宋史卷二百五十五 列傳第十四 張永徳

生涯

  • 字は抱一、并州陽曲の人、家は資産に富んだ。曾祖の丕は後唐武皇の太原鎮守下で富家の子を厳選し財政管理を担い、期日通りに府財を余らせ、翌年も職を続け郷里に義を示した逸話が伝わる。父の頴は晉で安州防禦使。永徳は四歳で生母馬氏を離縁され祖母に育てられ、継母劉氏にも孝を尽くした。周祖が侍衞吏だった頃、父頴と親しく永徳を娘の婿とした。永徳は乱世を避けて母妻を粗末な衣に変え物乞いを装って賊禍を免れた逸話がある。
  • 周祖が樞密使のとき供奉官押班に推挙、乾祐中周祖の従兄弟である潞帥常遇への使者となり、周祖の族滅の密詔が発せられた際、永徳は密かに真意を察し遇に「密使は私を殺すためでは」と迫り、遇を説得して周祖への警戒を解かせた。逸話として、後唐末に掖庭に入った柴氏の女(周祖の后の由来)が「花項の隊長(周祖)は貴人」と見抜き資金援助した話や、柴翁が寝言で「花項漢が天子になった」と漏らした話が伝わる。周祖登位後、永徳の妻を晉國公主に封じ、永徳は左衛將軍・内殿直小底四班都知・駙馬都尉・和州刺史を経て殿前都虞候・恩州團練使、殿前都指揮使・泗州防禦使(時に年二十四)。
  • 顯徳元年、劉崇の高平侵攻に対し太祖と共に二千の牙兵を率い大勝、崇軍七千余を降した。世宗が樊愛能・何徽の臨陣逃亡を処罰しようとした際、永徳は「疆域拡大を望むなら厳罰すべき」と進言し二将は誅殺され軍威が上がった。太原攻めでは彥卿・史彥超と忻口で契丹の援軍路を扼し、契丹軍来援で彥超が戦死したが二千余を破り遁走させた。武信軍節度、義成軍節度に転じ、父頴が隷人に殺され南唐に逃れる事件もあった。夀春攻略では劉仁贍の堅守を疑兵で誘い出し伏兵で大破、仁贍を辛くも逃した。世宗親征で仁贍が澄ら三人を送って講和を求めたが太祖と共に紫金山の呉軍十八砦を攻め、伏兵で第一砦を落とし翌日第二砦も攻略、更に韓令坤援護、泗州軍撃破、下蔡屯駐と転戦した。
  • 呉の樓船艦隊による夜襲の企図を、風向きの変化を機に撃退し、水練の兵に船底を鎖で繋がせ巨艦数十艘を奪う戦法で防禦を固め、金帯を褒賞として与えた。淮北岸でも千余を破り、殿前都㸃檢に擢用、四年夀州克後檢校太尉・鎮寧軍節度、五年契丹侵攻で歩騎二万を率い拒戦、北伐に従軍後解兵し檢校太尉同中書門下平章事。恭帝嗣位で忠武軍節度、太祖即位で侍中兼加、武勝軍節度。太祖の密かな太原攻略策問に「太原の兵は少数だが精強、契丹の援がある間は取り難い、遊兵で農事を妨げ間諜で契丹の援を絶ってから攻めるべき」と献策。
  • 金陵征討では私財で戦船数十艘を造り糧米を運んだ。豪商高進が永徳を誣告した事件では、太祖が調査を命じ真偽を確かめた上で高進を永徳に引き渡し、永徳は縛を解いて笞刑のみで釈放し「長者」と評された。太平興國二年来朝、左衛上將軍、竹木交易矯制で降格されるも復し、六年鄧國公封。雍熙中滄・雄・定三州を歴任、端拱元年安化軍節度、河北両路排陣使として定州に屯し契丹戦で戦功、淳化中鎮州知事・泰寧軍節度兼侍中で判并州兼并代都部署。天文術に通じ、遼の侵攻を占って「歳星が逆行し兵家の大忌、必ず敗れる」と予言し、折御卿の勝報が届き人々を驚嘆させた逸話がある。
  • 太宗の商業規制令に反し親吏に茶を販売させ利を図った事件が発覚し左衛上將軍に降格。真宗即位で衞國公封、老齢により判左金吾街仗事、咸平初年太子太師で分司西京、孫の文蔚を近侍させた。契丹入辺時、真宗の北巡に際し宿将として召され意見を求められたが老齢で従軍せず東京内外都巡検使、檢校太師・彰徳軍節度知天雄軍を経てまもなく本鎮に還り、その秋年七十三で卒し中書令を追贈。孫五人が官を進めた。永徳の生母の再婚先の家との交流や、生前の医術修業・方士との交遊の逸話も伝わり、太祖の孝明皇后擁立を密かに支援したことで宋朝を通じて恩寵が絶えなかったという。孫は文蔚(虞部員外郎)・文炳(殿中丞)。