宋史卷二百五十一 列傳第十 符彥卿

符彥卿(字は冠侯、陳州宛丘の人)は後唐から後晉・後漢・後周・宋の五代にわたり歴仕した名将で、高行周らと共に契丹の侵攻をたびたび防いだ。陽城の戦いでは契丹の大軍を死戦の末に大敗させ、その勇名は契丹にも畏れられた。一門から周世宗の宣懿皇后・太宗の懿徳皇后の二后を出し、開寶八年に年七十八で卒した。

年表(7件)
  • 天成三年龍武都虞候・吉州刺史として王都討伐に従い嘉山で契丹を大破する
  • 清泰初年易州に改まり北面騎軍を兼領する
  • 後晉天福初年同州節度となる
  • 開運二年陽城で契丹の大軍に包囲されるも死戦して大敗させる
  • 建隆四年來朝し金鳳園の宴射で太祖の七発すべて的中し名馬を献上する
  • 開寶二年鳳翔節度に移るも病により西京に滞留し節制を罷免される
  • 開寶八年年七十八で卒す

前歴

  • 字は冠侯、陳州宛丘の人。父の符存審は後唐宣武軍節度蕃漢馬歩軍都總管兼中書令。彥卿は十三歳で騎射に長け荘宗に謹愿の評を得て親從指揮使、後に散員指揮使。郭從謙の乱で荘宗左右が逃げる中、彥卿は力戦し十数人を射殺したが乗輿に矢が集まり慟哭して去った。天成三年龍武都虞候・吉州刺史として王都討伐に従い嘉山で契丹を大破し翌年その城を克し耀州團練使、慶州刺史として方渠の堡を築き党項を招撫。清泰初年易州に改まり北面騎軍を兼領。
  • 後晉天福初年同州節度、兄符彥饒の反乱に連座して待罪を乞うが晉祖は不問とし左羽林統軍・鄜延に転じる。少帝と親しく河陽三城に鎮した。遼軍の南侵で澶淵にて防戦、鐵丘で高行周を包囲する契丹騎兵数万を数百騎で撃退した。青州の楊光遠討伐にも従軍し許州に移鎮し祁國公封。開運二年、杜重威・李守貞と共に陽城で契丹主率いる十余万に包囲され軍中の水が絶える窮地で、彥卿は張彥澤・皇甫遇と「座して擒われるより死戦すべき」と決意し順風に乗じて反撃、契丹を大敗させ器甲旗仗数万を得た。武寧軍節度同平章事に改まるが讒言により出師の外され荊州口の防備に配される。
  • 杜重威の降伏後、彥卿は高行周と禁兵を率い澶淵に屯し、張彥澤の遼軍導入で遼に帰順した。遼主の詰問に「臣は晉王に仕え死を惜しまぬ、今日の事は死生ともに命に従うのみ」と答え遼主は笑って許した。徐宋の盗賊蜂起に伴い遼主は彥卿を鎮に帰したが、途中の甬橋で賊魁李仁恕に城を包囲され、子の符昭序が城内から使者を送り「相公は国のため賊を討つべきなのに自ら虎口に入るとは、たとえ父子でも今日は敵として死戦する」と伝えると、賊は恐れて彥卿を解放した。

後漢・後周から宋への仕官

  • 後漢祖入汴で兗州に移鎮し侍中を兼加、乾祐中中書令を兼加し魏國公封・守太保、青州に移鎮。後周太祖即位で淮陽王封、王殷に代わり大名尹・天雄軍節度、衞王封。世宗初年、并州の潞州攻撃に対し彥卿は磁州固鎮路から後背を圧し、世宗親征では行營一行都部署兼知太原行府事として歩騎二萬を率いた。芻糧不足で撤退を望んだが世宗は認めず、忻口で郭從義・向訓・白重贊・史彥超と共に契丹の援軍を防いだが史彥超が戦死、諸将の議が割れ師は振るわず世宗は班師した。
  • 太傅・魏王封を経て恭帝即位で守太尉、太祖即位で守太師。建隆四年來朝し金鳳園の宴射で太祖の七発すべて的中、彥卿は名馬を献じて祝賀した。開寶二年鳳翔節度に移るも病により西京で滞留し洛陽での療養を願い出て許されたが、御史の弾劾で節制を罷免された(姻戚のため推鞫は免れた)。八年年七十八で卒し官給の喪儀を受けた。
  • 彥卿は勇略に富み用兵に長け、符存審の第四子で「符第四」と称された。賞賜は悉く帳下に分与し士卒に慕われた。契丹は陽城の敗戦以来彥卿を畏れ、馬の病にも「符王がいるのか」と呪ったという逸話がある。晉少帝が契丹に降った際、遼徳光の母が彥卿の所在を問い「彼を中原に留めれば失策であった」と評したという。大名在鎮十余年、政務は牙校劉思遇に委ねられ不正な租税徴収があったが太祖の是正命令で改められた。彥卿は鷹犬を好み、士人を礼遇し戦功を誇らなかった。周世宗の宣懿皇后・太宗の懿徳皇后は共に彥卿の娘で、恭帝・太祖両朝から詔書に諱を避けられる栄誉を受けた。

符彥卿昭愿――生涯

  • 字は致恭。謙約で読書を好み士を愛した。廣順中蔭補で天平軍牙職、興州刺史・恩州刺史・供奉官・羅州刺史・西京作坊副使・尚食使を歴任。陳許蔡潁等州の廵兵を護り太原征討・幽州攻略に従軍し宋偓と共に南砦を置いた。蔡州刺史・知并澶二州・并門副部署を経て本州團練使、永興軍・梓滑二州知事、天雄軍・邢州二鈐轄。咸平三年病により帰京、帝の名方・御藥を受け本州防禦使、四年年五十七で卒し帝は自ら哭して臨み鎮東軍節度を追贈した。子の承煦は左千牛衞將軍。

符彥卿昭夀――生涯

  • 開寶中供奉官・西京作坊副使、六宅副使・蘭州刺史を歴任。雍熙二年劉知信と共に鎮州屯兵の護送、北征の押隊都監、尚食使・光州刺史、端拱二年知洪州、淳化四年知定州、咸平初年鳳州團練使・益州鈐轄。
  • 昭夀は貴家の子として日々遊宴に耽り、簡倨で戎務を顧みず、決裁は家人任せで錦工を集めて綺帛を織らせ、市価より遅く支払い部曲に不正な取り立てを行わせ、未熟な穀物まで買い占めた。李順の乱平定後の劍南は人心不穏な中、知州牛冕の政も緩弛し、軍人の怨みは深まった。神衞卒趙延順ら八人が謀反を企て、三年正月に馬の轡を放って庭を騒がせ、昭夀を殺害し二人の従僕も殺し兵器庫を占拠、都監王澤の召集で都虞候王均が延順を捕らえたが、乱兵は王均を推して合流し反乱化した。知州牛冕・轉運使張適は漢州へ逃れ、秋に至って官兵が討平した。子の承諒は齊王の女嘉興縣主に娶り内殿承制。

史論

  • 五代の乱世では内には権臣が命を専らにし外には藩鎮が兵を握ったが、宋の興隆により内外は清められ、あるいは節を納めて宿衞に備え、あるいは老を告げて朝請にとどまった。太祖が諸臣を善く御したとはいえ、これは否極まりて泰に転じる時運の象徴でもあった。彥卿は一門から二后を出し累朝の寵を受け、謀に長け善く戦い声望は異俗にまで及んだ。時に応じて進退し名将の賢者と呼ぶにふさわしい。令坤・延釗は太祖と親しかったが、荊湘平定・常山鎮撫の功をもって旧を恃み嫌隙を生むことはなかった。創業の君臣には人に過ぎたるものがあったといえよう。