前歴
- 徐州滕の人。代々農業を営む家に生まれ若くして無頼で群盗を率いた。後梁末、徐方の大乱で属邑が他の盗賊に荒らされる中、晏の郷里だけは無事だった。後唐同光中禁軍に応募し奉國小校に累進。後晉開運末、本軍都校趙暉・忠衞都校侯章らと陝州を守備中、契丹の劉愿が暴虐を働くと「契丹南侵で天下騒然、太原の劉知遠公に款を通じれば富貴を得られる」と謀り、劉愿を斬って河東に款を通じた。暉が帥に推され、章は本城副指揮使、晏は絳州防禦使として旧職を務めた。
後漢・後周から宋への仕官
- 漢祖入汴で同平章事、後周太祖即位で侍中兼加。廣順元年劉崇の晉州侵攻を伏兵で撃退し百余級を斬った。武寧軍節度、滕國公封、世宗即位で中書令兼加。晏は鎮任にあたり故時の盗賊仲間を集め金帛を与えて改心を促し、境内は安定した。吏民が徳政碑・衣錦碑を立てるほど慕われ、世宗は鄉里を「使相鄉勲徳里」に改め私邸に㦸を立てさせた。
- 河南尹西京留守、顯徳三年鳳翔節度、六年世宗の北征で益津關一路馬軍都部署(韓令坤副)として三關平定に貢献。太祖即位で趙國公封、李筠討伐に従軍後、安遠軍節度、乾徳元年韓國公封、太子太師致仕を願い許され洛陽別墅に帰り、四年冬年七十七で卒した。廢朝三日、中書令を追贈。
- 晏は軍校時代の同郷王興との旧恩を薄遇し、興の妻が病んだ際に「妾妾を減らせば治る」と忠告されたのを誹謗と取り、無実の罪で誅殺した逸話がある。白重贊の河陽在鎮中、世宗淮南親征に乗じ并州が侵攻することを懸念して城壁を修めた際、晏は三城を兼有しようと兵を出したが重贊に拒否され撤兵した。