生涯
- 字は光烈、性は残忍で腕力に優れ「王劍兒」と呼ばれた。本は蜀人、後唐同光中蜀平定に伴い洛陽へ移住。宦官驃騎大將軍孟漢瓊に仕え、その推挙で明宗に東班承旨を補され、後晉天福中内殿直、開運初年契丹の大名包囲時に少帝の詔を城中に届ける任を羅彥瓌と共に果たし䕶聖指揮使。後周廣順中向拱の太原討伐で虒亭南の敵將王璋を斬り龍捷右第九軍都虞候、鐵騎右第二軍都校・合州刺史。世宗の淮南征討では劉崇進・宋偓と共に金牛水砦を破り軍校閻承旺・范橫を捕虜、李重進の呉軍防戦や張永德の瀛州攻略にも従軍し散員都指揮使。
- 太祖の陳橋挙兵で衆に推戴され先発入京、韓通と路上で遭遇し追撃して殺害した。太祖は入京にあたり秋毫も犯すなと誓わせていたため、韓通殺害を聞いて不快感を示し、建国当初のため罪は問わなかったが恩州團練使・鐵騎左廂都指揮使にとどめた。京城廵検の任中、深夜に王溥邸を訪れ賄賂を求める素振りを見せたが王溥は察しつつ酒でもてなし、翌日密かに事を奏上したため唐州刺史に左遷された。乾徳初年申州團練使、開寶二年防州防禦使、同年冬原州に移り、漢法を犯した西人を刑ではなく耳を斬って酒に浸し喰わせるという酷刑で威圧、西人は塞を犯さなくなったという。七年病により帰途乾州で年五十八で卒した。太祖は韓通殺害を理由に彦昇に終身節鉞を授けなかった。
史論
- 石守信以下は皆後周顕徳の旧臣であり、太祖は彼らを信任してその忠誠と武力を得た。太祖は黄袍の逸話一つで自ら兵権を解かせ、その富貴と子孫への遺産を保たせた。これは後漢光武帝の功臣に対する処遇にも勝るものである。しかし守信の蓄財は巨万に及び、懐徳の放埒な生活ぶりもまた自ら韜晦するための処世であったろう。審琦の下蔡での善政、重贇の廣陵での功、令鐸の四十余戦にわたり妄りに殺さなかった仁、彦瓌が革命の日に真っ先に剣を抜いて范質に迫った行い(宋にあっては必ずしも功が第一とは言えぬが、後周に対しては過ちも人後に落ちぬものであった)は称賛に値する。王彦昇が韓通を殺した際、太祖は罪を加えなかったものの終身節鉞を授けず、これは後世への戒めとするに足る。保吉・承衍らは駙馬として藩鎮に至ったが、その戎功に照らせば保吉の方が優れ、ましてや功を李繼隆に譲った点は謙譲というべきである。しかし名士を械にかけ狩猟に耽った点は徳を損なうものであった。