宋史卷一百八十二 食貨志第一百三十五 食貨下四(鹽中)

河北鹽法(元豊~宣和)

  • 元豊七年、知滄州趙瞻は大名府・澶・恩・信安・雄・覇・瀛・莫・冀等州で全面榷売を提案し、半年で息銭十六万七千緡を得た。哲宗即位後、監察御史王巖叟は「河北の新鹽法二年間で価格が一倍に上昇し、商人の利を奪い居民の負担を増している。貧家は塩を薬に例えるほどだ。河北は天下の根本であり祖宗の恵みを継ぐべきで、陛下は損民でなく益民を利とし旧の鹽法に戻すべきだ」と訴えた。
  • 河北転運使范子竒が税を十分の一に増やそうとした際、巌叟は「商人自身が榷買廃止と倍税の代わりを求めているが、主計者はそこから利を得るだけで民間での価格転嫁を見ていない。慶暦六年に三司の榷買法も転運司の増税要求も採用されなかった際、仁宗は『民が急に貴い塩を食べることを憂う』とし旧に復した。当時歳課の増加は約六十万緡と見積もられたが、仁宗はこれを『官に蔵するより民に蔵する方がよい』とした。今も同じ考えに従うべきで小利のために人心を失うべきでない」と述べ、翌年河北の榷法は廃止され通商に戻った。
  • 六年後、提挙河北塩税司は商人が場務で税を納め等戸の保証で小引を発給し距離に応じた期限を設ける制度を提案、非官営の店でも自由に販売できるようにし、塩税の旧額五分を七分に増やし塩税が定着した。紹聖中、河北は再び官売に戻り亰東法に準じるとされた。元符三年、崇儀使林豫は「河北榷塩は税額を満たせず、契丹の塩がますます売れ辺境の緊張を招く恐れがある」と述べ、翌年給事中上官均も同意見を述べたためいずれも実施されなかった。
  • 宣和元年、京畿四輔・滑州・河陽の鹹地はすべて田に開墾され、盗んで塩を煎じる弊害を除いた(知河陽王序が奨励して功があった)。三年、鹽法が大改正され旧来の税鹽が「鈔鹽」に一本化され、既発行の鈔引の取り扱いが整理された。この頃までは河北は対象外だったが、この時から河北・亰東にも拡大された。

両浙の塩法

  • 両浙では杭州場が歳七万七千余石、明州昌国の東西両監が二十万一千余石、秀州場が二十万八千余石、温州天富南北監・密鸚・永嘉の二場が七万四千余石、台州黄巖監が一万五千余石を産し、本州および越・処・衢・婺州に供給した。天聖中は杭・秀・温・台・明各一監(温州はさらに三場)だったが、後に六万八千石減じ、本路と江東の歙州にも供給した。
  • 慶暦初、制置司は「近年河流が浅く漕運が困難で費用がかさむ」として江淮・両浙・荆湖六路の糶塩価格の増額を求め、三司は荆湖以外の四路三十八州軍で斤あたり二~四銭の増額を裁可。江州に転運般倉を新設し漕船・傭客舟を増やし、制置司はさらに六路五十一州軍で斤五銭増を求めたが、官塩価格の高騰に民は苦しみ各路が不便を訴え、韓絳(安撫江南)も反対した。
  • 両浙転運使沈立・李粛之は「本路の鹽課は歳七十九万緡だったが嘉祐三年にはわずか五十三万に減り、同年の私販での処罰者は三千九十九人に及んだ。弊害は官塩価格の高さにある」として官估の引き下げ・鹽綱の廃止・鋪戸自らの塩場での引き取りを提案。発運司は難色を示したが立・粛之は二三年の試行を求め許可された。
  • 立は東鹽利害を論じ「亭戸を慰撫し困窮させず、漕卒を休ませ生計を立てさせ、倉場の搾取を防ぎ私販を減らし官估を下げれば、歳ごとに緡銭百二十万を増収できる」として『集鹽策』二十巻を上奏。亭戸の窮乏は特に甚だしく、皇祐以来度々詔書が出され、官本を実銭で支給し額外塩の売却には粟帛・衣糧を給し、逋欠のある亭戸の歳課は免除する方針が示されたが、有司が十分に実行しなかった。
  • 熙寧以来、杭・秀・温・台・明の五州は六監十四場を有したが、塩価が高く私販が多発し盗賊化する例もあり課額が大きく失われた。万竒という者が「両浙塩を撲買(一括請負)にして民と利益を分かち合う」策を献じ、発運使薛向を通じ神宗に諮られたが、王安石は「趙抃は衢州の撲塩の成果が両浙路全体に匹敵すると見誤っている。衢塩は饒・信を侵し、湖塩は広徳・昇州を侵しているから課が増えるのであって、蘇・常には当てはまらない。煎塩亭戸と差塩地を制置し私販の取締りを厳格化すべきで、改制の必要はない」と反対した。
  • 熙寧五年、盧秉が両浙提点刑獄兼提舉鹽事となり、著作佐郎曾黙とともに淮南・両浙を巡り実情を調査した。竈戸が官に塩を売っても代金が滞りがちで困窮していたため、秉は発運司の銭と雑銭百万緡を償還に充て、各場の分数を定めた(銭塘県楊村場は六分、楊村下流の仁和湯村は七分、鹽官場は八分、越州餘姚県石堰場・明州慈溪県鳴鶴場は九分、岱山・昌国からさらに温州雙穂・南天富・北天富場は十分など、産塩の多寡による格付け)。地域ごとの製塩法の違い(海水直煮、刮鹻淋鹵、鐡盤・竹盤の使い分けによる塩色の違い)も記録されている。
  • 秉は伏火盤の数を定めて私鬻を絶ち、三竈から十竈を一甲とし相互監視する制度、酒坊戸に課額を割り当て官塩を売らせる制度、密輸取締りの強化(杖罪でも妻子ともに五百里遷配)などを整備したが、杭・越・湖三州は新法に従わず発運司が虧課を弾劾する事態となった。王安石は神宗に「捕鹽法が厳しすぎて刑を止められない」と進言し、虧課の処罰基準を三等に分けて緩和した。
  • 熙寧七年、盧秉の鹽課増加に伴う刑獄の頻発を懸念し淮南に異動、江東漕臣張靚が代わって越州の催鹽で母が子を殺す事件などを調査したが、秉は結局増課の功で太常博士に昇進した。三司は両浙漕司の管理の緩みで鹽息が大幅に減少していると報告、著作佐郎翁仲通が改めて措置を講じた。
  • 元祐初、議者は「盧秉の浙西鹽法推行は誅剥を重視し課を増やしたため一万二千余人が流罪となった」として秉を降職とした。両浙の亭戸の丁塩の逋負が広がり、二年に免除、後にまた累積したため元符初に察詔使が調査したが有司の措置は不徹底で、右正言鄒浩がその害を強く訴えた。明州鳴鶴場の課が振るわず越州に移管、宣和元年に樓异が明州のため復帰を求め、詔書は「鳴鶴一場を越に移してからも二場に百万の積塩がある。東で越から西で台から取ろうとするのは害法である」と述べた。

淮南の塩法

  • 淮南では楚州鹽城監が歳四十一万七千余石、通州豊利監が四十八万九千余石、泰州海陵監(如皋倉・小海場)が六十五万六千余石を産し、本州及び淮南の廬・和・舒・蘄・黄州・無為軍、江南の江寧府・宣・洪・袁・吉・筠・江・池・太平・饒・信・歙・撫州・広徳・臨江軍、両浙の常・潤・湖・睦州、荆湖の江陵府・安・復・潭・鼎・岳・鄂・衡・永州・漢陽軍に供給。海州板浦・惠澤・洛要の三場が歳四十七万七千余石、漣水軍海口場が十一万五千余石を産し、本州軍及び亰東の徐州、淮南の光・泗・濠・寿州、両浙の杭・蘇・湖・常・潤州・江陰軍に供給された。天聖中、通・楚州場各七、泰州場八、海州場二、漣水軍場一に整理され鬻塩量は旧額より六十九万七千五百四十余石減り、本路及び江南東西・荆湖南北四路に供給(かつては両浙にも供給していたが天聖七年に停止)。
  • 塩の入庫には倉が置かれ(通・楚州各一、泰州三)、転般倉が真州(通泰楚五倉の塩を受入)と漣水軍(海州漣水の塩を受入)に置かれ、江南・荆湖の歳漕米が淮南で塩と交換された。東南鹽の利は天下で最も厚かった。塩の官買価格は淮南・福建・両浙の温台明が斤四銭、杭秀が六銭、広南が五銭で、輸送距離により売価が上下し十倍の利を得ることもあった。
  • 咸平四年、秘書丞直史館孫冕は「江南・荆湖を通商化し辺境の糧草の中納を金銀銭帛で行えば公私に便利で、淮南への影響は限定的」と提案したが、吏部侍郎陳恕らは「江湖の官売塩は海に近い産地で私塩取締りの効果があり、通商化すれば直ちに課額が不足する」と反対し、冕の議は却下された。天禧初、亰師・淮浙・江南・荆湖州軍で緡銭・粟帛による塩交換を開始。乾興元年、京師への入銭が総額百十四万に達したが、通・泰の売却が減り積塩が増えたため粟帛入納を廃し銭のみとした。
  • 明道二年、参知政事王随は「淮南塩は当初良質だったが、通・泰・楚から真州、真州から江浙・荆湖への運送中に綱吏・舟卒による窃取・砂混入があり、粗悪化して食べられないほどになっている。取締りの処罰も効果がなく、運河の水位低下で漕運が滞り遠隔地では塩不足に陥る一方、淮南には千五百万石が野積みされ損耗している。亭戸への本銭支給も滞り困窮している」として三~五年の通商化を提案。折博務を揚州に設置し銭・粟帛で塩を売れば、三十万貫の緡銭を得られ(一利)、白鹽が江湖に行き渡り(二利)、漕運の費用と水難のリスクを減らせ(三利)、漕鹽船を漕米に転用でき(四利)、商人の入銭で亭戸への支払いも可能になる(五利)とした。范仲淹(安撫江淮)も塩利の疏通を提言し、丁度らと三司使・江淮制置使が協議、二三年分の備蓄確保を条件に施行された。
  • 天禧元年の制で商人の入銭・粟帛による塩交換が復活し、京師入銭者には増量を与える等の優遇があったが、景祐二年に博易の利が乏しいとして廃止され京師での銭納に戻った。康定元年、陝西辺境で東南塩を望む入芻粟商人に増量を与える詔。慶暦二年、陝東・河東への入中商人には銭・金帛半々で償還、金帛を望まぬ場合は茶塩香薬を選べるようにしたが、東南塩の利が厚いため商人は塩を望んだ。慶暦八年、河北で四説法(塩がその一つ)が実施されたが、辺境の芻粟の虚估が数倍に高騰し、券が京師で蓄賈に買い叩かれる弊害が生じた(塩百八斤が旧十万から六万に下落)。
  • 皇祐二年、京師入銭の額を旧に近い水準に戻し塩を給する方式に復し、辺境入中では先着順に受給、河東・陝西は入芻粟直十万に対し塩直七万、河北はさらに損じて六万五千とされた。京師に十万入銭すればさらに兼給(「対貼」)できるとし、以後入銭は徐々に旧に復した。
  • 天聖九年、三司は榷貨務での入銭による東南塩売却額を百八十万三千緡と定め、後に四百万緡に増加。嘉祐中、諸路の漕運不足で榷貨務の課が上がらず、発運司に専任官を置いた。治平中、京師入緡銭は二百二十七万、淮南・両浙・福建・江南・荆湖・広南六路の歳売緡銭は皇祐中二百七十三万、治平中三百二十九万であった。江湖運鹽の粗悪化と官估の高さから百姓は私塩を好み、沿海民は魚塩を生業とし不逞の徒による盗販が横行、江淮では士人でさえ私販に手を染める者があった。
  • 江西では虔州が広南に接し、福建の汀州も虔州に近く、虔鹽は質が悪く汀州は塩を産しないため、両州の民は広南塩を密販し、秋冬の農閑期には数十百人の集団が武装して虔・汀・漳・潮・循・梅・惠・広の八州を往来し、掠奪や官吏との衝突による殺傷事件も発生、盗賊化して険要に拠る者もあった。州の官売塩はわずか年百万斤程度にとどまった。
  • 慶暦中、広東転運使李敷・王繇は広州塩を南雄州経由で虔・吉に運ぶことを提案し、承認前に四百余万斤を先行輸送したが江西転運司は不便として受け取らなかった。後に三司戸部判官周湛ら八人が広塩の虔州入りを再提案、江西も本銭を自ら用意して取り寄せることとしたが、発運使許元が不可と反対し中止された。嘉祐以来、様々な広南塩通商案が検討され、職方員外郎黄炳が現地調査のうえ「虔州の淮南塩利用は長く続いており改変は困難、近年増額分の官估を減らすべき」と提案、五等戸の夏秋税に応じ塩二斤の糴買を課す方式が採用された。提点鋳銭沈扶が再検証し、江西漕船十綱を編成し通・泰・楚の都倉から直接受け取る方式を実施、糶額は六十余万斤増加。
  • 江西提点刑獄蔡挺は私蔵兵器の届出や巡捕の強化、少量の密輸(黄魚籠に隠した二十斤未満、五人未満、武装なしの場合は課税のみ)への緩和策を実施。淮南は新綱を編成し挺が十二綱に増やし、官が半価で買い取ることで侵盗の弊を減らし、鹽の品質も改善、糶価も下がり課は旧の三百余万斤に増加。汀州の密輸集団の慣行(鼓を鳴らして仲間を募る)に対し州県が取締りを強化し衰退させた。挺は江西に留任、後に転出。
  • 荆湖も塩の粗悪化と漕運不足に悩まされ、治平二年はわずか二十五万余石だったが三年に淮西二十四綱と傭客舟の投入で四十万石、四年に五十三万余石に増加。慶暦初、判戸部勾院王琪は「天禧初に荆湖塩の高値を理由に斤二~三銭減じたが、以後利益が減少しているので旧価に戻せば歳四万緡増収できる」と提案し許可された。治平中、淮南転運使李復圭・張芻・蘇頌・三司度支判官韓縝が相次いで淮南塩価の引き下げを求めたが実現しなかった。
  • 熙寧初、江西の塩課が振るわず、三年に提点刑獄張頡は「虔州官塩は湿って粗悪で目減りしているのに一斤四十七銭、嶺南の密輸塩は一斤半で一斤分に相当し二十銭で純白なため、虔の民は嶺南塩を選ぶ」と報告、虔塩価格の引き下げと十綱編成での運搬を提案。蔡挺は贛江の険を理由に船を三年ごとに更新し、鹽の純度と船の増減を綱官の評価基準とすることを提案し、実施後は密販も減少したが、挺の離任後に法が形骸化し再整備が求められた。淮塩十二綱を虔州に配し、章惇の湖南視察に基づき本路提点刑獄朱初平が広塩の増量運搬を検討したが実現前に元豊三年を迎えた。
  • 元豊三年、章惇が参知政事となり郏亶が邪心をもって惇に迎合し湖南の法を江西に適用しようと提案、蹇周輔を派遣し調査させた。周輔は「虔州への淮塩到着量が少なく民は淡食に苦しみ、広東塩は流通が止められ盗販が横行している。淮塩は官が九銭で仕入れているが広塩に切り替えれば一銭安く質も良い」として淮塩廃止と広塩千万斤の江西・虔州・南安軍への通運、淮塩六百十六万斤の洪・吉・筠・袁・撫・臨江・建昌・興国軍への振替を提案、詔により周輔が法を立案した。しかし実際は民への圧迫が強く、江西の塩場を官が接収し買い占め、周輔は遥領で提舉江西広東鹽事に任じ司農寺に局を置いた。元豊四年、周輔は河北漕運に転任、翌年提挙常平劉誼が「塩販売が道々で混乱を招いている」と訴え江東提点刑獄范峋の調査を求めたが、誼は他の事案で罷免され、峋の報告も州県の違法を理由に具体的な変更には至らなかった。
  • 周輔は「虔州・南安軍での鹽法施行後半年で息銭十四万緡を得た」と自らの功を報告、発運副使李琮に実態調査が命じられたが、琮は周輔の権勢を憚り「法の運用改善のみ必要」と穏当な報告に留めた。元豊六年、周輔は戸部侍郎となり湖南の郴・道州も韶・連に接続し広塩の通運が可能として、旧来の淮塩販売を潭・衡・永・全・邵等州で停止し江西・広東の現行法に準ずることとし、郏亶の旧議に基づき郴・全・道の三州でも広塩を売ることとした。提挙常平張士澄・転運判官陳偲が条約を具申し施行されたが、一方が騒然となった。淮西でも周輔の鹽法が推行され、発運使蔣之奇が知州・通判の鹽事賞罰制度を戸部に上申し法制化した。
  • 紹聖三年、発運司は「淮南亭戸は貧困で官の本銭六十四万緡が滞り、高利貸に頼らざるを得ない」として糴本銭十万緡を先行支給し不足分は憑由(証書)で対応、質入れ時は官との折半で利息を免除する策を提案。崇寧元年、蔡京が鹽法を改め、東南鹽本の商販不足を補うため度牒・封樁坊場銭で三十万緡を確保、七条の法(私船運送の許可と密輸取締り強化、場の秤量の公平化、関所での不当な留置取締り、官吏の縁故商法禁止、亭戸への貸付、低廉すぎる鹽価の是正、措置官の総合検討)を制定。翌年、鈔法を変更し買鈔所を榷貨務に設置、末塩鈔・乳香・茶鈔などとの交換制度を整備、旧鈔は末塩のみに使用を限定し新鈔と併用(十分の三を新鈔で受給)とした。
  • 崇寧四年、河北で百緡以下、東南末塩鈔で十千以下、陝西鹽鈔で五千五百以下の取引を禁じ、私的な減額は徒罪とした。官吏の遅滞・鈔の延期条件も整備。崇寧四年、価格差是正のため六路の鹽価を再設定(旧価二十銭以上は逓増、四十五銭以下は旧のまま)、東南末塩の金銀物帛での支払いも許可、亭戸の貸付利息(従来二分)は免除した。五年、貼納の見銭は十分の二を超えないよう制限。大観元年、東南末塩の算請での貼輸・帯鈔の比率が段階的に定められ、鈔法が頻繁に変わり公私ともに混乱した。
  • 大観四年、侍御史毛注は「崇寧以来の鹽法変更で元豊の旧制(転運司の官船による利益回収を禁じ、鈔請けでの自由運搬・販売を許可し、州県が課額とする)が崩れ、提挙鹽事司が郡県の売却量で官吏の評価を行うため州県が上戸に鹽の割当を強制し(千緡に及ぶ例も)、これが実質的な重税と化している」と批判、鈔法の本旨(東南末塩は河北の備え、東北塩は河東の備え、解池塩は陝西の備えとして京師に集約し流通させる仕組み)が崇寧以来崩れ、鈔価が下落し辺境で品搭(銀絹・見銭混合)の徴収を強いられ糧草価格が高騰、軍儲・財用が窮乏していると訴えた。薛向の嘉祐の政策(熙豊で完成した仕組み)に立ち返り、京師の三庫の積蓄(三、四百万緡)で鈔を裏付けるべきと提言した。
  • まもなく張商英が宰相となり熙豊の旧法への復帰を議し、内府銭千五百万緡を別途樁留し、陝西に五百万緡の鈔、江淮発運司に見銭三百万緡を配分、左司員外郎張察が東南鹽事を措置、提挙江西常平張根が淮鹽の江西管掌を担当。提挙鹽香諸路鹽事を廃し提刑司に統合、旧鈔の等級・帯鈔比率が再整理された。
  • 政和元年、商旅が熙豊法に準じ転廊(他所への転売)を望む場合は三路の新鈔での算請を優先し価格優遇。両浙の亭戸への額外中鹽の斤あたり価格を三分増やし、張察は紹聖比で斤二銭増、詔でさらに一銭増とした。議者は「元豊時は遠隔地で一~三年分の備蓄(凖備鹽)を要したが紹聖の旧制で備蓄が広まり課利が増した」として転運司の凖備鹽運搬を厳しく督励すべきとした。
  • 政和元年末、六路に提挙鹽事官を置き司を揚州に設置。まもなく客商の榷貨務での東南末塩購入方式(見銭入納と鈔面転廊の二方式)が整理され、見銭入納を榷貨務経由に限定した。政和二年、江寧府・広徳軍・太平州で斤二銭、宣・歙・饒・信州で斤三銭、池・江州・南康軍で斤四銭の追加課税(産地からの距離による差)が課された。
  • 同年、蔡京が復権し鹽法を大改正、五月に官の一括販売を廃止し商旅が場で直接請購する方式に転換、封樁分は先着順に増量支給、旧法の転廊済み鈔は追加見銭三分の納入、新旧鈔の混用が定められた。算請はすべて見銭方式が中心となり、給塩の順序も見銭優先とされた。三路の糴買文鈔は七分を東南末塩に対算、二分を見銭で支給する方式に。政和三年、投勾(先着申請)の弊を廃止し重量検証を厳格化。蔡京は十六条の細則を新たに定め、囊三百斤あたり価格十千とし増減は市場に任せる、客鹽の運搬容器を東北塩式の官袋に統一、受給・支給の管理を分離し合同(照合票)制度を整備した。
  • 引の繳納期限を一年、延長は半年以内、期限超過分は没収の上籍記とする厳格な管理を実施。四年、遠隔地の商販不足のため塩倉の給付順を距離に応じて調整、搭帯正鹽の期限(一月)超過分は没収。五年、偽造引の罪を川銭引の規定に準じさせた。六年、大商が小袋での住売を望む場合は輸銭二十で鈔を発給。宣和二年、六路の封樁旧鹽と鈔の対算を整理。四年、榷貨務は「熙豊以前の米価に比べ現在の米価が四~五倍に対し塩価はほぼ据え置きで、崇寧の中価より安い。品質維持のため増額すべき」と提案し、鹽価の引き上げと帯賣制度の再整備が行われた。
  • 塩鈔法の初期は解池・京師榷貨務・陝西沿辺に分散して塩・銭・鈔を蓄積し、商賈が物資を辺境に運んで鈔を得て解池で塩を受け取る仕組みだったが、崇寧間に蔡京が制度を変更し商人に先に鈔を買わせてから塩を渡す方式に転換、財政の京師集約を図ったが商賈が離れ辺儲が滞り、東南塩の禁が厳しくなるにつれ食塩に灰土を混ぜる粗悪化が進んだ。制度は「対帯法」「循環法」など度々変更され、循環法では鈔売却後に授塩前に更に鈔を買い直させる仕組みとなり、三重の輸銭で一度の価値しか得られず、豪商が一夜で乞食に落ちる例もあった。
  • 魏伯芻という大胥(省の下級官)が蔡京に信任され榷貨務を主管、政和六年に鹽課は四千万緡に達し官吏はみな昇進、七年にも増課で伯芻自身は通議大夫・徽猷閣待制まで昇った(後に王黼一派に付いたため蔡京に嫌われ黜けられた)。伯芻は算請の四割を入納数として着服し朝廷を欺いていたが、政和の新法当時は蔡京の信任のもとで「億万の銭が輻湊し御府の需要を賄って余りある」と称賛され、実際に一郡(処州)で客鈔銭が五十余万貫、一州倉(泰州)で客請塩四十万袋に達し、新法二年で収入は四千万貫に達したと報告された(唐の劉晏の塩利が大暦年間で六百余万緡だったのと比較され、この額の大きさが強調されている)。
  • 宣和七年、鹽法改定の賞が過重で抑配(強制割当)が幼児にまで及び家畜まで駆り出す弊が生じたため、三省が旧に戻すよう申請したが有司は徹底できず、抄劄(帳簿記録)・鹽囊の運用も度々変更され、囊の価格は十一千から十三千の間で変動し民力を疲弊させ盗賊を助長した。靖康元年、新鈔発行前の旧見銭公拠・文鈔をそのまま還付し信用回復を図った。当時鹽はすべて新鈔で発行され旧鹽の帯売制度も併用された。王黼が国政を握っていた時期の弊害を批判する声があり、限度期限が短縮されたことへの不満も記録されている。

淮浙鹽法の南渡後の展開

  • 南渡後、淮浙の亭戸には官が本銭を給し、諸州に倉を置き商人が鈔(塩五十斤=一石、六石=一袋)を買い、袋あたり通貨銭十八千を輸納する制度とした。紹興元年、臨安府・秀州の亭戸の二税は皇祐法に準じ塩で輸納、丘監官が私煎・漏泄を取り締まった。紹興二年、淮浙塩の袋に通貨銭三千を貼輸させる制度、期限超過は私塩律で処罰。呂頤浩が張純儀を用い鹽法を厳格化、十一月に淮浙塩を十分の四支給とする対帯法を導入し、以後さらに厳格化。三年、民間の蚕塩銭を減額。四年正月、淮浙鹽鈔の袋あたり貼輸銭を三貫増額し行在へ輸送、広鹽にも準用したが、九月に負担軽減のため一部緩和した。建炎三年の改鈔法以来五回の変更があり、旧鈔の支給が続いていたためこれらを併せて処理することとした。
  • 孝宗乾道六年、戸部侍郎葉衡は「今日の財政の半分は海塩の利によるが、近年課入が増えないのは私販の害である」として淮東・両浙の鹽竈・売却額の対比を報告した(淮東の竈四百十二か所・鹽額二百六十八万三千余石に対し実売六十七万二千三百余袋・収銭二千百九十六万三千余貫、両浙の竈二千四百余か所・課額百九十七万余石に対し実売二十万二千余袋・収銭五百一万二千余貫。竈数は両浙が多いのに実売は淮東が三分の二多く、これは両浙の私販が多いためだと指摘)。分路での対策強化を求めた。
  • 淳熙八年、住売・帯売の積塩を朝廷が名目のみで実施していない弊を是正。十年、湖北の商人呉伝の証言によれば、海塩の利は淮東が三分の二を占め、通・泰・楚の買鹽場十六・催煎場十二・竈四百十二があり、紹興初の竈の産出は一籌(塩百斤)あたり十一だったが、淳熙初に亭戸が鹵水試煎の新法を得て一籌二十五~三十まで増産、これを「浮鹽」と称し、日産一万余籌のうち浮鹽分は二十斤基準で二千籌相当・一籌千八百三十文(船脚代二百文を除く)となり、鈔錢に換算すると四百五十一万七千五百余緡に及んだが、亭戸は困窮し私売に流れがちだった。至是(この時点)で通・泰等の諸鹽場の亭戸への未払本銭百十万貫を還付することとした。
  • 寧宗慶元初、循環鹽鈔を廃止し「正支文鈔」に改称、淮東提挙陳損之の提言に基づく。開禧二年、新鈔一袋につき旧鈔一袋を搭配して支給する制度。嘉定二年、淮東の貼輸鹽銭の二分を免除し銭・会子半々に。三年、鈔引の価値を吊り上げる者への対策として袋売りの官会に増収規定を設け、一年経過分は使用不可とした。
  • 唐の乾元初、第五琦が塩鉄使となり塩法を変え劉晏が継承、当時天下の塩利は歳わずか四十万緡だったが大暦年間には六百余万緡に増え、天下の賦税の半分を塩利が占めた。元祐間、淮塩と解池は各年四百万緡で、唐の天下の賦の三分の二に相当する規模だった。紹興末以来、泰州・海寧だけで支給塩三十余万席・銭六七百万緡に達し、一州の額が唐の天下の額を上回った。
  • 宝慶二年、監察御史趙至道は「産鹽は鹽戸に、鬻鹽は鹽商に頼る。ゆえに鹽戸は存恤し鹽商は優遇すべき」とし、慶元初の課銭九百九十万八千余に対し宝慶元年は七百四十九万九千余に減少、これは鹽商の利益不足によるとして商旅への寛大な扱いと徴税緩和を提案、許可された。紹定元年、侍御史李知孝の建言で上虞・餘姚の海塗地への新竈設置を停止。端平二年、都省は「淮浙の歳額鹽九十七万四千余袋に対し近年百余万袋の欠損があり民は貴い塩に苦しんでいる」として三路提挙茶鹽司に興復鹽額・散鹽買収の専任を置いた。
  • 淳祐元年、臣僚は「南渡以来国は鹽鈔に依存し紹興・淳熙は繁栄したが、嘉定以来鈔法は行われたり廃されたりし『浮鹽』の弊は根強い。有司に議論させ天地の財を官民で共有すべき」と上奏、五年、私販苛征の禁を再申告。宝祐元年、都省は「行在榷貨務都茶場が淳祐十二年に収めた茶鹽等の銭は一億一千八百十五万六千八百三十三貫余で、新額四千万貫の倍を超えている」として褒賞を行った。宝祐四年五月、行在務場の実収が新額を九千百七十三万五千九百十二貫超過し、関連部署の職員に賞を与えた。同年十二月、殿中侍御史朱熠は「近年課額の虧損が真州分司だけで二千余万に達しており、これは台閫(軍幕)や諸軍の帥が興販して利を図っているため」として私販取締りの再徹底を求めた。
  • 宝祐五年、朱熠は再び「蜀・広・浙数路合わせても淮塩額の半分に及ばない。海辺は斥鹵の地で煎製に適し、亭戸・鍋戸があり、正鹽(官への納入分、全体の五分の四)と浮鹽(商販分、五分の一)に分かれる。端平の初め、朝廷は浮鹽の利が下に流れることを望まず十局を設けて買収させ(歳額二千七百九十三万斤)、その後鈔法の乱れで真・揚・通・泰四州六十五万袋の正鹽さえ額に届かず浮鹽まで手が回らない。士大夫が浮鹽の利を独占する一方、竈戸は沙洲に散在し僅かな塩で命をつないでいる。端平の旧式に戻り鍋戸の浮鹽を正鹽より高い本銭で買い上げれば官民ともに利益があり、上江への販売益は朝廷に直輸できる」と提案し、許可された。