宋史卷二百五十 列傳第九 王審琦

王審琦(字は仲寶、遼西の人)は後周太祖に仕えて累進し、淮南征討・李筠討伐などに功のあった宋建国の功臣。中正軍節度として八年間寛簡な政を行い、開寶七年に年五十で卒した。中書令・琅琊郡王を追贈された。

年表(8件)
  • 後漢乾祐初年後周太祖の麾下に入り李守貞平定に功を挙げる
  • 廣順中東西班行首・内殿直都知・鐵騎指揮使を歴任する
  • 宋初殿前都指揮使・泰寧軍節度に擢用される
  • 建隆二年中正軍節度となり八年在鎮し寛簡な政を行う
  • 開寶二年太原親征に従う
  • 開寶三年許州に移鎮し京師に邸を賜る
  • 開寶六年高懷徳と共に同平章事を加えられる
  • 開寶七年年五十で卒し中書令・琅琊郡王を追贈される

後周から宋への仕官

  • 字は仲寶、遼西の人、後に洛陽に移住。後漢乾祐初年、後周太祖の麾下に入り李守貞平定に功があり㕔直左番副將を署される。廣順中、東西班行首・内殿直都知・鐵騎指揮使を歴任し世宗の劉崇征討で戦功、東西班都虞候・鐵騎都虞候・本軍右第二軍都校に進む。世宗の禁軍宴射で連中し勤州刺史を領す。
  • 淮南親征では舒州攻城を一夜で陥落させ黄州救援でも夜襲で舒人を大破、散員都指揮使を授かる。南唐軍を紫金山で破り先登して流矢を受け、控鶴右廂都校・䖍州團練使に進む。濠州包囲では敢死士數千で水砦を奪い、楚州攻略では伏兵で数千級を斬り五千余を捕虜とした。淮南平定で鐵騎右廂都校、瓦橋關征討にも従軍。恭帝即位で殿前都虞候・睦州防禦使。
  • 宋初、殿前都指揮使・泰寧軍節度に擢用。李筠討伐で御營前洞屋都部署となり飛石で負傷。武成軍節度を経て李重進討伐では石守信の副として前軍部署。建隆二年中正軍節度で八年在鎮し寛簡な政を行い、部下の令の処分を巡り「五代以来の強横な藩鎮とは違い今は治平の世」と述べ属吏に敬服された。
  • 開寶二年太原親征、三年許州に移鎮し京師に邸を賜る。太祖の宴射で連中し御馬・黄金鞍勒を賜る。六年高懷徳と共に同平章事を加えられ、七年年五十で卒した。急病で言葉を失った際太祖自ら見舞い、卒後も邸を訪れ哭した。中書令・琅琊郡王を追贈、葬日には廢朝もあった。
  • 審琦は重厚で騎射に優れ、壽春在鎮中は租課を計って出費し誅求をしなかった。酒は元来飲めなかったが太祖に勧められ十杯を飲みきり、以後侍宴では常に満杯を受けたが私邸では病むほど無理をした。子は承衍・承衎・承徳・承祐・承俊・承偓・承僎・承休。

王審琦承衍――生涯

  • 字は希甫。審琦の兗海・壽春在鎮中に牙職を歴任。開寶初年内殿供奉官都知、三年太祖女昭慶公主に尚し右衞將軍駙馬都尉、恩州刺史を経て本州防禦使。太平興國二年應州觀察使、三年檢校太保(竹木交易矯制で罰俸)。七年彰國軍節度、雍熙中知天雄軍府兼都部署。契丹の擾乱で城中が恐慌に陥った際、承衍は上元節に市中や寺で燈会・楽を催し人心を安んじた。
  • 端拱初年永清軍節度に換わり再び天雄軍知事、吏民千余人が留任を請う。真宗即位で河中尹・護國軍節度・檢校太尉。咸平六年病により節鉞返上を求めるも許されず、帝自ら見舞い、卒去は年五十二。中書令を追贈され諡は恭肅。承衍は騎射に長け音律に通じ、詩を吟じ功臣子として尚主の身で富裕に暮らした。子に世安・世隆・世雄・世融。

王審琦承衎――生涯

  • 字は希悦。開寶中に閑廐使、十二歳で紫袍金帶を賜る。太平興國中に監徐州軍、西京水南廵検使を経て如京使、命じられ治郡に効を求めて知潭州。六宅使・昭州刺史、澶州知事・莊宅使を経て咸平中には川峽への傳詔慰撫や蠻洞経略に従事、延州・代州・并州の知事兼兵馬鈐轄を歴任。景徳中、真宗が天水を重視して承衎を知秦州に、のち知天雄軍とした。大中祥符初年、東上閤門使に進むが病足のため大名で職務が滞り、辞職を願うも許されず左武衞大將軍・知壽州に移され二年に年四十九で卒した。学を好み詩を作り、審琦の壽春在鎮中に生まれ卒地もその地で人々が奇としたという。

王審琦克臣――生涯

  • 字は子難。承衍の孫、秦國賢穆公主の孫にあたる。景祐年間の進士。夀州通判の任中、夜討ちに遭った郡将の危機を巧みに鎮めた逸話を持つ。開封度支二判官・鹽鐵副使を経て鄭俠への薦挙で連坐降格、戸部副使・集賢殿脩撰知鄆州として盗賊対策に断固たる処置を取り、河決に際して隄を築いて城下を守った功で天章閣待制。瀛州知事では冤罪の株連を密かに緩和した。太原では王中正の誣告を受け単州に黜されるが、まもなく工部侍郎に復し、神宗の巡幸で慰労された。元祐四年、龍圖閣直學士大中大夫として年七十六で卒した。

王審琦師約――生涯(克臣の子)

  • 字は君授。英宗が儒生を主壻に求めた際、克臣を通じて文才を試され駙馬都尉として徐國公主に尚す。神宗即位で嘉州刺史・成州團練使、三班院の同管当を務め、汝州防禦使・晉州觀察使を経て哲宗立で鎭安軍節度觀察留後。元符初年に上言が咎められ秩を削られるが徽宗即位で復し、樞密都承旨を経て崇寧元年年五十九で卒した。射に長け遼使との射会で名を挙げた。