宋史巻二百四十四 列傳第三 宗室一 魏王廷美・燕王徳昭・秦王徳芳

序(宗室伝の趣旨)

  • 編者は、周初の封建が晋・鄭のような輔弼を生んだ一方、後世には幹弱枝強の弊を生んだ経緯を述べ、宋は唐制を承けて宗室に封爵を与えたが、実質は形骸化していたとする。
  • それでも宗正・玉牒・宗学の制度を整え、疎属にも禄秩・恩数を及ぼしたこと、靖康の乱で諸王が金人に殺された悲劇はあったが、仁宗・高宗・寧宗の代の継嗣選定は宗社の安定に資したことを評価する。
  • 宋は宗室に対する君臣の議論を憚らず、涪陵(廷美)・濮邸(英宗生家)・済邸(南宋末)などの処遇をめぐる言論が絶えなかったことも歴代に稀な美点であるとし、これを表して宗室伝を作るとする。

魏王廷美――生涯

  • 字は文化、もとの名は光美、太平興国初めに改名。太祖の兄弟五人のうち、兄光済は早世(追封邕王、のち曹王)、弟光義は太宗、次が廷美、末弟光贊は幼くして没し夔王・岐王を追封された。
  • 建隆元年(960年)嘉州防禦使、二年(961年)興元尹山南西道節度使、乾徳二年(964年)同中書門下平章事、開宝六年(973年)検校太保・侍中・京兆尹・永興軍節度使を歴任。太宗即位後は中書令・開封尹、さらに斉王、検校太師、太原親征に従い秦王に進封された。

魏王廷美――失脚と最期

  • 太平興国七年(982年)三月、廷美に驕恣で陰謀ありとの密告があり、太宗はその罪を公にせず開封尹を罷めさせ西京留守に転じさせた。密告に功のあった柴禹錫・楊守一らは昇進し、廷美と交通した者は流罪・降格に処された。
  • 宰相趙普が再任後、盧多遜と廷美の交通の証拠を得たとして上聞、多遜は兵部尚書を経て獄に下された。趙白・閻密・王継勲・樊徳明・趙懐禄・閻懐忠ら関係者の取り調べにより、多遜が廷美へ「宮車早く晏駕あれば大王に尽力す」との言を伝えていたことが判明し、大逆不道として朝堂で公卿七十四人が誅滅を奏した。
  • 結果、盧多遜は官爵剥奪・崖州流罪、趙白ら五名は都門外で斬られ家財没収。廷美は皇姪に貶され、妻子も名号を削られ西京に発遣された。
  • その後、開封府李符の上言により涪陵県公に降され房州安置。八年(983年)正月、母陳国夫人耿氏が卒し、雍熙元年(984年)廷美自身も房州で憂悸のうちに病没、年三十八。太宗は嗚咽して深く悼み、涪王を追封、諡は悼とした。
  • 後年、太宗は宰相に、廷美が西池の橋の完成を待って謀反を企てていた事実(未遂)を語り、「盧多遜の一件があっても居守に留めたが、悔い改めなかったため房陵へ遷した。私に落ち度はない」と述べた。李昉は「陛下がこの内情を示さなければ、我々にも分からなかった」と応じた。

魏王廷美――金匱の盟と趙普の関与

  • 昭憲太后が危篤の際、太祖に位を太宗へ、さらに太宗から廷美、廷美から徳昭へ伝えるよう命じたとの説(金匱の盟の内容)が伝わる。太宗の即位後、廷美が開封尹とされ徳昭が「皇子」と呼ばれたのはこの含みによるとされるが、徳昭は不遇の死を遂げ、徳芳も相次いで早世したため、廷美は不安を抱くようになった。
  • 柴禹錫らの密告後、太宗が趙普に諮ると、普は「舊臣として姦変を察したい」と述べつつ密奏で昭憲太后の顧命と自身への冤罪を訴え、太宗は金匱の書を発見して深く感悟、普を司徒兼侍中に復帰させた。後日、太宗が伝国の意を趙普に問うと「太祖はすでに一度陛下を誤らせた(弟継承の順を違えた)、再び誤ってはならない」と答え、これが廷美失脚の決定打になったとされる。

魏王廷美――後裔

  • 真宗即位後、廷美は皇叔涪王・秦王として西京留守・検校太師などを追復され、妻張氏も楚国夫人に復した。咸平二年(999年)改葬。仁宗即位後に太師尚書令を追贈、徽宗の代に魏王と改封された。
  • 子は徳恭・徳隆・徳彛・徳雍・徳鈞・徳欽・徳潤・徳文・徳願(無子)・徳存の十人(うち徳願は無子)。故事により本宮の長が国公を襲封する制で、徳鈞の子承簡が最初に襲封し安定郡王に至った。以後、承亮(徳雍の子、秦国公)、克愉、叔牙と継承。
  • 徳恭は貴州防禦使・左武衛大将軍・安定郡侯などを歴任、卒後高密郡王を追封。子承慶・承夀、孫の克継は書に長じ仁宗に重んじられた。
  • 徳隆は沂州刺史などを経て早世、子承訓の代に節度使を追贈。
  • 徳彛は太祖に禁中で養育され、沂州判官として蝗害・冤獄の処理で善政を示し、大中祥符八年(1015年)卒、信都郡王を追封。
  • 徳雍は蔡州観察使などを経て広陵郡王を追封。子承亮は秦国公を襲封。
  • 徳鈞は書を善くし、卒時に妻も同時に没し十四人の幼子が残されたことを帝が哀れんだ。子承幹の遺文により神宗が東平王を追贈。
  • 徳欽・徳潤はいずれも早世、観察使を追贈。
  • 徳文は幼少より学を好み、真宗に「五秀才」と称され、慶暦四年(1044年)東平郡王・同中書門下平章事に至り、仁宗に「五相公」と呼ばれた。薨、年七十二、諡は恭裕。
  • 徳存は九歳で任官、大中祥符四年(1011年)卒、洮陽侯を追封。
  • 紹興元年(1131年)以降、太祖・太宗・魏王廷美の後裔から一人を選び安定郡王を襲封させる制が定着し、紹興から嘉定に至るまで十五人が襲封した(令畤・令懬・令詪・令衿らの事績が著名)。

燕懿王徳昭

  • 字は日新、母は賀皇后。乾徳二年(964年)出閤、太祖は幼年ゆえ漸進を望み貴州防禦使、開宝六年(973年)興元尹山南西道節度使・検校太傅・同中書門下平章事に至ったが、太祖の代には王爵を受けなかった。
  • 太宗太平興国元年(976年)京兆尹・武功郡王に封ぜられ、廷美とともに班位を宰相の上とされた。三年(978年)王溥の女を娶り韓国夫人。
  • 四年(979年)幽州親征に従軍中、軍中で夜驚があり帝の所在が不明となった際、徳昭擁立の噂が立ち、太宗はこれを不快に思った。太原征討の功賞が久しく行われぬことを徳昭が言上すると、太宗は「お前が自ら天子となった時に賞せよ」と激怒し、徳昭は退いて自刎した。太宗は驚き悔いて遺骸を抱いて号泣、「愚かな子よ、何故ここまで」と嘆いたという。中書令・魏王(後に呉王、越王と改封)を追贈。
  • 子は惟正・惟吉・惟固・惟忠・惟和の五人。慶暦四年(1044年)以降、その子孫が代々韓国公・楚国公・崇国公などを襲封し、南渡後も紹興元年(1131年)の詔により太祖の子孫一人が安定郡王を世襲する制が定着した(世凖・世開・世雄・世福らが歴代の襲封者)。
  • 惟吉は太祖に鍾愛され幼時より宮中で養育、太祖崩後は孝章皇后に養われた。武信軍節度使・同平章事に至り、大中祥符三年(1010年)薨、年四十五、中書令を追贈。学を好み書を善くし、宗室中の賢孝と称された。
  • 惟和は詩文に長け、王旦らに「皇族の秀」と評されたが短命であった。

秦康惠王徳芳(秀王子偁附)

  • 開宝九年(976年)出閤、貴州防禦使、太平興国元年(976年)興元尹山南西道節度使・同平章事、六年(981年)三月病により薨、年二十三。中書令・岐王(後に楚王)を追贈。
  • 子は惟叙・惟憲・惟能の三人。慶暦四年(1044年)以降その子孫が安国公・楚国公などを襲封。神宗の代、惟憲の孫従式が安定郡王に封ぜられ太祖の祭祀を奉じ、以後世代を継いで襲封した。徽宗即位後、楚王の号は秦王に改められた。
  • 秀王子偁は秦康惠王の後裔で高宗の族兄にあたる。康惠王―英国公惟憲―新興侯従郁―華陰侯世将―令儈―子偁と続く家系。宣和元年(1119年)嘉興丞となったこの年、子の伯琮(後の孝宗)が生まれ、後に選ばれて宮中に入った。
  • 子偁は宗室子弟の教育・統制について高宗に建言し(宗室子弟の州学・大学入学規定など)、施策に採用された。紹興十三年(1143年)致仕、翌年卒。孝宗が普安郡王として服喪を望むなど深い縁故があり、孝宗即位後に太子少師・太師中書令・秀王を追贈、諡は安僖。
  • 子偁の長子、嗣秀王伯圭(孝宗の同母兄)は明州知事・沿海制置使などを歴任し、蕃商の遺産を私せず護送するなど清廉な政績を残した。海寇討伐にも功を挙げ、淳熙年間に安徳軍節度使・栄陽郡王に至り、光宗朝に嗣秀王として厚遇された。宗学の設立を建言するなど文治にも寄与し、薨後に崇王を追封、諡は憲靖。
  • 伯圭の子九人のうち師夔・師揆が特に著名。師夔は明州知事・沿海制置使などを歴任し財政・治安に手腕を発揮、新安郡王を追封。師揆は淮西提刑などを歴任し、去官の際に不正な余剰金の献上を退けるなど清廉であった。弟の師禹も襲封し節度使に至った。