宋史卷二百五十三 列傳第十二 折徳扆

折徳扆は代々雲中に住む大族の出。父の折從阮は独力で府州を保った西北の押さえで、徳扆はその跡を継ぎ後周世宗により永安軍節度使とされた。宋にも仕え、河市鎮攻略や太原軍撃破などの戦功を挙げ、乾徳二年に年四十八で卒し侍中を追贈された。

年表(5件)
  • 廣順年間後周世宗により府州が永安軍とされ徳扆が節度使となる
  • 顯徳中河市鎮を攻略し并軍五百余級を斬る
  • 建隆二年来朝し厚遇される
  • 乾徳元年太原軍を城下で破り将の楊璘を捕らえる
  • 乾徳二年年四十八で卒し侍中を追贈される

出自と生涯

  • 代々雲中に住み大族であった。父の折從阮は後晉・後漢以来独力で府州を保ち西北の押さえとなり、後周に仕えて静難軍節度使に至った。府州鎮守中、徳扆を馬歩軍都校に署任。廣順年間、後周世宗が府州を永安軍として徳扆を節度使とし、從阮も邠寧に鎮するという父子ともに節鎮を領す栄誉があった。
  • 顯徳中、河市鎮を攻略し并軍五百余級を斬り、入朝に際し弟の徳愿に州事を委ねた。世宗の南征帰途、徳扆は迎えて内地への移住を願ったが、蕃情に通じているとして許されず厚く賜与された。徳愿もまた沙谷砦で并軍五百余を破り将の郝章・張釗を斬った。宋初、徳扆は河東沙谷砦で五百級を斬り、建隆二年に来朝し厚遇された。乾徳元年、太原軍を城下で破り将の楊璘を捕らえ、二年年四十八で卒し侍中を追贈された。子は御勲・御卿。

折御勲――生涯

  • 字は世隆。徳扆の府州在鎮中に右職を表され、徳扆卒後汾州團練使・權知府州事。開寶二年太祖の太原親征に謁見し永安軍留後、四年郊祀で来朝し帰鎮、九年西洛での郊祀で再び来朝の途中病により遅参し泰寧軍節度使に改まり留京。太平興國二年年四十で卒し侍中を追贈された。

折御卿――生涯

  • 幼くして節院使を補され、御勲の知州事の下で兵馬都尉に署任。御勲の移鎮に伴い閑廐副使・知府州事。太宗の河東親征で尹憲と共に嵐州攻略、岢嵐軍を破り軍使折令圖を捕らえて献じ嵐州も陥落、憲州刺史霍翊を殺し將馬延忠ら七人を捕えた。崇儀使に遷り淳化三年四遷して府州觀察使、五年永安軍節度使。契丹の万余の侵入を子河汊で大破し五千級を斬り馬千匹を得た。契丹将「突厥太尉」「司徒錫里」ら二十余人が戦死、吐渾一人を捕らえた。太宗の問いに御卿は「敵は山峡の小径から侵入を謀ったが、我が諜報がこれを知り帰路を邀撃した」と謙譲した。
  • のち御卿は病中、契丹将韓徳威が李繼遷の誘いに乗じ来襲したが、御卿は病を押して出陣し、徳威は進むことができなかった。病が篤くなり母が密使を送って呼び戻そうとしたが、御卿は「世々国恩を受け辺寇未だ滅びぬのは我が罪、今臨敵にして士卒を棄て自ら安んずるは死してもなお恥である、忠孝は両立し難い」と述べ泣いて翌日年三十八で卒した。太宗は深く悼み侍中を追贈、子の惟正を洛苑使・知州事とした。惟正の帰朝後は弟の惟昌が継いだ。

折惟昌――生涯

  • 咸平二年、河西黄女族長䝉異保及び惟昌配下の啜訛が趙保吉(李繼遷)の軍を導き麟州万戸谷に侵入。惟昌は從叔の海超・弟の惟信と共に戦い、惟昌は流矢で落馬し辛くも脱出、海超・惟信は戦死した。九月、保吉の党萬私保移埋が再侵し、惟昌は宋思恭・劉文質と共に埋并峯で撃退、言泥族を破り拔黄砦を焼き払い富州刺史を領した。文思使に改まり景徳元年王萬海らと賊砦を破り麟州へ芻糧を護送、朔州境の狼水砦を破った。翌年興州刺史、大中祥符二年入朝し真宗より旗三十竿を賜る。七年麟州への糧運護衛の任務中に病が篤化しながらも宴に興じ、翌日年三十七で卒した。弟の惟忠が継いだ。

折惟忠――生涯

  • 字は藎臣。兄惟信の戦死により西頭供奉官・閤門祗候、惟昌卒後六宅使・知府州兼麟府路都廵検使・普州刺史、左藏庫使・嘉州刺史・資州・簡州團練使を歴任し母喪で起復、雲麾將軍で卒した。天聖中、契丹と夏国が境上で会兵し婚姻を口実にした動きを偵察で見抜き、風霾の夜に営中に馬が走り込んだ際も動じず捕らえて虜が放った策略と判明させた逸話がある。卒後、耀州觀察使を追贈。子の折繼宣が継いだが苛虐で種族の怨みを買い左監門衞將軍に降格、弟の繼閔が継いだ。

折繼閔・繼祖・繼世――生涯

  • 繼閔、字は廣孝。慶暦中、元昊の麟州攻撃を城の険阻さで防ぎ、豐州陥落後も功により宮苑使・普州刺史。麟州戍卒の護送中に賊の伏兵に遭い脱出、その後帰業した戸三千余を招撫した。皇祐二年卒し弟の繼祖が継ぐ。
  • 繼祖、字は應之。皇城使・成州團練使として二十余年治政、韓絳の河東出兵で先鋒として深く敵地に入り部落八百戸を降し解州防禦使。子は兄の子克柔に襲わせるよう願い出て許された。
  • 弟の繼世は延州東路廵検として嵬名山の内附を先に察知し种諤に伝え、諤は綏州を得た。懐寧砦で夏軍と再戦し勝ち、忠州刺史を領した。韓絳に囉兀城築を説き横山撫定・河南収復の策を進言、左騏驥使・果州團練使で卒した。

折克行・可適――生涯

  • 克行、字は遵道、繼閔の子。夏人の環慶侵攻を种諤が拒む援軍として三千の兵で餉道を護り葭蘆川で先登し四百級を斬った功で「真の折太尉の子」と評され知府州に擢用。夏国討伐では独断で先鋒を願い出て大酋咩保呉良の万騎を撃破し殺害、王中正の出塞では宥州を先取。孫覧の葭蘆城築の議で策を示し諸将を導き、河東進築八砦の議でも「敵の隙を突くため遠地の役を先にすべき」との策を主張し採用され成功した。辺境三十年、士卒を篤く撫し戦功随一で羌人に「折家父」と呼ばれ、秦州觀察使を経て卒し武安軍節度使を追贈された。子の可大は榮州團練使・知府州、從子の可適。
  • 可適は若くして武勇で知られ、种諤の出塞で単騎で敵を斬った逸話や、米脂の役での戦功、饑えて逃げた兵千人を叛と誤解されず説得帰順させた逸話、夏軍十万の侵攻に対し烽卒に扮して敵の監視網を崩し尾丁磑で大破、洪徳での伏兵で夏の国母を敗走させ輜重を焼き払わせた功などがある。皇城使・成州團練使・知岷蘭州鎮戎軍を経て好水川築城で部下の失道の責を負わされ削官も、章楶の請で留任し功を挙げ続けた。夏の実力者嵬名阿埋・昧勒都逋を密かに図って天都山を取り、西安州が置かれた功で東上閤門使・洺州防禦使等に累進、靈武攻略にも参加。武安軍節度觀察留後・歩軍都虞候まで進んだが蕭關の議で鍾傅と齟齬し貶降、淮康軍節度使を経て召還後まもなく年六十一で卒した。子の彦質は紹興中に樞密院簽書となり別伝がある。