序(后妃伝の趣旨)
- 編者は、周の始祖后稷の母姜嫄の故事を引き、王朝の基は后妃の内助にあるとする。宋の場合も宣祖の代から功業が興り、昭憲杜太后が太祖・太宗を生み育てて内助の賢をなしたことが宋の基業を開いたとする。
- その後、慈聖光獻曹后は英宗・神宗の二朝を支え、宣仁聖烈高后は垂簾聴政して元祐の治を成し、南渡後も高宗の隆祐太后・孝宗の慈懿への孝養など、いずれも後世の模範となったと評す。
- 宋三百余年、外戚による前漢の王氏のような専横、内寵による唐の武后・韋后のような禍もなかったことを特筆すべきとし、昭憲太后の厳毅な家法を『易』家人卦の言に例えて称える。
太祖母昭憲杜太后
- 定州安喜の人。父は杜爽(贈太師)、母は范氏。五男三女の長女として生まれ、宣祖に嫁ぎ、家を治めること厳格で礼法にかなっていた。
- 邕王光済・太祖・太宗・秦王廷美・夔王光賛および燕国・陳国の二長公主を生んだ。
- 太祖が後周の定国軍節度使であった頃、南陽郡太夫人に封ぜられた。陳橋の変で太祖が即位したとの報を受けても、太后は喜ぶより「天子の位は治め方を誤れば匹夫にすら戻れぬ危うい地位」と憂えたという逸話を残す。
- 建隆二年(961年)、太后が重病の際、太祖に「そなたが天下を得たのは祖考と私の余慶のおかげか」と問い、太祖が「祖考と太后の積慶による」と答えると、太后は「後周が幼主を立てたために天下を失ったのだ。そなたの死後は弟(太宗)に位を伝えよ」と命じた。太祖は涙して従うと誓い、太后は趙普に命じてこの誓約を紙に書かせ、金匱に納めさせた(いわゆる金匱の盟)。
- 太后は滋徳殿で崩じ、年六十。諡は明憲、安陵に葬られ太廟に袝享。乾徳二年(964年)、諡を昭憲と改め安陵に合祔した。
太祖孝惠賀皇后
- 開封の人。右千牛衛率府率賀景思の長女。温柔恭順で礼法にかなった振る舞いをした。
- 後周顕徳三年(956年)、太祖が定国軍節度使となった際に会稽郡夫人に封ぜられ、秦国・晋国の二公主と魏王徳昭を生んだ。
- 五年(958年)、病により薨去、年三十。建隆三年(962年)に追冊されて皇后となり、乾徳二年(964年)に諡を孝恵とし、安陵の西北に葬られた。神宗の代に孝章・淑徳・章懐と並んで太廟に袝せられた。
太祖孝明王皇后
- 邠州新平の人。彰徳軍節度使王饒の第三女。孝恵皇后の崩後、後周顕徳五年(958年)、太祖が殿前都点検であった際に継室として迎えられた。
- 恭勤仁慈で、後周世宗より冠帔を賜り琅邪郡夫人に封ぜられた。太祖即位後の建隆元年(960年)八月、皇后に冊立された。彈箏・鼓瑟を善くし、朝には仏書を誦した。三子女を生んだがみな早世。
- 乾徳元年(963年)十二月に崩じ、年二十二。翰林学士竇儀が哀冊文を撰した。二年(964年)四月、安陵の北に葬られ、別廟に享られた。太平興国二年(977年)に太廟に袝享。
太祖孝章宋皇后
- 河南洛陽の人。左衛上将軍宋偓の長女、母は後漢の永寧公主。幼くして母に伴い後周太祖に見え冠帔を賜る。
- 乾徳五年(967年)、太祖にも冠帔を賜られる。開宝元年(968年)二月に入宮して皇后となり、年十七。柔順で礼を好み、太祖の朝退の際は常に冠帔を整えて迎えた。
- 太祖崩後は開宝皇后と号し、太平興国二年(977年)西宮に、雍熙四年(987年)東宮に移居。至道元年(995年)四月に崩じ、年四十四。吏部侍郎李至が哀冊文を撰し、別廟に享られたが、神宗の代に太廟へ昇祔された。
太宗淑徳尹皇后
- 相州鄴の人。滁州刺史尹廷勲の女、兄は保信軍節度使尹崇珂。太宗が後周に仕えていた頃に嫁いだが早世。太宗即位後、追冊されて皇后となり、孝明陵の西北に葬られ、後に太廟に昇祔された。
太宗懿徳符皇后
- 陳州宛丘の人。魏王符彦卿の第六女。後周顕徳中に太宗に嫁ぎ、建隆初め汝南郡夫人、のち楚国夫人に進封。太宗が晋王に封ぜられると越国夫人となる。開宝八年(975年)薨去、年三十四、安陵の西北に葬られた。
- 太宗即位後に追冊されて皇后、諡は懿徳。至道三年(997年)に太廟へ配祀。姉は後周世宗后であった。淳化四年(993年)に姉が没した。
太宗明徳李皇后
- 潞州上党の人。淄州刺史李処耘の第二女。開宝中、太祖が太宗のために妃として娉わせたが、太祖崩御により延期。太平興国三年(978年)にようやく入宮、年十九。雍熙元年(984年)十二月に皇后に立てられた。
- 太宗崩後、真宗即位の至道三年(997年)四月に皇太后と尊ばれる。景徳元年(1004年)崩、年四十五、諡は明徳。三年(1006年)十月、永熙陵に祔葬。懿徳・明徳を先後の序で太宗廟室に同祔した。
太宗李賢妃
- 真定の人。乾州防禦使李英の女。太祖が容徳あるを聞き太宗のために娉わせた。開宝中に隴西郡君に封ぜられ、太宗即位後に夫人に進む。皇女二人はいずれも早世、のち楚王元佐と真宗を生んだ。
- 太平興国二年(977年)薨、年三十四。真宗即位後に追封され賢妃、さらに皇太后に進み、諡は元徳。咸平三年(1000年)永熙陵に祔葬。大中祥符六年(1013年)、皇太后の尊号から「太」字を除いて太廟へ昇祔(明徳の次)。
真宗章懐潘皇后
- 大名の人。忠武軍節度使潘美の第八女。真宗が韓王邸にあった頃、太宗が娉わせ莒国夫人に封ぜられた。端拱二年(989年)五月薨、年二十二。真宗即位後に追冊されて皇后、諡は荘懐(後に章懐と改める、太祖・太宗の諡字との整合のため)。永昌陵の側、陵名保泰に葬られ、別廟に享られた。
真宗章穆郭皇后
- 太原の人。宣徽南院使郭守文の第二女。淳化四年(993年)、真宗が襄王邸にあった頃に娉わせられ魯国夫人、のち秦国夫人。真宗即位後に皇后に立てられた。景徳四年(1007年)西京より還る途上疾により崩、年三十二。
- 謙約で奢侈を嫌い、外戚の華美な服飾を戒めた。太常が諡を荘穆と奏し、翰林学士楊億が哀冊を撰し、永熙陵の西北に葬られた。仁宗即位後、真宗廟室に昇祔し諡を章穆と改めた。
真宗章献明肅劉皇后
- もと太原の家系で、後に益州に移り華陽の人となる。祖父劉延慶は晋・漢の間に右驍衛大将軍、父劉通は虎捷都指揮使嘉州刺史で太原征討の途上で没した。
- 幼くして孤となり外家に育てられ、蜀人龔美に伴われ京師に入った。十五歳で襄王(真宗)邸に入るが、乳母秦国夫人の諫めで一度外に出され、張耆家に身を寄せた。太宗崩後、真宗即位により入って美人となり、宗族なきため龔美を兄弟とし劉姓を名乗った。
- 修儀・徳妃を経て、章穆皇后崩後、大臣の反対を押して真宗により皇后に立てられた。李宸妃の生んだ仁宗を実子として楊淑妃とともに養育。書史に通じ、朝廷事に通暁し、天禧四年(1020年)に真宗が久しく病むと政務の多くを裁決した。
- 宰相寇凖が皇太子監国を密議したが漏れて罷免され、丁謂が代わったが、入内都知周懐政が丁謂殺害・寇凖復用を謀り露見、逐われた。真宗崩後、遺詔により皇太后として軍国の重事を裁決。垂簾聴政すること凡そ十一年に及んだ。
- 尊号「応元崇徳仁寿慈聖太后」を受け、天聖年間、郊祀・親耕の礼で后位を重んじた。明道二年(1033年)崩、年六十五、諡は章献明肅、永定陵の西北に葬られる。追贈三世は太師・尚書令兼中書令に至り、父は魏王に封ぜられた。
- 仁宗が幼少で即位した際、太后は号令厳明で恩威天下に及んだが、内外の賜与には節度があり、私情による恩典を退けた逸話(宗室の老婦への対応、大臣への茶の賜り方など)を多く残す。晩年は外戚の羅崇勲・江徳明らが権勢を張り、御史の弾劾により逐われた。
- 太后崩後、章献・章懿(李宸妃)を章穆と並べて真宗廟に祔することが議論され、慶暦五年(1045年)に太宗廟の懿徳・明徳・元徳三后の故事に倣い真宗廟へ遷祔された。
李宸妃
- 杭州の人。祖父李延嗣は呉越に仕え金華県主簿、父李仁徳は左班殿直。章献太后の侍児として入宮し、荘重寡言、真宗の司寝となる。懐妊し、玉釵を落として無事だったことを吉兆として仁宗を生んだ。
- 崇陽県君に封ぜられ、後に才人・婉儀を経て仁宗即位後は順容となる。章献太后が仁宗を実子とし楊淑妃に養育させたため、妃は終始沈黙を守り、仁宗も生母と知らなかった。
- 明道元年(1032年)病重り、宸妃に進められて薨、年四十六。章献太后は当初宮人の礼で葬ろうとしたが、丞相呂夷簡の進言により一品の礼で殯葬、水銀を用いて棺を実たすなど厚く葬らせた。
- 章献太后崩後、燕王が仁宗に真相を告げ、仁宗は号慟して皇太后を追尊、諡は荘懿。棺を開くと妃の姿は生けるが如くであった。慶暦中に諡を章懿と改め太廟に昇祔。弟の李用和は彰信軍節度使に至り、後に福康公主がその子瑋に嫁いだ。
楊淑妃
- 益州郫の人。祖父楊瑫、父楊知儼、叔父楊知信は禁軍の天武副指揮使。妃は十二歳で皇子宮に入り、真宗即位後に才人となり婉儀に進んだ。
- 章献太后の修儀となり、太后と地位ほぼ並ぶまでに至ったが、聡敏で章献に逆らわなかったため深く親愛された。真宗崩後の遺制により皇太后となる。
- 仁宗を幼時より養育し、即位後もその功により保慶皇太后と称された。景祐三年(1036年)薨、年五十三。父祖は累贈により節度使に至った。
沈貴妃
- 宰相沈倫の孫、父沈継宗は光禄少卿。大中祥符初め、将相の家の子として選ばれ才人となり、美人・婕妤・充媛を経て徳妃となった。人となり淑やかで華美を好まず、帝に立后を望まれたが妨げがあり果たせなかった。
- 嘉祐末に貴妃に進む。熙寧九年(1076年)薨、年八十三。輟朝三日、諡は昭静。
仁宗郭皇后
- 応州金城の人。平盧軍節度使郭崇の孫。天聖二年(1024年)皇后に立てられた。当初帝は張美人を寵愛し立后を望んだが章献太后がこれを難じた。
- 立后後も帝が尚美人・楊美人を寵愛し后との争いが絶えず、ある時尚氏との争いで后が誤って帝の頸を打ち、大怒を招いた。入内都知閻文応が廃后を勧め、宰相呂夷簡もかつての怨みから同調し、后は廃されて浄妃・玉京冲妙仙師となった。
- 中丞孔道輔・諫官范仲淹ら十人が伏閤して廃后不可を訴えたが黜責された。景祐元年(1034年)瑤華宮に出居。後に帝が念じて使者を遣わし密かに宮中へ召そうとしたが、小病を患い閻文応が医を遣わした数日後に暴薨、世人は毒殺を疑った。帝は深く悼み、皇后を追復したが諡冊・祔廟の礼は停止された。
仁宗慈聖光献曹皇后
- 真定の人。枢密使曹武恵王曹彬の孫。明道二年(1033年)郭后廃后の後に聘入され、景祐元年(1034年)九月皇后に冊立。慈儉で稼穡を重んじ、禁苑に穀を植え自ら養蚕した。
- 慶暦八年(1048年)正月、宮中衛卒数人が乱を起こし寝殿に迫った際、后は帝を守り、都知王守忠に命じて兵を引き入れさせ、火を放とうとした賊の意図を察して水を用意させ鎮圧に功があった。乱後の恩賞に用いるとして宦侍の髪を自ら剪って印とし、士気を高めたという。
- 張貴妃が寵を恃んで皇后の儀仗を借りようとした際、これを許しつつも「国家の文物儀章には上下の秩がある」と暗に諭した。英宗を四歳より禁中で養育し、育英の功が大きかった。
- 帝の崩後、英宗を奉じ即位させ、皇太后として同処分軍国事を行った。政務に多く関与しつつも私意を出さず、外戚を厳しく律した。神宗立后後は太皇太后として慶寿宮に居し、王安石の新法(青苗・助役等)の弊を神宗に諫めるなど、旧法擁護の立場を取った。
- 蘇軾が詩によって獄に下された際には帝に取り成し、これによって軾は死を免れたという。元豊二年(1079年)冬、崩、年六十四。永昭陵に葬られた。
張貴妃
- 河南永安の人。祖父張頴は進士出身、父張堯封も進士で石州推官として卒す。孤児となり章惠皇后宮に納められ、後に幸を受け寵を得た。慶暦元年(1041年)清河郡君に封ぜられ、才人・修媛を経て貴妃に進む。
- 皇祐初め貴妃、五年後(1056年)薨、年三十一。仁宗が深く哀悼して追冊し皇后となし、諡は温成。父堯封は清河郡王に追封された。
苗貴妃
- 開封の人。父苗継宗、母許氏はもと仁宗の乳母。入宮後に容徳を以て侍り、唐王昕・福康公主を生む。仁寿郡君・才人・昭容・徳妃を歴任し、英宗を禁中で養育した功により貴妃に進む。父は太師呉国公に追贈。元祐六年(1091年)薨、年六十九、諡は昭節。
周貴妃
- 開封の人。四歳で入宮し張貴妃に養われる。仁宗に侍り二公主を生む。帝崩後は日に一食の精進で仏書を誦す生活を四十年続け、五朝(仁宗~徽宗)に仕えて勤約であった。年九十三で薨、諡は昭淑。
楊徳妃
- 定陶の人。天聖中、章献太后の姻戚として選ばれて御侍となる。機敏で音律・書芸に長じ、父楊忠の栄達を辞退するなど謙抑であった。郭后廃后に伴い一時出されたが後に召し戻され修媛・修儀を経る。熙寧五年(1072年)薨、年五十四、徳妃を贈られる。
馮賢妃
- 東平の人。仁宗に侍り邢・魯国二公主を生む。養女の林美人が神宗の二王を生んで没した後はその子を自らの子のように養育。禁掖に約六十年仕え、五朝を通じて礼度を守った。薨、年七十七、賢妃を贈られる。
英宗宣仁聖烈高皇后
- 亳州蒙城の人。曾祖高瓊・祖父高継勲はともに軍功があり節度使に至る。母曹氏は慈聖光献曹后の姉。幼くして宮中に育ち、英宗と同年で、仁宗により将来の配偶と定められて濮邸で成婚。神宗・岐王顥・嘉王頵・寿康公主を生んだ。治平二年(1065年)皇后に冊立。
- 弟高士林の官位昇進を固辞するなど謙抑。神宗立后後は皇太后として寳慈宮に居し、帝の孝養に応えた。元豊八年(1085年)神宗の病篤きに際し、幼い皇太子(哲宗)を立てさせ、太皇太后として垂簾聴政。
- 司馬光・呂公著らを召し、王安石変法以来の政事(青苗・助役等)を次第に旧に復し、辺境の不毛の地を西戎に還すなど寛政を敷いた。契丹主も「南朝は仁宗の政を尽く行っている」と評したという。
- 蔡確が「車蓋亭詩」の獄で貶謫された背景には、章惇らの讒言があったことを見抜き、私怨によらず宗社の大計として処断したと自ら述べた。外戚に恩を厚くせず、宗族の官位昇進も厳しく制限した。元祐八年(1093年)九月崩、年六十二。世に「女中の堯舜」と称された。
- 後年、章惇・蔡卞・邢恕らが誣告を企てたが、皇太后・太妃の弁明により沙汰止みとなった。高宗の代に至って章惇らの罪が明らかにされ、后の一族の名誉が回復された。