前歴
- 字は藏用、真定常山の人。後周天平節度齊王高行周の子。忠厚で武勇に富み、後晉開運初年の遼軍侵攻で父に従軍し戚城で包囲された父を救出、羅州刺史を領した。行周の各鎮転任に随い刺史職を歴任。後漢初、行周が天平を再領する際、忠州刺史を領した。後周太祖の慕容彥超征討の帰途、行周父子は厚遇された。行周卒去後、懐徳は東西班都指揮使・吉州刺史となり鐵騎都指揮使に転ず。
後周から宋への仕官
- 劉崇討伐で先鋒都虞候、高平の勝利で鐵騎右廂都指揮使・果州團練使。淮南征討では廬州攻略の招安使として七百余級を斬り、龍捷左廂都指揮使・岳州防禦使に進む。夀春・紫金山攻防で夜襲偵察を成功させ、世宗直々の恩賞を受けた。北征では韓通と共に滄州へ先発、瓦橋關を克ち姚内斌の降を得た。恭帝嗣位で侍衞馬軍都指揮使・江寧軍節度、北面行營馬軍都指揮使。
- 太祖即位で殿前副都㸃檢・滑州移鎮・關南副都部署、宣祖の女燕國長公主に尚し駙馬都尉を加える。李筠の乱では石守信と共に澤州で反乱軍を破り忠武軍節度檢校太尉に進み揚州征討にも従軍。建隆二年歸徳軍節度、開寶六年秋同平章事、同年冬長公主薨去で駙馬都尉号を除く。太宗即位で侍中・檢校太師を兼加。太平興國三年病、四年太原征討に従軍し曹州に移鎮・冀國公封、七年武勝軍節度、同年七月年五十七で卒した。中書令を追贈し渤海郡王を追封、諡は武穆。
- 懐徳は将家の子として軍事に習熟し読書を好まず、性格は率直で小節にこだわらなかった。音律に長け新曲を自作、狩猟を好み三五日野宿することもあった。子は処恭(莊宅使から右監門衞大將軍致仕)・処俊(西京作坊使)。