の詔が下り西川行營前軍都部署に任じられ禁軍歩騎二万・諸州兵一万を率い鳳州路から進軍。
蜀征討
- 乾渠・萬仞・燕子二砦を渡り興州を落とし、藍思綰の西縣退却に伴い蜀軍七千を破り四十余万斛の軍糧を得た。石圖・魚関・白水二十余砦を攻略、先鋒史延徳が三泉で蜀軍数万を破り招討使韓保正・副使李進を捕らえ、崔彥進・康延澤らが嘉陵まで蜀軍を追撃した。蜀軍が閣道を断ったため羅川路を進む議論となり、延澤の献策で崔彥進・延澤が閣道を修復しつつ本隊は羅川から深渡で合流、金山砦・小漫天砦を攻略。蜀軍が江を頼りに陣を敷いた際、彥進が橋を奪い大漫天砦を攻略、蜀将王審超・監軍趙崇渥は逃走、劉延祚・王昭遠・趙彥韜の軍とも三戦三勝、利州まで追撃し昭遠は桔柏江を渡り橋を焼いて剣門に退いた。利州で軍糧八十万斛を得て剣門へ進軍中、諸将の議論の末、降卒牟進の情報で来蘇の間道の存在が判明、康延澤が「本隊は劍門で協力攻撃、偏将のみ来蘇へ」と献策し採用され、史延徳が来蘇に浮橋を築くと蜀軍は砦を捨てて敗走、昭遠は漢源坡に退き剣門を守る偏将は全斌らに撃破され、昭遠・崇韜は逃走の末捕らえられ京師へ送られた。剣州を克し蜀軍万余人を殺した。
- 乾徳四年正月十三日、魏城に至った時、孟昶は使者を送り降伏を申し出た。全斌らは成都入城後、峡路から遅れて到着した劉廷讓らにも孟昶の贈物や慰労が同等に配られたことから両路の軍が反目、諸将合議の原則も形骸化した。蜀兵の帰還命令に伴う恩賞への不満から蜀軍は綿州で叛乱を起こし十余万に膨れ「興國軍」を自称、蜀の交州刺史全師雄が推されて主帥となった。全斌の派遣した都監米光緒が師雄の一族を殺害し家財を奪ったため師雄は帰順の意思を失い、綿州を急攻したが劉福・田紹斌に敗れ彭州に転じ、刺史王繼濤・都監李徳榮を殺害し成都十県が呼応、師雄は「興蜀大王」を自称し節帥二十余人を各地に配置した。
- 崔彥進・張萬友・髙彥暉・田欽祚が討伐に赴くが師雄に敗れ彥暉は戦死、欽祚は辛くも脱出。張延翰・張煦の討伐も失敗、師雄は各地に勢力を広げ卭・蜀・眉・雅・東川・果・遂・渝・合・資・簡・昌・普・嘉・戎・榮・陵の十七州が呼応、通信も途絶した。成都に残った蜀兵二万の内応を恐れた全斌らは、これを夾城に誘い出して悉く殺害した。まもなく劉廷讓・曹彬が新繁で師雄軍を破り万余人を捕虜、師雄は郫県に退くも全斌・仁贍が破り灌口砦に逃れた。陵州指揮使元裕が師雄の任命した刺史として立てられていたが仁贍に生擒され成都市で磔刑となった。虎捷指揮使呂翰も嘉州で叛乱を起こし劉澤の党と合流し五万に膨張、普州・果州でも州牙校らの叛乱が続いたが、仁贍らが呂翰を雅州で破り、翰は黎州で部下に殺された。師雄は金堂で病死し謝行本・羅七君が後継となったが康延澤に破られ、仁贍が呂翰残党を雅州で破り、丁徳裕らが招撫にあたり反乱は鎮まった。
- 全斌の入蜀に際し、太祖は京城の大雪の際、自ら着ていた紫貂裘帽を脱ぎ中黄門に持たせ全斌へ届けさせ、「西征の将士は霜雪に耐えているだろう」と諸将にも配慮を示した逸話がある。成都平定後、参知政事呂餘慶が知府事となり全斌は軍旅のみを掌ったが、全斌自身は古来の将帥の末路を憂い早期の帰還を望んだが躊躇する内、成都平定の際の民家からの女子・玉帛の略奪など不法行為の訴えが集中し、太祖は当初功臣として獄吏を用いず中書での問状に留めたが、事実が明らかになると詔で厳しく糾弾し、隠没金銀犀玉銭帛十六万七百余貫・豐徳庫の擅開による損失二十八万一千余貫が指摘され、御史台の朝堂集議で百官が大辟(死刑)相当と議したが、太祖は「有征無戦」の理念に照らし、忠武軍節度王全斌・武信軍節度崔彥進を崇義軍・昭化軍の節度觀察留後にそれぞれ責め降し、王仁贍は右衛大將軍に降格するにとどめた。
- 開寶末、金陵平定を機に太祖は全斌を武寧軍節度に復し「江南平定前は諸将の紀律遵守を促すため数年抑えていた」と説明し銀器万両・帛万匹・銭千万を賜った。全斌は鎮に赴き数月で年六十九で卒し中書令を追贈された。天禧二年孫の永昌が三班奉職に録された。全斌は財を軽んじ士を重んじ名声を求めず寛厚で軍旅に慕われ、山郡での十余年の左遷生活も泰然としていたと評される。子は審鈞(崇儀使・富州刺史)・審銳(供奉官閤門祗候)、曾孫の凱。
王凱――生涯
- 字は勝之。祖の審鈞は永興軍駐泊都監として賊討伐で戦死、家は京兆に留まり富裕であった。凱は財を散じて客を結び狩猟に興じ民田を荒らして官に捕らえられたが、寇準が全斌の功績と審鈞の忠義死を理由に恩赦を進言し三班奉職に用いられた。鳳翔盩厔税監、益州市買院監、慶州合水鎮兵馬監押、在京草場監督では不正を摘発し左遷を免れた逸話がある。雄州兵馬監押から閤門祗候・定邢趙都廵検使に擢用。元昊反乱で麟州都監として双烽橋・染枝谷で夏軍を破り、麟州包囲を三十一日守り抜き西頭供奉官に転じ、内殿崇班・麟州路緣邊都廵検使としても夏軍を撃退し続けた。兎毛川の戦いでは三万の敵に六千で応戦し流矢を顔に受けながらも戦い続けた。
- 南作坊副使、并代州鈐轄・管勾麟府軍馬事、夏軍二万の青塞堡侵攻を鞋邪谷から追撃し大破、経略使明鎬の推薦で資州刺史。甘陵の盗賊平定にも従軍し澤州刺史・知邠州、神龍衛四廂都指揮使・澤州團練使、環慶并代定州路副都總管、捧日天武四廂綿州防禦使、侍衛親軍歩軍副都指揮使涇州觀察使を経て秦鳳路転任時、唃氏木征との交易途絶による侵寇の懸念に対し「安静に処すべき」と諭され、恩信をもって撫し常貢を復させた。武勝軍節度觀察留後侍衛親軍馬軍副都指揮使まで進み、年六十六で卒し彰武軍節度使を追贈、諡は莊恪。凱は軍紀に厳格ながら士卒と飲食を共にし、戦の実績で信望を集め旧友への情も篤かった。子の緘、孫の詵は詩画に長け蜀國長公主に尚した。