宋史卷二百五十一 列傳第十 韓令坤

韓令坤(磁州武安の人)は後周太祖に仕えて累進し、高平の戦い・淮南征討で功を挙げた宋建国の功臣。恭帝即位で檢校太尉・侍衞馬歩軍都虞候となり、太祖朝では成徳軍節度・北面縁邊兵馬都部署として辺境防備を担った。乾徳六年に年四十六で卒し、太祖は自ら哭して喪に服した。

年表(4件)
  • 廣順初年後周太祖の麾下に入り鐵騎散員都虞侯・控鶴右第一軍都校・和州刺史となる
  • 顯徳六年世宗の北征に従い益津關一路都部署として霸州を守る
  • 建隆二年成徳軍節度・北面縁邊兵馬都部署として赴任する
  • 乾徳六年背中の疽により年四十六で卒す

生涯

  • 磁州武安の人。若くして勇敢さにより成徳軍兵籍に入り徐州下邳鎮將兼守禦指揮使に累進。世宗が令坤の栄達に伴い陳州行軍司馬に擢用、令坤の陳州領有に伴い許州に移り罷職して宛邱に居住。私に酒を売って市利を貪り民財を掊斂したため公私の患いとなり、項城の民武郁が朝廷に訴えた。殿中侍御史率汀に按問させたところ倫は詔に赴くと偽り、汀の奏上で世宗は激怒し法により棄市とすべきところ、令坤の懇願で死罪を免れ海島へ流された。顯徳六年左驍衞中郎將、左監門衞將軍に遷り、宋初磁州刺史・亳州團練使、乾徳四年本州防禦使に改まりまもなく卒した。

後周から宋への仕官

  • 少くして後周太祖の麾下に入り、廣順初年鐵騎散員都虞侯・控鶴右第一軍都校・和州刺史。世宗即位で殿前都虞候、高平の功で龍捷左廂都虞候・容州團練使、本廂都指揮使・泗州防禦使、太原征討で行營前軍馬軍都校、まもなく侍衞馬軍都指揮使・定武軍節度。世宗の淮南征討で宰相李榖の軍に従い正陽で敗れかけたが、宣祖・李重進と合流して呉軍を大破。世宗自ら揚州無備を知り令坤に襲撃を命じ、令坤は白延遇の精騎を先発させ無血入城、民は安堵した。南唐の東都副留守馬延魯を寺で捕らえ行在に送り、令坤は知州事となった。
  • その後泰州が降るが、南唐将陸孟俊の反撃で泰州が失われ揚州も脅かされたため令坤は一旦城を棄て、世宗の怒りを買った。太祖・張永德の援軍で城に復帰した令坤は孟俊軍を大破し捕虜とし、楚州灣頭堰で馬貴を破り漣州刺史秦進崇を捕らえた。向拱の緣江招討で副使となり夀州を落とし檢校太尉・鎭安軍節度を加えられた。世宗の淮右親征で先発入城、揚州權知軍府事となり新城修築の都部署を務め、汴水を蔡へ導く役も統率した。
  • 六年、世宗の北征に龍捷虎捷驍武兵を率いて先発、王晏の副として益津關一路都部署、霸州都部署としてこれを守った。恭帝即位で檢校太尉・侍衞馬歩軍都虞候。宋初、天平軍に移り侍衞馬歩軍都指揮使同平章事。太祖の李筠親征では河陽に屯し、澤路平定後に禮賢講武殿で宴を賜り侍中を兼加、李重進討伐にも従軍。建隆二年成徳軍節度・北面縁邊兵馬都部署として赴任、乾徳六年背中の疽により年四十六で卒し、太祖は自ら哭して喪に服した。子の慶朝は閑廐使、慶雄は閑廐副使となった。
  • 令坤は才略と治道の識見に富み、後周の頃から太祖と親密だった。常山在鎮七年、北邊はこれにより安寧を保ち、卒去は深く惜しまれた。かつて南唐の邊鎬が湖南を破った際、馬希崇が妓女楊氏を献じ令坤の寵愛を受けたが、捕らえた陸孟俊が嘗て潭州で楊氏の一族二百人を殺した張本人と知り、令坤は孟俊を尋問の上で処刑した。