宋史卷二百十五 世系表第六 宗室世系一

【翻訳者注】本篇は宗室の系図を示す「表」である。本文抽出データには、表の前に置かれた序文と、太祖の四子の記載のみが文字として残り、肝心の系図本体(各人物の続柄・官爵等を罫線の表組みで示す部分)はテキスト化されておらず、ページ区切りの記号のみが続く空白のページとなっている。したがって以下は序文および冒頭の四子の記載のみの現代語訳であり、燕王房以下の系図そのものの内容は本篇には含まれていない。

表の趣旨

  • 昔の帝王が天下を治めるにあたっては、必ず同姓の一族を多く立てて藩屏とした。国を持たせない者にも土地を授け、その宗族を率いさせた。そのため継別の宗は百代にわたって遷らず、これは崇め支えることで抜きがたい基盤を築くためだけでなく、親を親しむ仁こそが国家を治める大きな道理だからである。
  • 周の官制で宗伯が三族の別を掌り、それによって親疎を弁じ、昭穆の序列と礼法の隆殺が行われた。これが世系を謹まねばならない理由である。
  • 後世、封建が廃れて宗法が崩れ、帝王の子孫が民間に交わり、下僕にまで身を落とすことすらあった。まことに嘆かわしいことである。
  • 宋の太祖・太宗・魏王の子孫は繁栄が著しく、支子以下はそれぞれ一字で昭穆を分けた。宗正が管掌する牒・籍・録・図・譜によってその世系を叙し、服属の遠近を定め、男女の婚姻・官爵・叙遷、さらに功罪・生没年月までも著した。封国の制度こそ古には復せなかったが、宗法の厳しさと恩礼の厚さは概ね窺い知ることができる。
  • しかし靖康の変(1126年)で、多くの宗室が戦乱により離散・死亡した。南渡の後に残った者は十のうち二三に過ぎず、王室の枝葉は日に日に衰えていった。
  • 今、旧来の記録に基づいてその原委を考証し、宗室世系表を作る。

太祖の四子

  • 太祖の四子は、長男滕王徳秀、次男燕王徳昭、三男舒王徳林、四男秦王徳芳である。徳秀と徳林の二人には後嗣がない。
  • 以下、燕王房として燕王徳昭の系統が表に立てられているが、系図本体は前述のとおりテキスト化されていない。