宋史卷二百五十二 列傳第十一 侯章

生涯

  • 并州榆次の人。後唐荘宗の隊長から明宗朝で小校、後晉開運末忠衞指揮使・陝州屯兵・内外馬歩軍都指揮使兼三城廵検使。契丹の中原侵入に対し趙暉・王晏と謀って劉愿を斬り漢祖に款を通じ、漢祖入汴で鎮國軍節度、乾祐初年同平章事、邠州移鎮。邠州在鎮では善政なく傲慢で、逃亡した戸の税を貧民に肩代わりさせながら自らの俸給を出したと偽って表彰を受け、副使趙彥鐸の良馬を欲して謀反を誣告し殺害するなど不問に付された悪政があった。檢校太師、後周初年侍中兼加、廣順二年入朝の献上を世宗が「諸侯の朝貢に頼らず宴を賜るべき」として辞退させた逸話がある。
  • 鄧州節度、後周太祖親郊で開府階・申國公封、世宗即位で中書令兼加。世宗の壽陽親征で攻城水砦都部署(王璨副)、西北水砦都部署、武勝軍節度。建隆元年太子太師・楚國公封。節鎮を退いた後、朝堂で晉漢時代の話をした際に軽んじられ「遼主の病で嵩山への避暑を上書する者もいたが、私は武で富貴を得た粗野な者ゆえそのような諂いはせぬ」と厲声で述べ座の者を恥じ入らせた逸話が残る。乾徳五年卒した。

史論

  • 王景らは微賤の頃、盗賊や薪売りに身をやつしていたが、五代の乱を経て軍功により辺要を治めるに至った。宋の興隆に際し北に向かい稽顙し、太祖は誠信をもって遇したから安穏であるべきだったが、景は利に趨り図を改めた末に滅族に至った。王晏・郭從義は怒りに任せて人を死に至らしめる誣告を行い、侯章は藩邸において下を剥する悪名があり、李洪義は外戚の縁に狎れて忠節を欠いた。これらは皆乱世の習いが抜けきらなかったためであろう。武行徳が洛邑を守り欺罔を見抜いて民を畏服させた点は、これらの人々に優るものがあったといえよう。