時享
- 太祖の乾徳六年(968年)十月、判太常寺和峴は上言し、礼閣新儀に唐の天宝五年(746年)に太廟享祭で毎室に常食一牙盤を加えるよう詔した例を引き、今後の享廟でも毎室に牙盤食を加え、禘祫・時享もこれに準ずるべきだとした。
- 太宗の太平興国六年(981年)十二月、太常礼院はその月二十三日の臘享太廟について、孟冬にすでに時享を行い冬至にも親祀したばかりであり、礼では毎歳五享とし禘祫の月には時享を行わないのが煩数を避ける趣旨であるとして、臘日の薦享の礼を罷めるよう請い(孝惠別廟は旧式のまま)、従われた。
- 淳化三年(992年)十月八日、太常礼院は冬至の親祀南郊の前に朝享太廟および宣祖・太祖室への奏告を行う例年の儀に加え、親祀の際は朔望両祭も設けるため十一月内に三度太廟を祭りさらに奏告も加わり煩雑であるとし、また十一月二十日の皇帝朝享と臘享の日は間隔があり煩数とは言えないため、当月の朔望の祭のみ権りに停め臘享は常儀のままとするよう請い、従われた。
- 真宗の景徳三年(1006年)正月、当初乙卯の日に孟享太廟を予定していたが、鄆王の外攢(仮埋葬)のため辛酉の日に改めた。十月十日の孟冬薦享では同月に明徳皇后の園陵があり、故事として太祠と国忌が同日の場合は楽を備えるが奏でないとされていたため、これに倣った。四年(1007年)七月には荘穆皇后の祔享のため孟享を権りに停めた。
- 大中祥符三年(1010年)十二月、帝は王旦らに、来年正月十一日の孟享太廟に対し有司が八日に宴を予定しているが、これは享廟の致斎期間中にあたり、さらに七日には上辛の昊天上帝祀があると述べた。王欽若は宴日を移して祀事を避けるべきだと言い、馮拯は上辛は移せないが薦享は日を選んでよく礼に嫌いはないと言った。帝は礼官に諮るよう命じたが、契丹使の来訪時期や西巡の予定もあり、結局改められなかった。八年(1015年)、兼宗正卿趙安仁は太廟の朔望上食の品味について、以後は御厨が親享廟日に供する牙盤の例を四時の珍膳と参酌し、上局の食手十人を廟に赴かせて饌造させるよう請い、詔して宮闈令に監造させ趙安仁に省視させた。
- 神宗の元豊三年(1080年)十月、詳定郊廟奉祀礼文所は、祠・禴・嘗・烝の名は春夏には物がまだ成らないため祭が薄く、秋冬には物が盛んなため礼が備わるという趣旨であるのに、太廟の四時薦新に対し孟享の礼料には祠禴烝嘗の別がないとし、春に韭・卵、夏に麦・魚、秋に黍・豚、冬に稲・雁を加え、饋熟の際に神主に薦め、常数の外に時物の薦を別に加え、豊約はそれぞれの時に応じるべきだと請い、従われた。
- 六年(1083年)十一月、帝は南郊親祠の三日前に仁宗・英宗の徽号冊宝を太廟に奉り、この日大慶殿に斎し、翌日景霊宮に薦享した。礼が終わると帝は通天冠絳紗袍を着し玉輅に乗って太廟に至り、宰臣百官が廟門に迎え、侍中が跪いて降輅を請うと帝は輿に乗り換えて廟内を歩み斎宮に至った。翌日は鞾袍で大次に至り、有司が中厳外辦を奏し礼儀使が行事を請うと、帝は衮冕を着し東門外に出て殿中監から大圭を受けて入り、宮架の楽・登歌の楽が交互に奏でられるなか、太祝・宮闈令が諸室の神主を座に奉じ、帝は再拝して罍洗に詣で盥手・洗瓉ののち僖祖室以下各室を順に巡り、瑞安・興安・正安・僖安などの楽曲のもと鎮圭を繅藉に奠じ大圭で三たび上香し瓉で祼地し帛を奠じ、次室でも同様の儀を行った。文舞・武舞の交替、太祝による冊文の読み上げ、亜献の儀を経て、飲福の位に詣で搢圭・跪受爵・祭酒・啐酒・受俎・受黍豆ののち飲福酒を受けて再拝し、太常博士があまねく従祀の配享功臣を祭り、俎豆を撤して賜胙を告げ、太祝・宮闈令が神主を諸祏室に納め、礼儀使が礼畢を奏して帝は大圭を殿中監に返し大次に戻り、解厳ののち南郊へ赴いた。
- 国初以来、親享太廟の儀物には定めがあったが、熙寧以来おおむね旧典に循い、元豊年間に官を命じて詳定させ多くの損益が加えられた。元年(1078年)、詳定郊廟礼文所は、古は納牲の際に王が自ら鸞刀をとってその毛を啓き祝が血毛を室に薦めていたのを、今は太祝が毛血を神坐に薦めて後に徹するよう改めるべきだとし、唐の崔沔の議(毛血は盤に盛るべきであり豆に盛るのは誤り、葅醢は豆に盛るのが正しい)を引いて改正を求めた。また三牲の骨体を俎に盛るほか牛羊の腸胃・豕の膚を俎にそれぞれ加えるべきこと、古は祭祀に迎神・送神の拝礼がなく初めと終わりに拝すべきでないこと、戸部が歳貢を陳ねて庭実とし亀を先頭に金・玉帛を次ぎ他を後にすべきこと、周礼大宗伯の職にある「享に玉鬯に蒞む」に照らし、今は門下侍郎が瓉を取り皇帝に進め侍中が鬯を酌んで瓉に進めているのは礼に合わず、礼部尚書に瓉を、礼部侍郎に槃を奉じさせ皇帝が鬯を酌み祼地したのち侍郎が瓉と槃を受けて退くべきことなどを論じた。さらに、太祝・宮闈令が神主を座に置くのを俟って皇帝が礼を行い、礼終わって神主を納めるのを俟ってから降階すべきこと、神坐は室の奥に東面して置き、行事の際に皇帝は戸内で西向に立ち拝すべきこと(有司摂事の晨祼・饋食も同様)、堂上の薦腥では神坐を扆前に南向に置き皇帝は堂の中で北向に立つべきこと(未定のため廟制成就を俟って旨を取る)、各廟に莞筵・紛純を設け繅席・画純を加え戸内の東西面に置き、三献礼が終わってからここで受嘏すべきことなどが論じられた。
- また、古の宗廟九献(皇帝と后がそれぞれ四献、諸臣が一献)が漢以来三献に簡略化され后が入廟しなくなった沿革を述べ、時享では室での事のみで堂での事がなく、禘祫では堂での事のみで室での事がなく、饋食があっても朝踐がない現状を改め、古の九献の意に近づけるため、室中には奥に東面の神位を、堂上には戸外の西南面に神位を設け、皇帝は戸内で西面して祼鬯するのを一献、戸外の扆前で北向して朝踐薦腥の礼を行うのを再献、戸内で西面して饋食薦熟の礼を行うのを三献とすべきだと請い、廟制成就を俟って旨を取ることとした。さらに、三年の親祠および祫享・有司摂事では各室に大牢と制幣を用いること、宗廟堂上では焫蕭で陽を求め有司行事では焫茅香とするのを蕭に改め灌鬯は地に注いで陰を求めるべきこと、幣は西階の東に埋め冊は有司の匱に蔵すること、殿下の板位と小次を除いて東階の上に皇帝の板位を設けること、奏告・祈禱・報謝には牲牢祭饌をもちいて帝后の神主を出し天地一体の義を明らかにすべきことなどが論じられた。
- また古は上古・中古・当世の食を兼ね薦めるものであったが、唐の天宝年間に毎室に常食一牙盤を加えるよう詔したことについて、議者はこれを宴私の饌であり寝室に薦めるべきもので太廟を瀆すものだとして罷めるべきだと論じた。古の吉祭は必ずその妃を配し特に拝することはないため、副爵を奠じても特拝の儀はないとし、儀礼「嗣ぎて奠を挙ぐ」により、太廟祭祀で灌の後に太祝が斚で鉶の南に酌奠し、正祭の嘏が終わるのを俟って皇子に奠を挙げて飲ませることを請うた。また刑部尚書一員に大牲を、兵部尚書一員に魚十五を奉じさせ腥・熟を薦めるべきこと、朝享の四孟および臘享ではみな神位を戸内に南向に設け、祼将は室で、朝踐は堂で、饋熟は室で行い、奥には莞筵・紛純・繅席・画純・次席・黼純と左右の玉几を設け、筵前には饋食の豆八・加豆八を南を上とし、鉶三を豆の南に、大羹湆を羞豆の北に、九俎を豆の東に三列で南を上とし、肵俎一を腊俎の北に、簠簋を俎の南に西を上として、籩十八を簠簋の南に北を上として設け、戸外の東には尊彜を西を上として設けるなど、極めて詳細な器物配置が定められた。
- また晨祼の後、諸太祝が血毛を神坐に奠じ、太官令が肝を鸞刀で切り鬱鬯で洗い膋(脂)を貫いて炉炭で燎し、祝が肝膋を室に入れて神に詔告し、また出して戸外の左で三たび茅俎に祭る儀、饋熟の際に祝が菹醢を神坐前の豆の間で三たび祭り、黍稷肺を白茅を藉いて祭る儀、宮闈令が茅を束ねて西階の東に瘞する儀(郊祀では燔・瘞を分ける)なども定められた。また古の吉祭は配偶とともに一尸であり、主人・主婦・賓長の献もそれぞれ一爵であったことから、諸室の奠副爵は罷めるべきだが、祫享・別廟の皇后は常礼のままとすること、祠告天地宗廟社稷にはみな牲幣を用いること、唐の太廟局令の制に倣い宗正丞に摂知廟少卿を兼ねさせ宮闈令は祠事に与らせないことなども論じられた。晨祼の際、皇帝がまず大圭を搢して上香し祼鬯して復位し、作楽・饋食が終わるのを俟って再び大圭を搢し鎮圭を執って繅藉に奠じ幣を奠じ爵を執るなど、庶礼の神を降す儀はすべて降神の後に行うべきことも定められた。
- 八年(1015年)、太常寺は故事として山陵前は宗廟の祭享朔望を輟め内臣に薦食の礼を行わせてきたが、祔廟が終わり景霊宮神御殿の上食もすでに行われている以上、太廟朔望の薦食も旧に復すべきだと請い、従われた。
- 元祐七年(1092年)、詔して牙盤食(元豊中に罷められていた)を旧制に復し礼饌の外に別に設けるようにした。礼官呂希純は、先王の祭祀は上古・中古・当世の食を備え、礼饌が上古中古の食にあたり牙盤常食は当世の食にあたるとし、議者が宗廟の牙盤を秦漢の陵寝上食に由来すると誤解しているが実は三代以来古今の食を備えるものであると論じ、祖宗の旧制に従って牙盤を薦めるべきだと請い、従われて「薦羞」と改称された。呂希純はまた、帝后がそれぞれ一爵を奠じるべきで、后の爵を副爵と称するところ、今帝后が一爵のみを共に享けているのは瀆礼が甚だしいとし、副爵を設けるべきだと請うた。
- 大観四年(1110年)、議礼局は太廟の毎享にそれぞれ太尊二を設けているのは追享・朝享の尊を禴祠烝嘗にまで施すことになり礼を失していると論じ、四時の享では太尊を設けないよう請うた。また圭瓚の制について、親祀では塗金銀瓚を用い有司行事では銅瓚を用いているが、その大小長短の制が礼に合わないとし改めるべきこと、太廟圭瓚・別廟璋瓚は旧に珉石を用いていたが玉に改めるべきことを論じた。さらに、新定の太廟陳設の儀はすべて周制に依り、籩豆をそれぞれ二十六、簠簋をそれぞれ八用い、籩二十六は右を上として四行(羞籩二を第一行、朝事籩八、饋食籩八、加籩八の順)とし、豆二十六は左を上として四行(羞豆二、朝事豆八、饋食豆八、加豆八の順)とし、簠八は籩の外に二行、簋八は豆の外に二行とし、籩豆に盛る物はすべて周礼籩人・醢人の制に依るが、簠には稲梁、簋には黍稷を、茅俎には専を、蚳醢には蜂子を代えて用いることとした。また宗廟の祭に太牢を用いて三鉶に牛羊豕の羹を実れることに異論はないが、太羹は一登のみを設けており、少牢饋食礼によれば少牢とは羊豕の牲であって三牲の祭に鉶が三種あるのに登が一つしかないのは不備であるとし、太廟に三登を設けて牛羊豕の湆を実れ太羹とすべきで、明堂もこれに倣うべきだと論じた。
- 高宗の建炎四年(1130年)、温州に神主を奉安し権りに酒脯を用いた。紹興五年(1135年)に臨安府に太廟が建てられ初めて特羊を用い、十年(1140年)に少牢に改めた。七年(1137年)に建康で明堂の祀を行った際、徽宗の喪に関して、太常少卿呉表臣は熙寧の故事(英宗の喪が明けぬうちに景霊宮太廟の礼を廃さなかった例)を援用したが、翰林学士朱震はこれに反対し、王制に「喪三年は祭らず、ただ天地社稷は紼を越えて事を行う」とあり、三年の喪にあって宗廟の吉礼を行うことがどうしてできようかと論じた。吏部尚書孫近らは春秋の「君薨じて卒哭し、祔して主を作る。特に寝に祀り、蒸嘗は廟に禘す」を引き、杜預の注に新主が既に寝に特祀される以上、宗廟の常祀は当然旧のごとくすべきとあることを述べ、あわせて熙寧元年(1068年)神宗が諒闇(父の喪中)にありながら景徳の故事に倣って郊廟の礼を親行した例を引いた。結局、明堂大礼は既に行われた以上、以日易月の服除後は皇帝が太廟に合祭してよいが、鹵簿・鼓吹および楼前の宮架・諸軍の音楽はすべて備えて奏でないこととされた。
- 三十二年(1162年)、孝宗が即位し日を択んで太廟に朝享した。礼部は牲牢・礼料・酒斉などの物はすべて五享の例に従うべきだと言った。紹熙五年(1194年)、寧宗が即位した当時は孝宗の喪にあり、閏十月、浙東提挙李大性は、漢の文帝以来歴代の新君は即位すればみな廟に謁したのに、陛下は即位してすでに三月を経て未だ一度も宗廟に謁しておらず、鑾輿がしばしば太廟門を過ぎながら入らないのは人情に照らして欠典に思われるとし、早く日を択んで恭しく太廟に謁するよう請うた。詔してついに三年の制に遵うこととされた。吏部員外郎李謙は来年正月の上日に告廟の礼を親行することを請ったが、礼寺は皇帝が吉礼に従うのを俟ってから討論・施行すべきだとした。理宗は即位後三年の喪を行い、初めの明堂朝享は大臣に摂事させ、喪明け後に初めて親享の礼を行った。
薦新
- 太宗の雍熙二年(985年)十一月、宗正寺は詔に準じ兎十頭を送って太廟に享する旨を上言し、開宝通礼の薦新の儀(僖祖室の戸前に詣で盥洗・酌献し、次いで諸室を献ずる)に依った。これを機に詔して、時に順って蒐狩する礼は古くよりあるものであり、獲た禽を用いて宗廟に薦めるのを、今後は毎年十一月十一日の畋猟で親射して獲た田禽をすべて所司に付し太廟の四時薦享に備えることを令とした。
- 景祐三年(1036年)、宗正丞趙良規は、通礼に記される薦新の物は五十余種に及ぶが、今太廟の祭享では薦冰以外の薦新の礼はほとんど廃れているとし、時々の新物を宗正が選んで尚食に送り、滋味の相応しい新物と配して薦めるべきだと請うた。そこで礼官・宗正が各室の時薦を条定し、京都の新物により時訓(歳時記)に依り、四時二十八種の品を定めた。すなわち、春の孟月に韭・菘を薦め卵を配し、仲月に冰を薦め、季月に筍・含桃を薦める。夏の孟月に麦を嘗め彘を配し、仲月に瓜・来禽を薦め、季月に芡・菱を薦める。秋の孟月に粟・穄を嘗め鶏・棗・梨を配し、仲月に酒・稲を嘗め茭筍を薦め、季月に豆・蕎麦を嘗める。冬の孟月に兎を羞し栗・藷藇を薦め、仲月に雁・麞を羞し、季月に魚を羞す、というものである。
- 皇祐三年(1051年)、太常寺の王洙は、内より新物が下がるたび有司が吉日を択んで供するため三、四日を経て物がすでに損敗してしまうとし、以後は礼部が予め関報し翌日に薦めるべきだと請うた。元豊元年(1078年)、宗正寺は太常寺の報に基づき、日を択んで兎・藷藇・栗黄を薦新するというが、これらの物はすでに三種とも市に久しく出回っているのに廟には未だ薦められておらず、礼意にかなり反すると奏し、節序・品物には早晩があるため臨機応変にすべきだと述べた。また唐の開元礼では薦新に神主を出さないのに、両朝の薦新・朔望上食では神主を出しているとし、禮官に参定させるよう請うた。詳定所は、古の薦新は廟の寝で行われ、尸を用いず日を卜せず神主を出さず奠じて祭らないものであったのに、近時は日を択んで薦め神主を出すのは誤りだと論じ、天子諸侯は物が熟せば薦め孟仲季の限りに拘らないこと、呂氏月令は一年に八回の薦新、開元礼はこれに五十余品を加え、景祐年間に呂氏を簡にして薄いとし唐令を雑にして経ならずと論じ四時二十八物に更定した経緯を辿り、これは古に依れば大略に過ぎ経に違えば法がないとし、先王がかつて享用した膳羞の物で経に見えるものを存し、経にないものを去るべきだとして刊定を請うた。すなわち孟春に韭・卵を薦め葑を羞し、仲春に冰を薦め、季春に筍を薦め含桃を羞し、孟夏に麦を嘗め彘を用い、仲夏に雛を嘗め黍を用い瓜を羞し、季夏に芡・菱を羞し、孟秋に粟・稷を嘗め棗・梨を羞し、仲秋に麻・稲を嘗め蒲を羞し、季秋に菽を嘗め兎・粟を羞し、孟冬に雁を羞し、仲冬に麕を羞し、季冬に魚を羞す、という十六項に整理した。あわせて季春に鮪を薦めていないのは欠典であるとし、季春に薦鮪を加え(なければ魴・鯉で代える)、林檎・蕎麦・藷藇の類と季秋の嘗酒は削るべきだとした。新物や季節の出物はその日のうちに献じ、正祭でない以上、日を卜すべきでないとし、漢の儀に廟で嘗韭などを行い寝では行わなかった沿革(韋玄成伝に「廟は年に二十五祠あり薦新はその中に在り」とある)から漢・隋・唐と続いた失(薦新は廟にあるが神主を出さない)を指摘し、今出主するのは礼を失することが甚だしいとし、五礼精義に依って神主は据え置いたまま廟の完成を俟って寝で薦新すべきだと請い、従われた。鮪が得られなければ魴・鯉で代えることとした。その後、知宗正丞趙彦若は、礼院が仲秋の茭筍を経に合わないとして蒲白に替えたが、今は仲秋に白い蒲がないため春の献に依るべきだと述べた。大観の礼局もまた、薦新は月に繋げて定めるが、桜筍のように三月に進めるべきでも萌実が未だ成らない場合は孟夏まで持ち越すこともあり、時宜に随って新を取って薦めるべきだと論じた。政和四年(1114年)、比部員外郎何天衢は、祭は頻数に過ぎず疎に過ぎもせず適度であるべきで、一日に両祭を行うことなど聞いたことがないとし、太廟の薦新には朔祭と同日になるものがあるが、朔祭は一月の首に行われ動かせない一方、薦新は日を卜さず一月のうちいつでも薦めてよく、新物が未だ揃わなければ次月まで待つこともあるのだから、同じく朔日に合わせる必要はないと論じた。以後、薦新がたまたま朔祭と同日になる場合は次日に薦めることとされた。南渡後(中興)もこの制のままとされた。
加上祖宗諡号
- 太祖の建隆元年(960年)九月、太常礼院は唐の大中年間初め順宗・憲宗に諡号を追尊した先例(宣政殿で玉冊を授け、宰臣以下が節を持って太廟に冊を奉じる儀)を按じて上言した。その月二十七日、帝は崇元殿にて礼を備え使を遣わして四廟の諡号を奉った。高祖府君(僖祖)には「文献皇帝」の諡・「僖祖」の廟号を、その后崔氏には「懿文皇后」を奉り、曾祖府君(順祖)には「恵元皇帝」・「順祖」を、その后桑氏には「恵明皇后」を、祖驍衛府君(翼祖)には「簡恭皇帝」・「翼祖」を、祖母京兆郡太夫人劉氏には「簡穆皇后」を、聖考太尉府君(宣祖)には「昭武皇帝」・「宣祖」をそれぞれ奉った。四度の冊礼はすべて正使司空兼門下侍郎同中書門下平章事王溥、副使兵部尚書李濤が奉じた。
- 太宗の太平興国二年(977年)正月甲戌、太祖に尊号「英武聖文神徳皇帝」を上った。
- 真宗の大中祥符元年(1008年)十一月二十七日、帝は朝元殿にて祖宗の尊諡冊宝を奉り、太祖の冊宝を玉輅に、太宗の冊宝を金輅に安んじて太廟に詣で、太祖の尊号「啓運立極英武聖文神徳玄功大孝皇帝」、太宗の尊号「至仁応道神功聖徳文武大明広孝皇帝」を奉上した。天禧元年(1017年)正月九日には六室の尊諡に二字を加え、僖祖「文献睿和皇帝」、順祖「恵元睿明皇帝」、翼祖「簡恭睿徳皇帝」、宣祖「昭武睿聖皇帝」、太祖「啓運立極英武睿文神徳聖功至明大孝皇帝」、太宗「至仁応道神功聖徳睿烈大明広孝皇帝」とした。
- 仁宗の天聖二年(1024年)十一月二十五日、真宗に諡「文明武定章聖元孝皇帝」を加上し、慶暦七年(1047年)十一月二十五日、さらに「膺符稽古成功譲徳文明武定章聖元孝皇帝」を加上した。
- 神宗の元豊六年(1083年)五月、「加上尊諡」の呼称を「奉上徽号」に改め、十一月二日に仁宗の徽号「体天法道極功全徳神文聖武濬哲明孝皇帝」、英宗の徽号「体乾応歴隆功聖徳憲文粛武睿神宣孝皇帝」を奉上した。
- 哲宗の紹聖二年(1095年)正月、帝は輔臣に、祖宗の諡号はみな十六字まで加えられているのに神宗の諡号はいまだ初諡のままだと述べ、典故を考え検討させた。宰臣章惇らは、祖宗の加諡の歳月は一定でなく、真宗の初加は八字で天聖二年であり、神宗祔廟からすでに十年を経ているとし、故事として徽号加上は南郊の前に行うべきだと奏した。四月二十七日、神宗の徽号を大礼の三日前に加上するよう詔し、九月十六日、冊宝「神宗紹天法古運徳建功英文烈武欽仁聖孝皇帝」を奉上した。
- 徽宗の崇寧三年(1104年)十一月二十三日、神宗の徽号を「体元顕道帝徳王功英文烈武欽仁聖孝皇帝」に更定し、あわせて哲宗の徽号「憲元継道顕徳定功欽文睿武斉聖昭孝皇帝」を奉った。大観元年(1107年)九月、僖祖の徽号を十六字「立道肇基積徳起功懿文憲武睿和至孝皇帝」に加上した。政和三年(1113年)十一月五日、神宗・哲宗の徽号を加上するにあたり、前二日、皇帝は大慶殿で神宗の冊宝を太師魯国公蔡京に授けて玉輅に載せさせ、哲宗の冊宝を少師太宰何執中に授けて金輅に載せさせ、ともに太廟の幄殿に詣でて安んじた。四日、皇帝は景霊宮に詣でて礼を行い、太廟に赴いて宿斎した。五日、衮冕を服して神宗の本室に冊宝を奉り「体元顕道法古立憲帝徳王功英文烈武欽仁聖孝皇帝」、哲宗の本室に「憲元継道世徳揚功欽文睿武斉聖昭孝皇帝」を上り、朝享の礼を行った後、南郊青城宮へ赴いた。
- 高宗の紹興十二年(1142年)十一月、徽宗の徽号「体仁合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝」を加上するよう議を詔した。十三年(1143年)正月九日、皇帝は文徳殿にて宰臣秦檜に命じて太廟に十日間の内殿宿斎を奏請させ、文武百僚は発冊宝の殿門幕次に集まった(以下、儀式の具体的な進行は略)。
- 光宗の紹熙二年(1191年)八月、高宗の徽号「受命中興全功至徳聖神武文昭仁憲孝皇帝」を上るよう詔し、寧宗の慶元三年(1197年)、孝宗の徽号「紹統同道冠徳昭功哲文神武明聖成孝皇帝」を上り、嘉泰三年(1203年)、光宗の徽号「循道憲仁明功茂徳温文順武聖哲慈孝皇帝」を上り、寧宗の宝慶三年(1227年)、寧宗自身の徽号「法天備道統徳茂功仁文哲武聖睿恭孝皇帝」を上り、度宗の咸淳二年(1266年)、理宗の徽号「建道備徳大功復興烈文仁武聖明安孝皇帝」を上った。これらはすべて紹興十三年の儀注に依った。
廟諱
- 紹興二年(1132年)十一月、礼部・太常寺は淵聖皇帝(欽宗)の御名が経伝に見える義訓(威武の義・回旋の義・植立の象・亭郵の表名・圭名・姓氏・木名など)に応じ、それぞれの義類に従って読み替えるべきだとし、威武の義には「威」、回旋の義には「旋」、植立の義には「植」と読むこと、姓氏の類は木を去って「亘」とすること、漢代の邦・盈の避諱が「国」「満」と読み替えるのみで本字を改めなかった先例(司馬遷の史記に「邦」「盈」の字がそのまま見える)に倣い、淵聖皇帝の御名もこの読み替えのみとし、経伝の本字自体は改めないと定めた。
- 三十二年(1162年)正月、礼部・太常寺は欽宗の祔廟に伴い翼祖が正月九日に遷され、翼祖皇帝・簡穆皇后の神主が夾室に奉蔵されるので、以後翼祖皇帝の諱は礼により避けなくてよいとし、詔してこれに従った。
- 紹熙元年(1190年)四月、以後臣庶の命名は祧廟の正諱を犯すことを許さず、すでに正諱を犯す名字がある場合はみな改めるべきだと詔した。
- 嘉定十三年(1220年)十月、司農寺丞岳珂は、孝宗の旧諱(従伯・従玉・従宗の字からなる)は国朝の制で祖宗の旧諱二字はいずれも並用を許さないと定められているとし、また欽宗の旧諱二字(一つは面と旦、一つは火と亘からなる)もみな避けるべきであるとして、あわせて礼寺に討論させ頒降施行するよう請うた。礼寺の討論の結果、欽宗・孝宗の旧諱が二字連用される場合はすべて避けるべきとし、この請いに従って刊行された。