宋史卷二百五十二 列傳第十一 王景
王景(萊州掖の人)は若くして騎射を好み、後梁末より後唐・後晉・後漢・後周・宋と歴仕した武将。行伍出身ながら刻薄な政を行わず民に慕われ、後周世宗の秦鳳征討にも功があった。建隆四年に年七十五で卒し、太傅を追贈され岐王を追封された。諡は元靖。
前歴
- 萊州掖の人。代々農業を営む家に生まれ、若くして騎射を好み生業に従事せず、里の悪少年と徒党を組んだ。後梁の大將王檀の滑臺鎮守下で麾下に入り後唐荘宗との黄河戦に功があったが、荘宗の入汴後に降り奉聖都虞候に累進。清泰末、張敬達の晉陽包囲に従軍中、契丹の来援により晉祖に帰順。後晉天福初年相州刺史、范延光の鄴叛乱に際し独り抵抗して晉祖に評価され耀州團練使、京城廵検使・洺州團練使を経て開運初年侍衞馬軍左廂都校。
- 契丹南侵に対し少帝の澶淵行幸中、高行周らと戚城で契丹を大破し侍衞馬軍都指揮使・鄭州防禦使、晉州廵検使知州事、横海軍節度を拝すが、契丹の汴入城で交代させられた。常山への帰途、契丹主の死を知ると欒城から間道で鎮に戻り契丹を退けた。
後漢・後周から宋への仕官
- 後漢乾祐初年同平章事を加え、契丹の饑饉で幽州民数千が滄州境に流入した際、田を給して手厚く撫めた。後周太祖とは微賤の頃からの旧知で、即位後は侍中を兼加。景は行伍出身で智略に乏しかったが刻薄な政を行わず、訴訟は面談で解決し部民に慕われた。廣順初年入朝の際、民が数百人道を遮り引き留めようとするほどであった。護國軍節度・鳳翔節度を経て顯徳初年褒國公封・開府階、世宗即位で中書令兼加。
- 秦鳳の蜀州陥落に伴い旁蕃漢戸が収復を請願し、世宗は景と向拱に大散関から出兵させ砦柵を陥落、西面行營都部署として上邽で蜀軍数万を斬り秦州を降した。秦州に移鎮し西面緣邊都部署を兼ね、恭帝即位で涼國公封。宋初、守太保・太原郡王封、建隆二年來朝し太祖の厚遇を受け鳳翔節度西面緣邊都部署に復す。四年年七十五で卒し太傅を追贈、岐王を追封、諡は元靖。
- 景が後晉に帰順した際、妻は誅殺され二子は逃亡して免れた。晉祖の厚遇に対し景は「昔卒として官妓侯小師を慕った」と申し出て晉祖はこれを賜り、寵愛して後に楚國夫人に封じられた。夫人が金を盗んで旧知に贈った時も景は咎めなかった。性は謙退で朝廷使者には身分の低い者にも礼を尽くし、「私はただ謹むことを恐れるのみ」と語った。郡王封の折には吏部尚書張昭を厚遇し「私が行伍にいた頃から張尚書の名は聞いていた、朝廷が厚遇するのは当然」と述べた。子は廷義・廷睿・廷訓(驍衞大將軍致仕)。
王景廷義・廷睿――生涯
- 廷義は供奉官から如京副使、騎射に長け世宗に虎捷都虞候に擢用され龍捷右第二軍都校・珍州刺史。宋初、内外馬歩軍副都軍頭。乾徳四年韓重贇と滑州靈河の堤を護り、六年京城修築の役を統率、開寶二年橫州團練使を加え太原征討に従軍。城攻めで冑と矢に頭部を撃たれ一夜で卒し年四十七、太祖は深く惜しみ建雄軍節度を追贈した。
- 廷睿は驕傲な性格で「自分は王景の跡を継ぐ」と誇言し人々の失笑を買い「王當代」と呼ばれた。