宋史卷二百五十 列傳第九 韓重贇
韓重贇(磁州武安の人)は後周太祖の麾下から起こり、高平の戦い・淮南征討に功のあった宋初の武将。義成軍節度・彰徳軍節度を歴任し、開寶二年の太原親征では契丹軍を定州で大破した。開寶七年に卒し、侍中を追贈された。
生涯
- 磁州武安の人。若くして武勇により後周太祖の麾下に入り廣順初年左班殿直副都知。高平の戦功で鐵騎指揮使、淮南征討で先登し流矢を受け都虞候に転じ、控鶴軍都指揮使・䖍州刺史。宋初、翊戴の功で龍捷左廂都校・永州防禦使、澤潞征討で張光翰に代わり侍衞馬歩軍都指揮使・江寧軍節度、李重進討伐で行營馬歩軍都虞候。建隆二年殿前都指揮使・義成軍節度、三年洛陽宮殿修築の役を統率。乾徳三年河決の際、丁壮数十万を統率し澶州の決壊を塞いだ。
- 四年、太祖郊祀の儀仗都部署の際、親兵の私占を讒言され太祖が誅殺しようとしたが趙普の諫言で免れた。重贇は後に趙普が救ってくれたことを知り謝意を示そうとしたが趙普は会おうとしなかった。五年彰徳軍節度、開寶二年太原親征で契丹軍の来援を予期した太祖の命により北面都部署として夜襲を行い定州で契丹軍を大破、太祖より賞された。七年卒し、侍中を追贈された。
- 重贇は仏教を篤く信じ、安陽在鎮中に六七年にわたり民に材木を採らせ郡内は苦しんだ。子は崇訓・崇業。
韓重贇崇訓――生涯
- 字は知禮。乾徳中蔭補供奉官、西京作坊副使を経て澶州河南北都廵検使。太宗の河東親征に従軍後、貝冀等州都廵検使・權知麟州。雍熙中李繼遷の夏州侵攻を大破し夏州軍監、越・泉・登・莫四州知事を歴任、威虜軍知事・如京使。咸平初年知石州のとき李繼遷を追撃、二年再知麟州で再びこれを破る。河西・閩越・北邊の転任を経て二十五年の功で西上閤門使、邠寧環慶清逺軍都廵検使、定州・高陽關行營鈐轄・河北都轉運使を兼帯。契丹の来襲を唐河で防ぎ、赤堠驛への別動隊を撃退。並代鈐轄・權知并州として王超の契丹撃破に従軍。六年四方館使・樞密都承旨、鎭定高陽馬歩軍都鈐轄。景徳初年の契丹侵攻では唐河・鎭州で応戦、桑贊の逗留を独力で補い名を挙げた。三年檢校太傅、大中祥符二年右龍武軍大將軍・詔防禦使にて分司西京、年五十六で卒した。人柄は長厚謙虚だったという。子の允恭は禮賔副使で謀略に長けた。
韓重贇崇業――生涯
- 字は繼源。蔭補供奉官、秦王廷美の女雲陽公主に尚し左監門衞將軍駙馬都尉。廷美の失脚に伴い右千牛衞率府率・分司西京に降格され駙馬号も削られ房陵配流に随伴。廷美卒後、靜難軍行軍司馬として起用され、雍熙三年寧州刺史。公主卒後、真宗初年に朝見が許され咸平四年左屯衞大將軍・高州團練使、公主は虢國長公主を追封された。五年十月年四十一で卒した。子の允升は内殿承制閤門祗候。