宋史巻二百四十五 列傳第四 宗室二 漢王元佐・昭成太子元僖・商王元份・越王元傑・鎮王元偓・楚王元偁・周王元儼・悼獻太子・濮王允讓
漢恭憲王元佐――出自と若年
- 太宗の第2子。字は惟吉、初名は徳崇。母は元徳皇后。幼くして聡明、容貌が太宗に似て鍾愛された。13歳のとき近郊で狩りに従い、契丹の使者の前で兎を射止め、使者を驚かせた。太原・幽薊の遠征に従軍。
- 太平興国中、内東門別邸に出居し検校太傅・同中書門下平章事、衛王封。のち東宮に隣接する邸に移り改名(徳崇→今名〔元佐〕)、検校太尉、楚王進封。
漢恭憲王元佐――発狂と廃黜
- 秦王廷美が涪陵に遷された際、元佐だけがこれを救おうとした。廷美の死後、元佐は発狂し、些細な過失で従者を刃物で傷つけるようになった。雍熙2年(985年)、病がやや軽快し帝が喜び天下に大赦したが、重陽の宴に元佐だけ招かれず、夜に帰邸してから「皆は上に侍って宴するのに私だけ与らぬのは棄てられたということだ」と怒り、酒に乗じて放火し宮殿を焼いた。御史が捕らえて中書に送り、庶人に落として均州に安置。宰相宋琪が百官を率い三度上表して京師に留めるよう請い、黄山まで護送されたところで召還され南宮に幽居、使者が監視した。翊善の趙斉・戴元が頓首して罪を請うと、帝は「これは朕が教えたのに改まらぬのだ、汝らに何ができよう」と赦した。
漢恭憲王元佐――真宗代の礼遇と薨去
- 真宗即位後、左金吾衛上将軍に起用、楚王に復封され、養病を理由に朝見せず、検校太師・右衛上将軍に進む。誕生日に真宗から宝帯を賜った。普段は人事に関わらなかったが物事を予知することがあり、帝が術士管歸眞を招いて醮禳を行わせた際、左右が告げる前に元佐が「管歸眞が来た」と言い当てた逸話がある。泰山封禅で太傅を真拝、汾陰祭祀で太尉兼中書令に遷り、さらに太師・尚書令兼中書令、天策上将軍・興元牧を加え、剣履上殿・詔書不名の礼遇を受けた。禁中の火災に際し自らの俸禄を停めて宮闕の修復を助けたいと願うも許されず、雍州牧を加えられた。仁宗が皇太子となると興元牧を兼ね、仁宗即位で江陵牧を兼ねた。薨去、年62。河中鳳翔牧を追贈、斉王追封、諡恭憲。宗室子弟に特に7日の仮を与え、鹵簿鼓吹を率いて永安まで送り永熙陵に陪葬させた。明道2年(1033年)潞王に改封、さらに魏王に改封。
漢恭憲王元佐――子孫
- 子3人、允升・允言・允成。神宗代、允言の子宗説が恭憲王の長孫として祁国公を襲封。皇祐中、帷薄不修の廉で除名され、さらに女僕を坑殺した罪で宮室に幽閉された。子仲旻(右武衛大将軍・道州刺史)が朝廷に泣訴し身を献じて贖罪を願ったが、神宗は憐れみつつも許さず、まもなく仲旻は憤死、同州観察使・馮翊侯を追贈された。宗説は幽死。
- 熙寧3年(1070年)允升の子宗惠が魏国公を襲封したが、中書が「恭憲王庶長孫の允言の子宗立を嗣がせるべき」と異議、宗立が嗣ぐことになった。宗立は張揆に春秋を学び、大清楼の侍宴で祼玉詩を賦して真っ先に完成、仁宗に称賛され飛白書をたびたび賜った。武寧軍節度観察留後で終わり、昭信軍節度使同中書門下平章事南康郡王を追贈。子仲来が嗣ぎ金州刺史で終わる。子不儻が嗣ぐ。徽宗が魏王を漢王に改封。不儻卒後、子彦清が父の爵を継ぎ漢王祀を奉じることを願い許可された。
- 允升: 字吉先、幼くして乳母を離れ明徳太后宮で養育され、太后自ら世話をした。元佐発病時に初めて別邸へ出た。真宗が允中と命名して右監門衛将軍を授け、のち今名(允升)に改めた。澶州観察使、延安郡公、武寧軍節度観察留後、安徳・建雄・安国軍節度使を歴任。景祐2年(1035年)卒、太尉・平陽郡王を追贈、諡懿恭。子13人のうち宗礼・宗旦・宗悌・宗惠が知られる。
- 宗礼: 大清楼の侍宴で仁宗の詩に唱和し、苑中の射に侍して詩を献じた。虔州観察使・成国公で終わり、安遠軍節度使同中書門下平章事韓国公を追贈。子仲翹・仲髦。
- 宗旦: 字子文、7歳で成人のようであり仁宗の伴読に選ばれた。仁宗即位後に格別の抜擢を受け一族から誹謗されたため上書して弁明、仁宗は「宗旦は朕の幼学の伴で辛労が多い、常格を以て訴えるべきでない」と擁護した。生母の死に際し別に墓域を求め時祭を行いたいと願い、これが後に定めとなった。治平中、大宗正事を同知。神宗即位で崇信軍節度使同中書門下平章事となり大宗正となる。方団金帯を賜り朝会でなくとも肩輿に乗れる特権を得た。元豊3年(1080年)華陰郡王・開府儀同三司を加え、長く宗属を司り宗子の過失を寛容に導いた。薨、太尉・滕王を追贈、諡恭孝、旗節印綬を持って陪葬。
- 宗悌: 字元発、財を軽んじ施しを好んだ。旧宰相王氏の子が父の帯を質入れしようとしたのを憐れみ、帯を返し銭も与えた。所親が詐って財を奪おうとした事実を知っても「小事で骨肉の情を傷つけたくない」と咎めなかった。生母を早く亡くし顔を知らなかったが、父の婢の話を聞くたびに涙し、その面影を絵に描いて生きているように奉じた。明州観察使で終わり、保寧軍節度使同中書門下平章事東陽郡王を追贈、諡孝。
- 宗惠: 魏国公封、傍系のため黜せられ武昌軍節度観察留後・江夏郡王で終わり、郯王を追贈。
- 允言: 累官左屯衛将軍。病と称して朝見しなかったため太子左衛率府率に降格されたが歳中に復官、また婢を鞭打った罪で兄允升の諌めに従わず悖慢無礼とされ副率に貶されたが、汾陰祭祀の恩で率府率に復した。左監門衛大将軍・黄州刺史を歴任。天聖7年(1029年)卒、明州観察使・奉化侯を追贈、明道2年安遠軍節度使・密国公を追贈。子宗説(前出)。
- 宗育: 右屯衛将軍で終わり、潁川防禦使・汝陰侯を追贈。
- 允成: 右神武将軍・濮州防禦使で終わり、安化軍節度使・郇国公を追贈。明道2年鎮江軍節度使兼侍中を加贈。子宗顔・宗訥・宗鼎・宗厳・宗魯・宗儒・宗奭、皆環衛刺史。
昭成太子元僖――経歴と薨去
- 初名徳明。太平興国7年(982年)出閤し検校太保同平章事広平郡王、兄衛王徳崇(元佐)と同日受封。8年陳王進封、改名(元佑)。宰相の班列を親王の上に置くとの詔が出たが、宰相宋琪・李昉は旧制遵守を請い、太宗は「元佐らはまだ幼く謙遜の道を知らせたい、卿らは固辞するな」と答えた。雍熙2年(985年)元佐発病により元僖を開封尹兼侍中とし今名(元僖)に改め、許王に進封。真宗が隰州団練使李謙溥の娘を娶らせ、宰相に「今後は諸子の姻戚もみな将相大臣の家、六礼を備えるべきだ」と語った。淳化元年(990年)宰相呂蒙正が班列変更を再度求めるも不許。3年11月已亥、早朝から殿廬に座していた元僖が体調を崩し邸に帰り、車駕が急ぎ見舞ったが病は篤く、呼びかけに応えたのち間もなく薨じた。帝は慟哭し廃朝5日、皇太子を追贈、諡恭孝。姿貌雄毅・沈静寡言で、京尹5年間政事に失なく、薨去後帝は悲泣して寝られず「思亡子詩」を作り近臣に示した。
- まもなく、元僖が嬖妾張氏に惑わされていたことが露見。張氏は専横で婢僕を鞭打ち死者も出したが元僖は知らず、また都城西の仏寺で自身の父母を招魂葬し礼制を僭越したため、帝は怒り昭宣使王継恩に調べさせ、張氏は縊死、関係の左右親吏は悉く杖罰・免官、張氏一族の墓は毀たれ、親属は皆配流された。開封府判官・右諫議大夫呂端、推官・職方員外郎陳載は輔佐の失として処分され、呂端は衛尉少卿に、陳載は殿中侍御史に落とされた。許王府諮議・工部郎中趙令図、侍講・庫部員外郎閻象も輔導無状として両任削られ免官。冊礼を停め一品鹵簿で葬送。真宗即位後、初めて詔で太子の号を称するよう定めた。乾興初め改諡。
昭成太子元僖――後嗣
- 子なく、仁宗代に允成の子宗保を昭成太子の孫として出継させた。宗保は生後2歳で母に抱かれ章献太后に謁見、太后が留めて養育、7歳で左侍禁を授かり帝自ら頭巾を結んでやった。のち本宮に帰され、朔望の禁省出入りを許された。代州防禦使を歴任し燕国公を襲封。仁恕な性格で、蔵吏が米千斛を盗んでも問わず、「忍」の字を座右に書いて戒めとした。熙寧7年(1074年)卒、神宗自ら弔問、子仲鞠が「亡父は幼くして宮中で養育されたのに終生自らそれを言わなかった」と泣いて訴えると帝は感悼し、静難軍節度使・新平郡王・諡恭静を追贈。仲鞠も学を好み詩に優れ、居喪に孝を尽くした。宗保の子仲恕が嗣ぎ忠州団練使、諡純僖。子士盉が嗣ぐ。
商恭靖王元份
- 初名徳厳。太平興国8年出閤で改名(元俊)、同平章事冀王封。雍熙3年今名(元份)に改め兼侍中・威武軍節度使、越王に進封。淳化中建寧軍を兼領し寧海・鎮東に改鎮。真宗即位で中書令加、永興・鳳翔に転じ雍王。永熙陵の造営で山陵使を務め太傅を拝す。真宗の北征では東京留守。薨去、年37、太師・尚書令・鄆王を追贈、後に陳王・潤王に改封、治平中魯王に改封。
- 人物評: 寛厚で言動礼に適い、姿は堂々としていた。崇儀使李漢斌の娘を娶ったが、李氏は妬み深く残酷で、婢が少しでも意に沿わないと鞭杖を加え死に至ることもあった。帝からの恩賜は李氏が独占し、元份の病床では真宗自ら見舞い、侍者がいないため宮人に湯薬を任せた。太宗崩御時、李氏は病と称して弔問に来なかった者が多く、元份の誕生日には龍鳳を飾った衣服器物で祝う一方、元份の喪では哀戚の色を示さず帝を誹謗する言もあった。帝はその所業を知りつつ元份のために寛容にし、事後もその罪状を深く追及せず封を削るのみで別所に置いた。
- 子3人、長允寧、次允懐(のち允中と改め早卒)、次濮王允讓。允讓薨去後、允寧の子宗諤が虢国公を襲封、熙寧3年宗肅(同じく允寧の子)が魯国公を嗣封。子仲先が嗣ぎ、徽宗は「宗室諸王の追封は大国だが世襲の子孫がなお旧国のままなのは正名の意にそぐわない」として魯王を商王に改封するよう大宗正司に命じ、寧遠軍節度使魯国公仲先も商国公に改封された。
- 允寧: 字徳之、父の感疾を理由に至孝な性格を発揮、恍惚として常を失ったこともあったが、のち学を好み特に唐史を好んで近朝の典故に通じ、虞世南の楷法を能くした。真宗が詩を賜い激賞、射にも優れ苑での射で的を破り金帯器幣を賜った。右千牛衛将軍から4度遷って右武衛、唐州団練・潁州防禦・同州観察使、彰信軍節度観察留後・武定軍節度使を歴任。景祐元年(1034年)卒、太尉・信安郡王を追贈、諡僖簡。子宗諤・宗敏・宗孟・宗肅。
- 宗諤: 虢国公封、集慶軍節度使同中書門下平章事、豫章郡王進封。外使相並みの給俸を求めたが、兼侍中でないとして仁宗が主吏を詰問、宗諤が自ら弁明を上奏したところ、御史張商英が招権立威等の罪を弾劾し平章事を落とされた。英宗即位で奪われたものを返還。元豊5年(1082年)薨、太尉・韓王・太常が諡した榮孝を上が集議で駁して榮恭に改め、僕射王珪も駁して最終的に榮恩と諡した。
- 宗肅: 魯国公封。兄宗諤が宝器を紛失した際、宗肅の家人の子が盗んだと疑われたが、宗肅は「私が廉潔でも信じてもらえないのか、兄弟でこのようなことがあってよいか」と自ら弁償した。宗諤は恥じて受け取らず僧に施し、のち器が見つかっても宗肅は再びこれを言わなかった。元豊5年安化軍留後で終わり、英宗の慶寧宮入居に従った功で鎮海軍節度使開府儀同三司北海郡王を追贈。
- 宗敏: 右千牛衛大将軍文州刺史で終わり、越州観察使会稽侯を追贈。書伝に通じ、郊恩に際し生母范氏への封を願い出て許可された。宗室子が生母の封を得るのは宗敏から始まった。
越文惠王元傑
- 字明哲、初名徳和。太平興国8年出閤で改名、検校太保同平章事益王。端拱初め兼侍中・成都尹剣南東西川節度使。淳化中呉王に転封、揚潤大都督府長史・淮南鎮江軍節度使。至道2年(996年)揚州大都督・淮南忠正軍節度使に改める。真宗即位で検校太尉兼中書令・徐州大都督・武寧泰寧等軍節度使、兖王に改封。咸平中再び郊祀の終献を務め太保を加える。6年7月急死、年32。
- 人物評: 頴悟好学で詩文・草隷飛白に優れ、楼を建てて2万巻の書を蔵し亭榭で遊息した。仮山を作った際、翊善姚坦だけが俯いて見ようとせず、「私が見えるのは血の山であって仮山ではありません。州県が民を鞭打って租税を取り立て、その租税で仮山は作られたのですから」と諌めた逸話がある。薨去に際し真宗は震悼し夜明けを待たず徒歩で禁門まで急ぎ輦に乗り換えて臨視、廃朝5日。太尉・尚書令・安王を追贈、諡文惠、後に邢王・陳王に改封。子なく、仁宗が恭憲王(元佐)の孫、允言の子宗望を後継とした。宗望は字子国、右武衛大将軍舒州防禦使で終わり、安化軍節度使観察留後高密郡公を追贈。仁宗が延和殿で宗子の書を試し宗望を第一とし、また献じた文を賞して「好学楽善」の四字を書いた塗金紋羅を賜り、御書閣を建てさせ帝自ら榜を題した。子仲郃が嗣ぎ、熙寧3年商恭靖王孫宗肅らと同日陳国公封、陳州観察使、諡良僖。子士關が嗣ぎ、父の死に際し徒歩で数百里の護喪をし路人が哀惜、陳州観察使を追贈。徽宗が陳王を越王に改封。
鎮恭懿王元偓――経歴
- 字希道。端拱元年(988年)出閤し検校太保左衛上将軍徐国公。至道2年洪州都督鎮南軍節度使。真宗即位で同平章事彭城郡王、検校太傅、静難彰化に改鎮。郊祀東封で亜献をすべて務め、検校太尉兼侍中護国鎮国等軍節度使。3年、文武官が后土への祠祭を請うと元偓も奏請して許可され、河華管内橋道頓遞使を命ぜられた。翌年真宗の入境時、方物・酒餼・金帛・茗薬を貢物として献じ、河中で判府陳堯叟と分導し蒲津橋を渡り鄈邱亭に登った真宗が元偓の橋道整備の功を賞した逸話がある。中書令加領成徳安国等軍節度使、相王に改封。5年守太傅加。真宗が学術を重んじ元偓が藩戚の中で率先して励んだこと、詩の唱和や射の逸話(西南亭で宗室と射、日暮に従官が退いても帝は中官だけを従え元偁・元儼の邸に赴き元偓宮でも家人の礼で宴、夜二鼓に終わる)が伝わる。6年太尉、8年7月栄王邸の火事で景龍門外に転居、冬に兼尚書令。天禧元年(1017年)2月成徳鎮寧二鎮を換え徐王進封、2年春邸で火災があり驚悸して中風となり急死、年42。帝は臨哭し廃朝5日、太師・尚書令・鄧王・諡恭懿を追贈、後密王・蘇王に改封、治平中韓王を追封。
鎮恭懿王元偓――子允弼
- 允弼は8歳で禁中に召され皇子の拝礼を受けようとせず遠慮した逸話があり、御楼観酺で王子と並座、その皇子がのちの仁宗である。累遷して武寧軍節度使兼侍中判大宗正事、北海郡王封。英宗代中書令、東平王に転封。神宗即位で太保鳳翔雄武軍節度使、朔望に朝した。熙寧2年(1069年)母の喪に悲痛のあまり起復を固辞、母の葬送を控え病が篤くなり子らに「終大事を果たせぬこと」を恨みとして薨、帝は哭を慟み輟朝3日、太師尚書令兼中書令・相王を追封、諡孝定。人物評: 端重で時に応じて言葉少なく、諸宮の学官員を増やし、貴くなっても日々講席に至り伴読官に孟子を読ませた。宗正を30年司り、濮安懿王(允讓)と共事して友愛、宗属の推敬を集めた。子宗繢が恭懿王の封を襲い韓国公、南康郡王を追贈、諡良孝。弟宗景が相州観察使同知大宗正事(允弼の子)となり、神宗は父允弼が長く宗司を司ったことから再び用いた。宗景は母に孝行で居喪に堪えぬほど哀傷、居第の火事では家廟に赴くのみで他を顧みず火害を免れた逸話がある。元祐中彰徳軍節度開府儀同三司検校司空済陰郡王封。夫人の死後、妾を継室にしようとした醜聞で開府を奪われるが後に還される。紹聖4年(1097年)薨、年66、太師循王を追贈、諡思。宗繢の子仲黁が嗣ぎ、平川節度使から剣南西川に転じる。徽宗が韓王を鎮王に改封。
楚恭惠王元偁
- 字令聞。7歳で検校太保右衛上将軍涇国公。のち鄂州都督武昌軍節度使。真宗即位で同平章事安定郡王、検校太傅。景徳2年(1005年)郊祀で宣徳保寧両鎮に遷り舒王進封。大中祥符初め泰山を封じて検校太尉兼侍中、平江鎮江軍に転じ、汾陰従祀で兼中書令、南寧国軍節度使に改鎮。5年太保拝、景徳以後は大事のたびに終献を務めた。体は羸弱で病がちで、真源に幸した際すでに病んでいたが従駕を求め、鹿邑で病が重くなり肩輿で先に帰り、帝は車駕から数回見舞った。7年薨、年34、廃朝5日、太尉・尚書令・曹王を追贈、諡恭恵、後に華王・蔡王に改封。集3巻・筆札1巻を残し、真宗自ら序を作り秘閣に蔵した。子允則は右千牛衛大将軍で卒(このころ諸王子は授官すれば即座に諸衛将軍となり、以下は父の官及び族属の親疎により差等を付ける慣例があったが、天禧元年宗正卿趙安仁が改めて定制を議定した)。允則に子なく平陽懿恭王の子宗達を後継とし、熙寧3年蔡国公を襲封。近隣の失火に乗じ盗が帯を盗んだが後に発見され、宗達は主の名を知りながら追及せず、井戸浚渫で得た銭も官に返納した逸話がある。武信軍留後で終わり、安化軍節度使開府儀同三司高密郡王を追贈。子仲約が嗣ぎ、徽宗が蔡王を楚王に改封。
周恭肅王元儼――若年から真宗代
- 幼くして竒穎、太宗特愛し朝会宴集にしばしば侍らせた。太宗は元儼の早期出宮を欲さず20歳での就封を期したため、宮中で「八太保」(兄弟中第8子の意)と呼ばれた。真宗即位で検校太保左衛上将軍曹国公、翌年平海軍節度使同中書門下平章事、検校太傅広陵郡王。泰山封で昭武安徳軍節度使に改め栄王進封。汾陰祀で兼侍中、安静武信に改鎮、検校太尉、太清宮祀で兼中書令。侍婢が放火し禁中に延焼した罪で武信節を奪われ端王に降封、故駙馬都尉石保吉邸に出居させられた。帝に会うたび自ら過ちを痛悔し、帝は憐れんだ。まもなく鎮海安化軍節度使加、彭王進封、太保。仁宗が皇子となると太傅加、横海永清保平定国節度陝州大都督を歴任、通王・涇王に改封。仁宗即位で太尉尚書令兼中書令拝、安忠武に転節、定王封、賛拝不名・詔書不名の礼遇。天聖7年(1029年)鎮王封、剣履上殿を賜る。明道初め太師拝、河陽三城武成節度に換え孟王封、永興鳳翔京兆尹に改め荊王封、雍州鳳翔牧に遷。景祐2年(1035年)の大封で荊王・淮南節度大使・行荊州揚州牧、入朝不趨の恩賜。
周恭肅王元儼――人物と最期
- 広顙豊頤で厳毅犯すべからず、天下がこれを畏敬し、名は外夷にまで知られた。母王徳妃(孝妃)に孝行し、疾病あれば躬ら薬を侍り朝夕に沐浴して香を焚き祈った、母の喪では哀戚のあまり食を断つほどであった。聚書と文詞を好み、二王の書に優れ飛白を工とした。仁宗幼少即位時、章献太后が臨朝すると、元儼は属尊望重ゆえ太后に忌まれることを恐れ門を閉ざし人事を絶ち佯狂を装ったが、太后崩御後仁宗親政になると尊寵は増し、上奏には必ず自ら謝牘を書いた。陝西用兵に際し公用銭年50万を献じたいと申し出たが帝は拒みきれず半分だけ受け入れた。翊善王渙に「元昊平定はまだか」と問い、「まだです」と答えられると「それでは宰相は何のためか」と叱った逸話も伝わる。慶暦3年(1043年)冬、大雪と木氷が陳楚の地で著しく、占者が「大臣に憂いあり」と占った直後、元儼が病篤くなり、帝は憂色を浮かべ自ら臥内に至り薬を調え、屏人で語り合ううちに元儼は多く忠言を述べ、白金5千両の賜与を固辞して「臣は羸憊し死に瀕している、これ以上家国に重費をかけたくない」と述べ、帝は嗟泣した。翌年正月薨、天策上将軍・徐兖二州牧・燕王を追贈、諡恭粛、葬に際し三度弔問、墨跡や詩を宰臣に分賜し、残りは秘閣に蔵した。
周恭肅王元儼――子孫
- 子13人のうち允熙・允良・允迪・允初以外は早卒。熙寧中允良の子宗絳が呉国公を襲封、徽宗が呉王を周王に改封。允熙は右監門衛将軍滁州刺史で終わり、博州防禦使博平侯を追贈。允良は5節度を歴任し寧海平江両軍を領し華原郡王、襄陽に改封、同中書門下平章事兼侍中から太保中書令に至った。酣寝を好み昼夜を逆にし一宮の人が皆昼寝夕起きとなったため、薨去後有司が「反易晦明」を理由に榮易と諡した。允迪は耀州観察使、父の喪に不孝であったうえ宮中で優戯を行い、妻昭国夫人銭氏の告発で右監門衛大将軍に降格、朝謁を絶たれた。銭氏も洞真道士となった。允初は初名允宗、朝会に勤め風雨も厭わず、財物の厚薄を問わず仏書を誦むのみで「不慧」と評されたが、寧国軍節度使同中書門下平章事に至った。治平元年(1064年)卒、中書令博平郡王を追贈。子なく、英宗が兄允良に後継を託し、允成の孫仲連を後継とした。
崇王元億
- 早世、追って名を賜い代国公封、治平中安定郡王封、徽宗が崇王に加封。
眞宗六子・仁宗三子
- 眞宗の6子は長温王禔、次悼献太子祐、次昌王祗、次信王祉、次欽王祈、次仁宗。禔・祗・祈は皆早世、徽宗が名を賜い追封した。悼献太子祐(母章穆皇后)は咸平初め信国公封、9歳で薨、周王を追封、諡悼献、仁宗即位で太尉中書令を追贈、明道2年皇太子に追冊。
- 仁宗の3子は長揚王昉、次雍王昕、次荊王曦、皆早世、徽宗代に改封。
濮安懿王允讓――出自と経歴
- 字益之、商王元份の子。天資渾厚で外は荘重、内は寛、喜怒を色に表さなかった。初め右千牛衛将軍。周王祐(眞宗の子悼献太子祐)の薨去後、真宗が緑車旄節で禁中に迎え養い、仁宗誕生後は簫韶部の楽をもって邸に送り返し、官は衛州刺史。仁宗即位で汝州防禦使、累拝寧江軍節度使。宗子を監督するため睦親宅を建てさせ、知大宗正寺として宗子に好学の勉励と善導を行い、聴かぬ者には勧戒を尽くし、それでも改まらねば罪を正した、そのため人々はみな畏服した。慶暦4年(1044年)汝南郡王封、同平章事、判大宗正司に改める。嘉祐4年(1059年)薨、年65、太尉中書令・濮王を追贈、諡安懿。
- 仁宗は在位久しく子なく、王の第13子宗実を皇子とした。仁宗崩御後、宗実が即位(英宗)。
濮安懿王允讓――濮議
- 治平元年(1064年)宰相韓琦らが、濮安懿王及び譙国夫人王氏・襄国夫人韓氏・仙遊県君任氏の典礼について有司に議させることを奏請し、大祥後に議すよう詔された。2年、礼官・待制以上に議させ、翰林学士王珪らが「儀礼喪服」に基づき「人後(継嗣)となった者は本生の父母に対し期年の喪とし、大宗を継いだ以上は小宗を降す」との原則を述べ、秦漢以来傍系から入継した帝王が実父母を帝后に推尊した例はいずれも当時から非難され後世の法とすべきでないとし、濮王は先朝の期親尊属の故事に准じ高官大国の尊称を与え、譙国・襄国・仙遊はいずれも太夫人と称すべきと結論した。中書はさらに「濮安は仁宗の兄にあたり、皇帝には皇伯にあたるので名を称すべきでない」との案(楚王・涇王の故事に倣う)を示したが、中書は同時に礼令・五服年月勅では継嗣の子は本生の父母に対し「父母」と称するのが通例で、漢の宣帝・光武帝も生父を皇考と称した例を挙げ、「皇伯」説には典拠がないとして、尚書省・三省・御史台に再議させるよう請うた。
- 議論が定まらぬ中、皇太后(曹太后)が手詔で執政を詰責し「集議が一致しないなら権りに議を罷め、有司に典故を求めさせよ」と命じた。礼官范鎮らはさらに漢の皇考・帝・皇の称や寝廟・昭穆の序立はいずれも陛下が法とすべきでないとして王珪らの前議を支持。御史呂誨らは欧陽修が邪議を首唱し、韓琦・曾公亮・趙概がこれに阿附した不正の罪を弾劾し、王珪らの議に従うよう固く請うた。
- やがて皇太后の手詔が示され「群臣が濮安懿王の封崇を議請したが未だ施行されていない。前史を閲すると故事があり、濮安懿王・譙国夫人王氏・襄国夫人韓氏・仙遊県君任氏は皇帝に親と称させ、濮安懿王を皇と称し、王氏・韓氏・任氏は並んで后と称すべし」と命じ、まさに施行されようとしたが、英宗は即日手詔で「親と称する礼は謹んで慈訓に従うが、追崇の典はたやすく定めがたい。塋(墓所)を園とし園に廟を立て、王の子孫に祠事を主奉させたい」と述べた。翌日呂誨らは前議が用いられないことに抗議し御史の勅誥を返上して家居し処罰を待った。誨らの主張は「前詔は集議を権りに罷めるとしたのに後詔ではさらに塋を園とし追崇の意図がなお続いている」というものであった。英宗は閤門に命じて誥を返させたが、誨らは台職を固辞し、これにより濮議は沈静化した。神宗の元豊2年(1079年)濮安懿王の三夫人を並んで「王夫人」と称するよう詔した。
濮安懿王允讓――子孫(嗣濮王以外)
- 王の28子のうち、長宗懿は英宗代宿州団練使・和国公封、神宗が濮安懿王の元子として舒王を追封。子仲鸞(常州防禦使、父の薨去で諸子皆進官する中で独り受けず、翰墨を喜び施与を楽しみ九族に賢と称された。卒、武康軍節度使洋国公を追贈、諡良)。仲鸞の弟仲汾(幼くして書史を好み一読して誦すほどで、父の喪に毀瘠に至った。萊州防禦使で卒官、昭化軍節度使栄国公を追贈)。
- 次宗樸は隴州防禦使岐国公。英宗と友愛が篤く、英宗が慶寧宮入居を固辞した際に率先して敦勧し入居させた。治平中濮王園廟建立で彰徳軍節度使濮国公を拝し王後を奉じ、神宗即位で同平章事兼侍中を加え、濮陽郡王進封。薨、太師中書令・定王を追贈、諡僖穆。子仲佺(父の死に数日絶食、母の葬送で雪中を歩く孝行、潤州観察使で卒、開府儀同三司を追贈)。宗樸薨後、宗誼が襲封(昭化軍節度使同中書門下平章事、薨、太師中書令広陵郡王を追贈、諡荘孝)。
嗣濮王の世系
- 治平3年(1066年)濮王園廟が立てられ、元豊7年(1084年)宗暉が嗣濮王に封じられ世々絶えぬこととされた。高宗の南遷で濮王の神主は紹興府光孝寺に奉安された。
- 宗暉: 元豊中淮康軍節度使で濮国公を襲封、安懿王及び三夫人の改祔で誌を命ぜられ神主に題す、同中書門下平章事開府儀同三司加、嗣濮王進封。哲宗立で鎮南節度使検校司徒に改め、紹聖元年(1094年)薨、年67、太師・懐王を追贈、諡榮穆。子仲璲(先に濮国嗣王は4孟に洛の園廟に詣で河南府県官が亜終献を務めていたが、宗暉の襲封時神宗が子を終献に充てるよう命じ、仲璲が10余年終献として侍祠、父の喪に哀痛し喪明けまもなく卒、右監門衛大将軍合州刺史)。
- 宗晟: 紹聖元年6月武安軍節度使判大宗正事検校司徒で嗣濮王、翌年3月薨、年65、太師・昌王を追贈、諡端孝。古学を好み蔵書数万巻、仁宗が国子監書を加賜。治平の郊祀で雨が降り祫享に改めるべきとの議があったが、英宗の諮問に「至誠が神に感じるのみ、改めるべきでない」と答え、郊祀は雨が晴れた。帝がしばしば病み、宗晟は早期の儲君擁立を密かに請い忠と称された。
- 宗愈: 哲宗紹聖2年(1095年)4月鎮安節度使開府儀同三司検校司徒で嗣封。病中に暑中の外出を止められたが「祀を主る身が行かないのは非礼」として強いて赴き、まもなく病篤くなり、同年8月薨、年65、太師・襄王を追贈、諡恭憲。
- 宗綽: 嗣、河陽三城節度使検校司徒、紹聖3年2月薨、年62、太師・栄王を追贈、諡孝靖。
- 宗楚: 武勝軍節度使開府儀同三司南陽郡王、紹聖3年3月検校司徒から武昌節度使に改め嗣濮王。園廟への薦献に赴くはずが病のため弟宗漢に代行させ「親奉できず先王を饗するのは浮食にすぎない、爵を弟に譲りたい」と願うも許されず、4年6月薨、太師・恵王を追贈、諡僖節。
- 宗祐: 己を律すること厳しく寒士のようで、易学を好んだ。嘉祐中、従父允初が嗣なく賢者として推され後継となる話が出た際、「幼くして両親を失い将終身悲慕するのに人後となるに忍びない」と死を以て辞退を請うたが仁宗が憐れみ許可した逸話がある。清海軍節度使開府儀同三司乗城郡王、紹聖4年8月検校司徒加嗣濮王。病のため園廟祠祭を辞さず秋から冬まで往来し、元符元年(1098年)春またも赴いて祠下で薨、太師・欽王を追贈、諡穆恪。
- 宗漢: 英宗の幼弟、保寧軍留後鄴国公東陽安康郡王を歴任。元符初彰徳軍節度使開府儀同三司検校司空で嗣濮王、徽宗即位で寧江保平泰寧三鎮に転じ判大宗正事、検校司徒太保太尉を加える。帝が濮邸に幸し子孫の官を進め、安懿王の諸子で独り宗漢のみ恩礼が厚かった。大観3年(1109年)8月薨、太師・景王を追贈、諡孝簡。画を善くし八雁図を作った。
- 仲増: 嗣、濮王孫で属長のため封。彰徳軍節度使開府儀同三司、政和5年(1115年)9月薨、少師・簡王を追贈、諡穆孝。
- 仲御: 幼くして経史に通じ朝廷典故を多く知った。父宗晟の喪に、哲宗が宗正に起用しようとしたが力辞し、虚位のまま服喪を終えた。鎮寧保寧昭信武安節度使、汝南華原郡王、政和中検校少傅泰寧軍節度使開府儀同三司で嗣封。天寧節に遼使が在廷し宰相が休暇中だった際、仲御が代理を務め上寿の礼を熟練者のように行い、帝は優礼を加え「嗣王」と称した。宣和4年(1122年)5月薨、年71、太傅・郇王を追贈、諡康孝。
- 仲爰: 嗣、徽宗即位で建武節度使拝、大宗正となり開府儀同三司加、江夏郡王封。泰寧定武に転節、検校少保少傅。宣和5年6月薨、年70、太保・恭王を追贈。
- 仲理: 嗣、靖康初安国軍節度使検校少保開府儀同三司。
仲湜とその子たち
- 仲湜: 字巨源、楚栄王宗輔の子、安懿王の孫、初名仲泹。熙寧10年(1077年)右内率府副率、密州観察使・知西外宗正事・保大軍承宣使を歴任。欽宗即位で靖海節度使を授かり改名(仲湜)、知大宗正事に召されるが未赴任のうちに汴京が陥落。康王(高宗)が南京で即位すると、仲湜は漢上から衆を率いて謁見、嗣濮王仲理が北遷したため仲湜に襲封が命ぜられた。開府儀同三司加、検校少保少傅を歴任、紹興元年(1131年)明堂亜献、7年薨、帝は輟朝し銀帛を賜与、儀王を追封、諡恭孝。母に孝で図史を好み、珊瑚を酷愛し(大きなもの一株を数百千で購入)、高宗の「墜落したらどうなるか」との問いに「砕けます」と答え、「民の膏血で無用の物を得るのは忍びない」との帝の言に恥じ入り答えられなかった逸話がある。子は士従・士街・士籛・士衎・士歆。
- 士従: 靖康末洺州防禦使、建炎2年(1128年)同知西外宗正事、高郵軍主管。潰卒を招募し屯所を置き江淮制置使を仮称し許された。賊李在が楚州を犯した際部将を派遣し虚を突いたが小勝に驕り軍紀が乱れ敗績、衡温二州に移司、弟士籛が州県を撹乱したことで士従が制御できず罷免された。紹興4年(1134年)涇洪二州観察使、権知濮王園、神位の安奉地を選ぶよう願い許可された。
- 士街: 6年象州防禦使、華州観察使、同知大宗正事、安慶軍承宣使、濮王祠事を主奉。軍興以来南班宗子の歳賜が停止され身歿しても殮葬できぬ者が出ていたのを朝廷に訴え旧制復活を得た。30年安徳軍節度使拝、宗司を14年司った。
- 士籛: 安慶軍節度使同知大宗正事、隆興元年(1163年)宗司の文書往来の序列が乱れていることを上言し是正を求めた。
- 士衎: 崇慶軍節度使知西外宗正事、右諫議何溥が海舟強市の罪を弾劾し罷官、後に南班に戻り奉朝請。隆興中辺事未寧のため士籛と共に奉給の半分を軍興援助に充てることを提案し、詔で奨諭された。
- 仲儡: 景王宗漢の子、右内率府副率から右監門衛大将軍、建炎末武功大夫忠州防禦使、紹興中済州、知南外宗正事、8年検校少保向徳軍節度使で嗣濮王を襲封。生まれつき不慧で、封を得た際帝の前で慟哭し狂謬な受答えをし、帝は優容した。9年薨、上輟朝3日、瓊王を追封、諡恭恵。
- 士俴: 安懿王の曽孫、紹興25年(1155年)11月襲封崇慶軍節度使。仲儡薨去時は秦檜専政で襲封が停止され、檜死去後に士俴が封され、翌年薨、少師を追贈、思王を追封、諡温靖。
- 士輵: 士俴の弟、紹興28年建州観察使から昭化軍節度使で襲封。懿王の神貌が報恩寺西の狭隘な挟屋にあったため別に祠堂を営むことを願い許可された。検校少保、開府儀同三司加、嗣濮王の居を世業として賜り知大宗正事、三少を歴任、醴泉観使、淳熙7年(1180年)薨、太傅を追贈、安王を追封。
- 士歆: 仲湜の第11子、保康軍節度使から襲封、開府儀同三司加、三少に陞、慶元2年(1196年)薨、太傅を追贈、韶王を追封。
- 不□: 安懿王の元孫、年76、武功郎を歴任、士歆薨去後年最高で襲封、福州観察使、庶官から襲封、慶元5年(1199年)武安軍承宣使に転じ、まもなく薨、開府儀同三司を追贈、蔣国公を追封。
- 不□(別人物): 武経大夫から利州観察使で襲封、開禧初寧遠軍承宣使に遷り薨、開府儀同三司を追贈、安国公を追封。
- 不儔: 開禧2年(1206年)安遠軍承宣使から襲封、昭慶軍節度使に転じ検校少保、嘉定10年(1217年)薨、少師を追贈、高平郡王を追封。
- 不嫖: 武翼大夫から襲封、福州観察使を授かる(嘉定11年〔1218年〕)、翌年薨、開府儀同三司を追贈、恵国公を追封。
- 議論: 臣僚が「嗣濮王の元の指揮では年長・行尊者を選ぶとの規定があるが、高宗朝の儀王仲湜は徳望を理由に仲孮を越えて選ばれ、武徳郎□次が官卑を理由に士㒟に権に祠事を奉じさせ16年後にようやく士俴の封を正した例もある、これは定制に拘らなかった証」として、今後は大宗司に銓量させ都堂で審察し閤門で引見の後奏請するよう提案、寧宗がこれに従った。
- 不淩: 父士㒟。不嫖薨去後、不淩が右千牛衛将軍から福州観察使で襲封、嘉定15年(1222年)奉国軍承宣使に転じ、17年薨、開府儀同三司を追贈、恵国公を追封。