神宗欽聖憲肅向皇后
- 河内の人。宰相向敏中の曾孫。治平三年(1066年)潁邸に嫁ぎ安国夫人、神宗即位後に皇后。神宗の病時、宣仁太后の建儲(哲宗擁立)を賛助。哲宗即位後は皇太后となり、宣仁太后が慶寿故宮を修めて居させようとしたが、「姑が西に、婦が東に居るのは上下の分を凌ぐ」として辞退、慶寿後殿を隆祐宮として居した。
- 帝が后妃を選ぶ際、向氏一族の女を選から外させ、族党が特旨を借りて官職を求めることも許さなかった。
- 元符の末、帝が急逝した際、独断で端王(徽宗)を迎える策を決し、章惇の異議を退けた。徽宗即位後、権りに軍国事を同処分するよう請われたが、長君であることを理由に辞退し、六か月ののち還政した。紹聖・元符年間に章惇に斥逐された賢士を次第に登用した。明年正月崩、年五十六。二舅の向宗良・向宗回はともに開府儀同三司・郡王に叙せられ、曾祖向敏中以上三世も王爵を追贈された。
欽成朱皇后
- 開封の人。父崔傑は早世、母李氏は朱士安に再嫁。熙寧初め入宮し御侍・才人・婕妤を経て哲宗・蔡王似・徐国公主を生み、徳妃に進む。哲宗即位後、皇太妃と尊ばれたが、宣仁・欽聖の二太后が上位にあったため称号は極まらなかった。
- 元祐三年(1088年)、宣仁太后の詔により「母は子を以て貴し」の義に基づき待遇を優隆され、輿蓋・仗衛・冠服はことごとく皇后に准じた。紹聖中、欽成の名で殿を建て、聖瑞宮と号す。崇寧元年(1102年)二月薨、年五十一。追冊されて皇后、永裕陵に祔葬。
欽慈陳皇后
- 開封の人。幼くして頴悟荘重、御侍として入宮し徽宗を生んだ。帝崩後は陵を守り、旧恩を思って哀毀した。薨、年三十二。建中靖国元年(1101年)追冊されて皇太后、永裕陵に祔葬。
林賢妃
- 南剣の人。三司使林特の孫、司農卿林洙の女。幼くして入宮し永嘉郡君・美人を経て燕王俁・越王偲・邢国公主を生み、婕妤に進む。元祐五年(1090年)薨、一品の礼で葬られ、貴儀・賢妃を追贈された。
武賢妃
- 選ばれて入宮、元豊五年(1082年)才人となり呉王佖・賢和公主を生む。美人・婕妤を経て徽宗即位後は昭儀・賢妃に進む。大観元年(1107年)薨、輟朝三日、諡は恵穆。
哲宗昭慈聖献孟皇后
- 洺州の人。馬軍都虞候贈太尉孟元の孫女。宣仁高太后が世家の女百余人から選び、后は十六歳で入宮、宣仁・欽聖両太后に愛され女儀を教えられた。元祐七年(1092年)皇后に冊立。呂大防・韓忠彦・蘇頌・王巌叟ら重臣が六礼の使を務めた盛儀であった。
- 劉婕妤(後の昭懐劉皇后)が寵を得るにつれ礼を欠くようになり、両者の従者の間で軋轢が絶えなかった。娘の福慶公主の病の際、姉が道家の符水を用いたことが「厭魅」の疑いを招き、宦官梁従政・蘇珪らが皇城司で三十人近くを拷問。侍御史董敦逸が疑義を抱きつつも郝隨らの脅しにより奏を上げ、后は廃されて瑤華宮に居し、華陽教主玉清妙静仙師と号した。
- 章惇が宣仁太后の廃立計画を誣告したこととも絡み、天下は寃を訴えた。哲宗も後に「章惇に誤られた」と悔いた。元符末、欽聖太后が復位させようとし、崇寧初め蔡京・郝隨により再び廃されたが、金軍侵入後の靖康の乱で唯一北遷を免れ、張邦昌の偽楚政権下で「宋太后」として垂簾聴政。
- 康王(高宗)を迎え即位させ、その日のうちに撤簾。隆祐太后(元祐太后改称)として、苗傅・劉正彦の乱の際には毅然として立太子要求を拒み、韓世忠らによる鎮圧の一助となった。紹興五年(1135年)四月崩、年五十九、諡は昭慈献烈(後に昭慈聖献と改諡)。
昭懐劉皇后
- 御侍として明豔多才、美人・婕妤・賢妃を経て一子二女を生み盛寵を得た。孟后在位中も列妾の礼に従わず、密かに謗言を作り孟后廃立に加担。孟后廃後に代わって皇后となった。右正言鄒浩の極諫は容れられず竄流された。
- 徽宗即位後、元符皇后として尊ばれ、崇恩宮を号した。哲宗ゆかりの恩礼を受けたが外事への干与が過ぎ、廃されそうになった矢先、左右に逼られて簾鈎に自縊し崩、年三十五。
徽宗顕恭王皇后
- 開封の人。徳州刺史王藻の女。元符二年(1099年)六月端邸に嫁ぎ順国夫人。徽宗即位後、皇后に冊立され欽宗・崇国公主を生む。恭儉で、鄭妃・王妃らが寵を競う中でも公平に接した。宦官の誣告事件でも一切帝を誹らなかったことに帝も感じ入った。大観二年(1108年)崩、年二十五、諡は静和。裕陵の次に葬られ、紹興中に徽宗廟室へ祔せられ諡を改めた。
鄭皇后
- 開封の人。父鄭紳は直省官。もと欽聖殿押班であったが、端王(徽宗)に鄭・王二押班として仕えさせられ、即位後に賜わる。書を好み奏章を自ら作れるほどで、崇寧初め賢妃、後に貴妃。
- 王皇后崩後、政和元年(1111年)皇后に立てられた。冊礼に際し国用不足を理由に冠珠の費用を削らせ、外戚の要職就任を退けさせるなど謹厳。
- 欽宗受禅後は太上皇后・寧徳太后。金の侵攻で徽宗一行と北遷し、五国城で崩、年五十二。紹興七年(1137年)に訃報が伝わり、高宗は大いに慟哭。諡は顕肅、会稽の永祐陵に徽宗と合葬。
王貴妃
- 鄭后とともに押班を務め、徽宗即位後平昌郡君、のち貴妃。鄆王楷・莘王植・陳王機ほか多くの帝姫を生む。政和七年(1117年)九月薨、諡は懿肅。
韋賢妃
- 開封の人、高宗の母。もと侍御、崇寧末に平昌郡君、婉容を経て徽宗の北遷に従い、建炎改元後に宣和皇后と遥尊された。
- 高宗が北方在留中の母を思う心情が強く、金との和議も専ら母の帰還を求めるためだったという。紹興十二年(1142年)四月に帰還を果たし、慈寧宮に入居。聡明で機略に富み、遺骨の帰還交渉でも金使を欺いて円滑に事を運んだ逸話が残る。
- 皇后冊立にも意見を述べ、政事への干与は控えつつ生活万般に高宗の孝養を受けた。二十九年(1159年)八十歳、九月に病を得て崩、諡は顕仁、永祐陵の西に祔葬。仏道を篤く信じ、西湖畔に祠を立てた。
喬貴妃
- もと韋妃(高宗母)と姉妹の契りを結んでいたが、先に徽宗の寵を得て貴妃となる。二帝の北遷に伴ったが、韋妃の帰還に際し餞別を贈り、「姉は無事帰れば皇太后、妹は死ぬまで朔漠に残る」と大いに泣いて別れたという。
劉貴妃
- 微賤の出ながら入宮後たちまち寵を得、才人から貴妃まで七遷。済陽郡王棫・祁王模・信王榛を生む。政和三年(1113年)秋薨。手ずから植えた芭蕉の成長を見ずして死ぬことを予言していたという逸話が残る。特に「明達懿文」の四字諡を贈られ、皇后への追崇も図られたが実現しなかった。
(安妃劉氏)
- 酒屋の娘出身で崇恩宮に仕えた後、宦官楊戩の推挙で再入宮、才人から淑妃となる。装いを凝らすたび世間で流行するほどで、政和四年(1114年)貴妃に進む。父劉宗元も節度使に取り立てられた。宣和三年(1121年)薨、年三十四、皇后に追贈。
- 死後、崔妃が独り哀悼の色を見せなかったことから帝に厭蠱の疑いをかけられ、卜者劉康孫らとともに獄に下され誅殺、崔妃も庶人に落とされた。崔妃は漢王椿ほか五帝姫を生んでいた。
欽宗朱皇后
- 開封祥符の人。父朱伯材は武康軍節度使。欽宗が東宮であった頃、皇太子妃に冊立され、即位後に皇后。北遷後は消息不明のまま没し、慶元三年(1197年)尊号・諡「仁懐」を贈られ太廟に祔せられた。
高宗憲節邢皇后
- 開封祥符の人。父邢煥は朝請郎。高宗が康王であった頃に嫁ぐ。靖康の変で北遷、上皇(徽宗)が曹勲を遣わし高宗に金環を届けさせ再会を願う逸話を残す。高宗即位後、遥かに皇后に冊立。紹興九年(1139年)五国城で崩、年三十四。訃報は十六年後、顕仁太后帰還時に判明し、高宗は哭礼を行い諡を懿節(後に憲節)とした。
憲聖慈烈呉皇后
- 開封の人。父呉近は后の貴によって累官し武翼郎、太師呉王を追封。十四歳で高宗(康王)の宮に選ばれ入る。戎装で高宗に近侍し、書史・翰墨にも通じた。
- 高宗即位後、才人から貴妃を経て、憲節皇后崩後の紹興十三年(1143年)皇后に冊立。伯琮(孝宗)・伯玖(璩)二人の宗子を育て、伯琮の資質を見抜き皇子に推した。
- 高宗内禅後は太上皇后、孝宗即位後に寿聖太上皇后、以後歴代の尊号を重ね、光宗朝の紹熙五年(1194年)帝の心疾に際し、光宗の禅位・寧宗擁立を主導。慶元三年(1197年)十月崩、年八十三、諡は憲聖慈烈、永思陵に祔葬。
潘賢妃
- 開封の人。元懿太子の母。父潘永寿は翰林医局の官。邢后の北遷後に位号がないまま高宗の即位を迎え、賢妃に立てられた。太子薨後は隆祐太后に従い江西に赴く。紹興十八年(1148年)薨。
張賢妃
- 開封の人。建炎初め才人として寵を得、婕妤に進む。高宗が宗室の子を選び養育する際、心中に定めていたのは彼女で、伯琮(孝宗)を養母として育てた。孝宗擁立に功があり、後に婉儀に進む。十二年(1142年)卒、輟朝二日、賢妃を追贈。
劉貴妃
- 臨安の人。紅霞帔として入宮後、才人・婕妤・婉容を経て紹興二十四年(1154年)賢妃。驕奢の逸話(水晶飾りの脚踏みなど)を残す。淳熙十四年(1187年)薨。父劉懋は金軍侵攻時に軍費として銭二万緡を献じた。
劉婉儀
- 入宮後、才人から婉儀に進み権勢を弄した。広州の外商に賄賂を斡旋させようとしたが発覚し止められた。金の背盟の情報を漏らして劉錡誅殺の陰謀に関与を疑われ、露見して廃された。
張貴妃
- 開封祥符の人。乾道六年(1170年)婉容、淳熙七年(1180年)淑妃、十六年(1189年)貴妃。紹熙元年(1190年)薨。ほかに美人馮氏・才人韓氏・呉氏・李氏・王氏らが寵を受けたが後に廃された(呉氏のみ皇后近親のため紹興三十年に旧に復す)。
孝宗成穆郭皇后
- 開封祥符の人。孝宗が普安郡王であった頃に嫁ぐ。光宗・荘文太子愭・魏恵憲王愷・邵悼粛王恪を生む。紹興二十六年(1156年)薨、年三十一。太子冊立に伴い皇太子妃を追封、受禅後に皇后を追冊。諡は恭懐から安穆、さらに成穆と改められ孝宗廟に祔した。弟の郭師禹らは節度使に至った。
成恭夏皇后
- 袁州宜春の人。曽祖夏令吉は吉水簿。憲聖太后の閤中侍御より普安郡王夫人となり、郭氏薨後に賜わる。即位後に賢妃、翌年皇后。乾道二年(1166年)三年に崩、諡は安恭(後に成恭)。弟夏執中は謙抑を旨とし、他人の縁組の斡旋を拒んだ逸話を残す。
成粛謝皇后
- 丹陽の人。翟氏に育てられ翟姓を冒す。憲聖太后より普安郡王に賜われ、成恭皇后崩後、淳熙三年(1176年)貴妃から皇后に立てられ本姓の謝に復した。光宗受禅後に寿成皇后、孝宗崩後は皇太后。倹約を旨とし、御服の澣濯を数年替えぬこともあったという。嘉泰三年(1203年)崩、諡は成粛。弟謝淵は后の遺誥により厚く賜与された。
蔡貴妃
- 紅霞帔として入宮、婉容を経て淳熙十年(1183年)貴妃、十二年(1185年)薨。父蔡滂は宜春観察使。
李賢妃
- 典字として入宮、通義郡夫人・婕妤を経て淳熙十年(1183年)卒し賢妃を追贈。李燾が後宮費用の抑制を諫めた際、帝は「その葬儀費用は三万緡に過ぎぬ」と答えたという逸話がある。
光宗慈懿李皇后
- 安陽の人。慶遠軍節度使贈太尉李道の中女。生誕時に黒鳳が現れた瑞祥から鳳娘と名付けられた。相人皇甫坦に「天下の母となる相」と評され、高宗の推薦で恭王(光宗)妃となる。乾道四年(1168年)嘉王を生み、七年(1171年)皇太子妃。
- 性は妬悍で、東宮内の争いを高宗・孝宗に訴え、両宮の不興を買った。即位後に皇后。光宗の宦官粛正計画に対し宦官らが三宮離間を図り、孝宗が光宗の心疾を治す薬を献じようとした際、后が毒薬と誤らせて飲ませてしまう事件が起きた。
- 嘉王立太子を求め孝宗に拒まれると、光宗に「太上(孝宗)に廃立の意あり」と讒言、光宗はこれを信じ孝宗のもとへの朝謁を絶った。黄貴妃を嫉妬から殺害し、光宗の病はさらに悪化した。
- 紹熙四年(1193年)重明節、宰執・臺諫が孝宗への朝謁を求め、給事中謝深甫らの諫言により光宗が朝謁に動きかけたが、后が制止し、中書舎人陳傅良の諫止も退けた。孝宗崩後も光宗は喪に服せず、趙汝愚らが内禅を計り寧宗を擁立、后は太上皇后となる。慶元六年(1200年)崩、年五十六、諡は慈懿。
黄貴妃
- 淳熙末、徳寿宮で和義郡夫人となり、光宗が皇太子の頃に侍姫を持たなかったため上皇より賜わり寵を専らにした。即位後貴妃。紹熙二年(1191年)十一月、李皇后に殺害され、帝はこれにより発病した。
寧宗恭淑韓皇后
- 相州の人。六世祖は忠献王韓琦。姉とともに選ばれ入宮、新安郡夫人・崇国夫人を経て寧宗受禅後に皇后。父韓同卿は観察使に至るも、叔父韓侂冑の権勢を憚り干政を避けた。慶元六年(1200年)崩、諡は恭淑。
恭聖仁烈楊皇后
- 姓氏は不詳(一説に会稽の人)。慶元元年(1195年)平楽郡夫人、婕妤・婉儀・貴妃を歴任。楊次山を兄と称して楊姓を名乗る。書史に通じ機警であったため韓侂冑に警戒され、性柔順な曹美人の立后を勧められたが寧宗はこれを退け楊氏を立てた。
- 韓侂冑打倒の陰謀に加わり、史弥遠らと結んで開禧三年(1207年)韓侂冑を暗殺させた。以後、史弥遠が権勢を握る。嘉定十四年(1221年)以降、皇子擁立をめぐり皇子竑と史弥遠が対立、弥遠は昀(理宗)擁立を画策。
- 帝の危篤に際し弥遠が昀を宮中に召した際、后は当初「先帝の定めた皇子を勝手に変えられぬ」と拒んだが、繰り返しの説得に折れ、竑を済王に廃し昀を皇子として即位させた。太后として同聴政。紹定五年(1232年)崩、年七十一、諡は恭聖仁烈。
理宗謝皇后(謝道清)
- 天台の人。父謝渠伯、祖父謝深甫。生まれつき色黒く隻眼であったが、謝深甫が楊太后擁立に功があった縁から選ばれた。当初縁談を持ちかけられた美貌の賈氏に対し「仮の皇后」と陰口を叩かれたが、病を経て皮膚が瑩白に変わり眼病も治癒、理宗の意により正式に皇后となった。
- 賈貴妃・閻貴妃の専寵にも寛容に接した。開慶初め、蒙古軍の渡江に際し理宗の遷都議に反対して思いとどまらせた。度宗立太子後は皇太后、度宗崩後は太皇太后として垂簾聴政。
- 財政窮乏の中で倹約を励行し、賈似道の軍事失敗に対しても功労を配慮しつつ処断。徳祐元年(1275年)の日食を天変として自ら「聖福」の尊号を削り、朝堂に自省と督励の榜文を掲げた。陳宜中らの動揺・逃亡が相次ぐ中、なお和議・遷都を模索したが、翌年正月、元軍が皋亭山に迫り宋は滅亡。瀛国公とともに入朝し、寿春郡夫人に降封。七年後、七十四歳で没した。
度宗全皇后
- 会稽の人。理宗の母慈憲夫人の姪孫女。父全昭孫に従い各地を転じ、艱難を経験。忠王(度宗)の妃選定に際し、「淮湖の民こそ憐れむべき」との対答が理宗に称賛され太子妃に選ばれた。景定二年(1261年)冊立、度宗即位後の咸淳三年(1267年)皇后。瀛国公(子)を生む。度宗崩後、皇太后として瀛国公とともに元に降り、後に出家して尼となり燕京の正智寺で終えた。
楊淑妃
- 咸淳三年(1267年)淑妃、建国公昰(端宗)を生む。宋滅亡後、昰とともに温州・福州へ逃れ、昰擁立の後に太后となる。昰の死後、弟の衛王昺(修容俞氏の子)を立てたが、祥興二年(1279年)昺が海に身を投げて没すると、妃も「趙氏の祭祀のために生き延びてきたが、もはや望みなし」として海に身を投げて没した。将軍張世傑がその遺骸を海浜に葬った。