宋史卷二百十 宰輔表第一
【翻訳者注】本篇は宰相・執政の在任年月を年表形式で示す「表」である。本文抽出データには、表の前に置かれた序文(総数の記載と「敘古曰」以下の解説)のみが文字として残り、肝心の年表本体(紀年ごとの宰相・執政の進拝加官罷免を記す部分)は版面上は罫線で区切られた表組みであったためテキスト化されておらず、ページ区切りの記号のみが残る空白のページが続いている。したがって以下は序文部分のみの現代語訳であり、表そのものの内容は本篇には含まれていない。
表の趣旨
- 宋の宰輔年表は、前半九朝(建隆庚申の年〈960年〉から靖康丙午の年〈1126年〉まで、凡そ167年間)で宰相の地位にあった者72人、執政の地位にあった者238人。後半七朝(建炎丁未の年〈1127年〉から徳祐丙子の年〈1276年〉まで、凡そ149年間)で宰相61人、執政244人であった。
史論
- 「敘古曰」として付された解説によれば、昔の史法は編年を主としていたが、司馬遷が『史記』で紀伝体という新意を興してから、国家の世代・人事・年月が紀伝・世家に散在し、この種の表がなければ通観しがたくなった。ただし編年の方式もまったく不要というわけではない。
- 後に班固の『漢書』は百官公卿表を立て、官名・職掌・印綬などを記した上で年により姓名を配した。歐陽脩の『新唐書』も宰相を篇名に立てており、これらにはいずれも意図があった。
- 宋では太祖から欽宗に至るまで、旧史は三朝・両朝・四朝にそれぞれ分けて編纂されたが、年表はまだ成書していなかった。神宗の時、陳繹に命じて二府の除罷官職の事を検閲させ、拝罷録を作らせた。元豊年間には司馬光が宋興以来の百官公卿の沿革・除拝をまとめて年表とし、史館に上程した。それ以降、曽鞏・譚世勣・蔡幼学・李燾らが相次いで続編を作ったが、表文は簡潔厳格で世に知られることが少なく、多くが散逸してしまった。
- 今回『宋史』を編むにあたっては実録を根拠とし、あわせて紀伝を博く捜して本表を作った。記載する宰輔の官職・勲爵・館殿職名に一致しない点があるのは、官制の沿革がその時々で変わったためである。中書の位次は参知政事までにとどまるが、樞密院の職序は同知副使以下、簽書・同簽書もみな執政に含めて漏らさず記載した。
- 人臣の用捨は世の隆盛・衰退に関わる重大事である。千年の後まで、この表の年から紀伝の事跡を照らし合わせて見られるようにしたのは、この記載を疎かにできないためである。表そのものには褒貶や是非の評は加えていないが、年月が上に明らかで姓名が下に著されていれば、その人物の賢佞邪正も、当時の任用の当否・政治の得失も、おのずと見て取れる。後世の読者は、これによって勧められもし、また戒められもするであろう。