后廟
- 太祖の建隆三年(962年)、会稽郡夫人賀氏を「孝恵皇后」に追冊したが、陵所に祠殿を置いて神主を奉安し常饌を薦めるのみで、牙盤・祭器は設けなかった。乾徳元年(963年)、孝明皇后王氏が崩じ、廟を建てるかどうか、二后の先後の次序が議論となった。太常博士和峴は、共殿別室として孝明を正位・内朝に居らせ上室に置き、孝恵は改葬に伴い虞主(仮の神主)を造らず孝明と同じく祔するのが望ましく次室に置くべきだと請うた。礼院はさらに、后廟の祀事はすべて太廟に準じ、㦸(儀仗の戟)も立てるべきだと論じた。太祖の祔廟にあたり、有司は一后を配食すべきだと言った。唐の睿宗が肅明・昭成の二后を追諡した例では、睿宗の崩後、昭成のみが帝母の重みで肅明を差し置いて配され、肅明は儀坤廟に留め置かれた。また後周の世宗の正恵・宣懿の二后はともに世宗に先立って崩じ、正恵には位号がなかったため宣懿が正位に居て配食された。これらの先例により孝明皇后を配し忌日の行香・廃務とし、孝恵皇后は別廟に享けるべきだとされ、従われた。
- 太平興国元年(976年)、越国夫人符氏を「懿徳皇后」に、尹氏を「淑徳皇后」に追冊し、ともに后廟に祔した。至道三年(997年)、孝章皇后宋氏が祔享された際、有司は孝章が正位・中壼にあった以上上室に居るべきで、懿徳は追崇の后号ゆえその次に居るべきだと言い、いったん孝章殿室を懿徳の下に置くと詔したが、六月、礼官は太平興国中の追冊・定諡ではみな懿徳を上位としていたと議し、淳化初め宗正少卿趙安易が別廟祭享で懿徳が淑徳の上に位置する由来を測りかねると言った当時は懿徳を上位のままとする勅旨が出ていたことなどを引いた。さらに江都集礼に見える晋の景帝即位時の夏侯夫人追尊の議(散騎常侍任茂・傅玄らは、夏侯夫人は景帝に嫁いだ当時いまだ王基の道を備えず后妃の化も著れておらず、遠く追尊するに義拠なしとした)を引き、今の議論もこれと同様であるとし、淑徳は配合の初めにいまだ潜躍の兆しがなく、懿徳は輔佐の始めすでに藩郡の位が隆んであったとはいえ、いずれも生前中宮の位を得て天下に母臨したことはなかったとし、それでも没後に升配の崇きを受けることは人情にも典籍にも適わないとした。また唐の順宗は祔廟後十一年でようやく荘憲皇后を升配し、憲宗は祔廟後二十五年でようやく懿安皇后を升配した先例を引き、位を虚しくして旧儀に協うべきだと論じた。改めて尚書省と礼官による集議・詳定の結果、淑徳皇后は生前に位号がなく没後に追崇されたもので、況んやいまだ帝の潜龍の時期にすでに薨じていたのに対し、懿徳皇后は大国に封ぜられ先朝に配せられ、親臨の期には及ばずとも早くから賢懿の美をあらわしていたとし、升祔するなら懿徳を帰すべきだと結論した。あわせて後周の世宗正恵・宣懿の配食の故事(正惠が追尊の位号を得たため宣懿を配とすべしと議されたが、太后在位のため宣懿の祔廟後の忌日を懸念する声があり、晋の哀帝の実母周氏への服喪の先例を引いてこれを否定した経緯)に照らし、二后を追冊した以上いずれかを室に虚しくするのも不便だとして懿徳の神主を升配すべきだとした。あわせて世宗の神主祔廟の際、宣懿と同祔されるなら正惠の神主に「太」字を加えたように、懿徳を升祔するなら淑徳に「太」字を加え、なお別廟のままとすべきだとしたが、詔しては懿徳を配享とし、「太」の字は母后に施すのは宗廟の礼に未だ安からずとしてこれを加えず、なお別廟で配享とした。
- 十二月、賢妃李氏を「元徳皇太后」に追尊した。有司は周礼春官大司楽の職に「夷則を奏で仲呂を歌いて先妣を享く」とあるのは姜嫄(帝嚳の妃・后稷の母)を指し、特に「閟宮」という廟を立てたことを引き、また晋の簡文宣后が配食を得ず外に室を築いて祭られた例、唐の先天元年(712年)に昭成・肅明の二后を儀坤廟に祔した例、玄宗の元献楊后が太廟の西に廟を立てられた例を挙げ、后廟の中に廟室を修めて殿三間とし、神門・斎房・神厨を設けて薦享に備えるべきだと請うた。
- 咸平元年(998年)、判太常礼院李宗訥らは、元徳皇太后が別に廟室を建てられ淑徳皇后も別廟にあるが、ともに帝の母であるのに「太」字がないと論じ、唐の穆宗の三后のうち宣懿が升祔された一方、正献・恭懿の二后は別廟を立てられともに「太」字を有した例、また開元初め太常が昭成皇太后の「太」字を除くべきでないと議し「入廟して后と称するのは夫に繋がる義、朝廷で太后と称するのは子に繋がる義であり、諡冊が陵に入り神主が廟に入れば太字を去るべき」とした先例を引き、神主入廟の説は太廟に祔享され厭降するため太字を加えない趣旨であって、本朝の文懿ら諸后がこれにあたり、別に廟室を建てる場合は「皇后」とのみ称すべきでないとし、唐の正献・恭僖の二太后がこれにあたるとした。これにより淑徳皇后にも「太」字を加え、加えた後は元徳の新廟に第一室として遷し、元徳を次に、荘懐をさらに次に遷すべきだと論じた。詔して中書に集議させたところ、兵部尚書張斉賢らは、宗廟の神霊は静謐を尊ぶべきであり、況んや懿徳は作合の初めより舅姑に事えて婦道を尽くしたのだから祔享の礼は先後の順に従うべきだとし、旧のままとすべきだと奏した。また漢が秦の制により帝の母を皇太后と称した例を検討した上で、去年の議状で淑徳に太字を加えるべきとしながら詔してこれを加えなかったのは当時元徳皇太后の追冊が未だ行われていなかったためであるとし、今すでに冊命が終わった以上、礼官の言に依るべきだとされた。
- 咸平三年(1000年)四月乙卯、元徳皇太后を永熙陵に祔葬した。有司は元徳の神主の祔廟にあたり礼に依れば祔謁を行うべきだが前典に合わない点があるとし、追薦の尊称を奉り太字を加え別廟を建てて蒸嘗に備えた以上、禘祫の際も合食の列には預からず廟享の制も諸后と異なるとし、神主が還京するのを俟って廟室に祔し薦献・安神のみを行い祔謁の礼は行わず、毎年の五享・禘祫は太廟の儀に依るべきだとした。
- 景徳四年(1007年)、荘穆皇后郭氏の神主が太廟に謁し昭憲皇后に祔享され、享が終わると別廟に祔された。殿室は荘懐の上に置かれた。真宗が汾陰を祀り謁廟した後、自ら元徳皇太后廟に詣で躬ら謝し、門より輦を降りて歩み入り太廟と同様に酌献し、登歌を設け両省の御史・宗室の防禦使以上を廟内に班し、それ以外は廟外に班し、官を分けて孝恵ら諸后廟にも告げさせた。詔して太廟・元徳皇后廟の享には犢を用い、諸后廟の親享にも犢を用い、摂事には羊豕を用いることとした。
- 五年(1008年)、龍図閣直学士陳彭年は、禘祫の日に孝恵・淑徳の二后神主が別廟から太廟に赴き簡穆皇后の神主の下、太祖神主の上に祔されているのは曲台礼の「別廟皇后は禘祫のとき太廟に祔享する」の説によるものだが、明霊が合わさって享けるのは神礼に未だ安からずとして再詳定を望んだ。有司は曲台礼の禘祫の儀(皇后が先に別廟に祔されていた場合、禘祫にあたり太廟に祔享され、昭后なら祖姑の下の南間に、穆后なら祖姑の下の北間に座す)と博士殷盈孫の議(別廟皇后が禘祫で太廟に祖姑の下に祔されるのは、皇后が先に薨じすでに神主が造られていた場合、たとえば肅明・昭成の薨は睿宗在位中、元献の薨は玄宗在位中、昭徳の薨は徳宗在位中であり、四后とも太廟に本室が未だなかったため別廟を創り太廟合食の主としたので禘祫のたびに奉じて享け、その後太廟に本室ができれば当然遷祔すべきだが、帝が在位中は皇后を暫く別廟に立てる。礼としては合食すべきなので禘祫では太廟に升せるが未だ位がないため祖姑の下に列す)を引いた。これは開宝通礼が曲台礼と同じであることを示すもので、今の有司が礼意を理解せず禘祫の年に孝恵・孝章・淑徳の三后の神主を祖姑の下に祔享させながら太祖・太宗の下に位置させているのは誤りだとした。礼に「婦は祖姑に祔す」とあるのは卒哭の翌日を指し、これは正礼であり、祖姑が複数ある場合には親しい者に祔すとの注(舅の生母が死し継室二人があるときの説)を敷衍すれば、祖室に祖姑が三人あれば同じ祖室にあるのと同様、婦も複数あれば夫の本室に同座すべきで、長く祖姑に祔したままにすべきでないとした。開元礼が肅明皇后別廟の時享の儀のみを載せ禘祫の礼を載せていないのは、別廟の時享・禘祫がいずれも本廟で行われることを知っていたからであり、孝恵・孝章・淑徳も禘祫で太廟に祔される以上、今後の禘祫では本室に祔享し正主に次ぐべきだとされた。
- 咸平二年(999年)、元徳皇后は太宗の廟室に升祔され、詔して祔廟の歳時を合享の次序とし明徳皇后の次に位置づけられた。明道二年(1033年)、判河南府銭惟演は章献・章懿の二后をあわせて真宗の室に祔すべきだと請うた。太常礼院は、夏商以来父昭子穆はみな配坐を有し毎室一帝一后とするのが礼の正儀であり、唐の開元中に昭成・肅明の二后が初めて睿宗に並び祔された例はあるが、銭惟演が引く唐の武宗の母韋太后の穆宗への升祔や本朝の孝明・懿徳の太祖への祔の故事は、実際には韋后のみが太祖に祔され懿徳が配されたことはないと反論した。さらに先帝(真宗)が孝章を太宗に配し明徳の園陵の礼が終わってから元徳太后を升祔させたのは、追尊よりすでに十七年を経てからのことであり、章穆皇后が長秋(皇后)の位に在って真宗に祔食するのはこれに適う正礼だが、章献太后は天下を母儀としたとはいえ明徳と同例であり、古礼に従うなら后廟に祀るべきで、便宜的に升祔するのは先帝の慎重な意にそぐわないとし、また前代に同日に並んで祔された例もないとして、上裁を仰いだ。詔して有司に再議させたところ、章穆は中壼の位が高く懿徳とは異なりすでに廟室に祔され一帝一后の文に協うが、章献は輔政十年、章懿は帝を育てた徳育の功が並ぶものなく、后廟に退けるのでは衆心に厭かないとし、周官大司楽職の姜嫄の故事(帝嚳の妃・后稷の母を「閟宮」として特に廟を立てた例)に依り、別に新廟を立てて二太后の神主を同殿異室に安んじ、歳時の薦享は太廟の儀に依り、別に廟名・楽曲を立てて世々の享を崇めるべきだとし、忌日の前日には正殿に御さず百官が奉慰することを令甲に著すこととし、新廟が「奉慈」と名付けられた。
- 慶暦四年(1044年)、呂公綽の言に従い、先帝が特に諡した荘懐・荘穆の二后と、真宗に上った「文明武定章聖元孝」の諡について、郭后の升祔にあたり徽号を正すべきだとし、郊礼の前に官を遣わして先に宝冊を上り「荘」を「章」に改め、太廟には告げるのみで題を改めないこととした。郊祀にあたり五后の宝冊を三廟に導き、それぞれ神門外の幄次で奏告を待ってからみな室に納めた。まもなく詔して中書門下に故事を考究させ、章懿神主の升祔の礼を礼院が論じたところ、章献・章懿は章穆の次に序すべきで、章恵は先朝の遺制ですでに太妃を践んでいたが明道中に懿号を加えられ章懐とやや似た経緯があるとし章懐の次に序すべきだとされた。「太」の字は生前の事に用いる礼であり宗廟に施すべきでないが、章献は顧託の重み・臨御の労により廟義を援いて配室に属することに嫌いはないとする意見と、王堯臣ら学士は章献の明粛たる盛烈丕功は他に比類なく、その謚を廟に告げ冊を陵に蔵めた以上追減できるものではなく、章恵も帝躬を擁祐した功は等しく、景祐中に保慶の冊を得たのは子への義に専ら繋がるゆえ別祠すべきであり、章穆の升祔からすでに年月を経て奉慈廟三室の先後もすでに定まっている以上、いま昇降を議するのは軽重を誤ることになるとし、旧制のままとすべきだと論じた。中書門下の再議の結果、先例と大中祥符の詔が示す章聖(真宗)の特旨を踏まえ、配食は一体であり二太后への配慮も陛下の孝に依るべきだとし、礼官・学士の議に従うこととされた。十月、文徳殿で冊宝を奉安し、帝は通天冠絳紗袍を服し圭を執り太常が楽を奏し百官が廟堂に宿し、翌日有司が諸廟に薦享した。寅の刻、再び正衙に詣で宰臣が行事し礼官が冊宝を大慶殿の庭で発冊させ宣徳門を出て、摂太尉賈昌朝・陳執中がこれを受けて奉慈廟に赴いて冊宝を上り、二主が遷されることを告げ、いずれも「太」字を塗り、太廟に祔した。
- 至和元年(1054年)七月、有司は詔を奉じ温成皇后の廟を立て、皇后廟に準じて祭器の数を定めたが、後に諫官の言により祠殿に改め、歳時には宮臣に常饌を薦めさせることとした。治平元年(1064年)、同判太常寺呂公著は喪服小記の「慈母は世々祭らず」を引き、章恵太后は仁宗がかつて母と称し寳慶の号を加えたのは生前に慈しみ保つ勤めがあったため没後に廟享の報いを受けたのであり、今陛下の恩はすでに止むところに至っているので礼として奉祀を続け難く、奉慈廟は礼に依り廃罷すべきだと請うた。
- 熙寧二年(1069年)、摂太常卿張掞に命じて章恵太后の神主を陵園に瘞めさせた。元豊六年(1083年)、詳定所は、夫婦は一体であるから昏姻では同牢合卺、終われば同穴に葬られ、祭には同几同祝饌が用いられ廟を異にすることはないと論じ、ただ周人が姜嫄を媒神として帝嚳に廟がないため子孫の廟に下せず別廟で祭った例(魯頌に「閟宮」、周礼に「先妣」とある)を挙げ、漢以来不祔・不配とされてきた諸例は皆微賤・継室を理由に姜嫄を引き合いに出したに過ぎないとし、始め微賤で終わり顕貴となったのも嫡であり、前娶・後継もいずれも嫡であるのに、後世は始め微賤で後に継いだ者を別廟に置き同几の義を伸ばせずにいるのは礼意に反するとした。太祖の孝恵皇后、太宗の淑徳皇后、真宗の章懐皇后は実にみな元妃であり、孝章のみ太宗の継后であるのに、みな別廟で祭られているのは礼として未だ安からずとし、太廟に升祔して四室を増やし時に配享すべきだと請い、七月ついに別廟から太廟に升祔された。
- 政和四年(1114年)、有司は政和元年の孟冬祫享で恭恵神主が太廟に入り祖姑の下に祔された経緯を述べ、今年の祫享で明達皇后の神主は陵祠に安んじられており城外にあるため、三代の制ではいまだ陵にそのまま廟を置いた例はないとし、明達皇后がすでに典冊を正して歳時の薦享も諸后と同様である以上、恭恵の別廟に殿室を増築して神主を迎え祔すべきだと論じた。また明達の神主の祔謁の日には、英宗室に宣仁聖烈皇后・明達皇后の二位を増設し七祀・配享功臣もあまねく祭り、別廟でも恭恵・明達の二位を並祔すべきだとした。紹興七年(1137年)、恭恵は「顕恭」に諡を改められた。これは徽宗の「聖文仁徳顕孝」の諡によるものである。十二年(1142年)五月、礼部侍郎施鉅は、懿節皇后の神主が卒哭を待って日を択び祔廟する際、顕恭皇后の礼に依り太廟内に殿室を修建して別廟として安奉すべきだとし、また将来祔廟する虞主は本室の後ろに瘞埋するのが本来だが、別に行在で祔廟する場合は本室冊宝殿に収奉し、回京の日を俟って別廟の故事に依るべきだと論じ、従われた。七月、有司が九虞の祭を行って奉安した。三十二年(1162年)、礼部・太常は、故妃郭氏を追冊して皇后とした以上、懿節皇后に依り別廟に祭るべきだが、廟殿にはすでに懿節皇后の神主が安んじられており狭隘であるとし、二室に分けて西を上とし、それぞれ戸牖を設け、本廟の斎宮を仕切って懿節の神主を権りに安んじ、工事が終われば殿に還すべきだと言った。王普はさらに各祏室を置くよう請い、みな従われた。乾道三年(1167年)閏七月、安恭皇后の神主が別廟に祔され三室となった。
景霊宮(神御殿・功臣配享)
- 大中祥符五年(1012年)に創建され、聖祖の臨降を記念して奉じた宮である。天聖元年(1023年)、宮の万寿殿を修めて真宗を奉じ「奉真」と称した。明道二年(1033年)、広孝殿を建てて章懿皇后を奉安した。治平元年(1064年)、宮の西園に殿を建てて仁宗を奉じ「孝厳」と称し神御を奉安して親ら酌献し大臣に諸殿を分けて行礼させ、翌日太后が酌献し皇后・大長公主以下の内外命婦が庭に陪位した。毎年の朝謁は奉真殿の儀に依り、期喪以上または災異があれば輔臣に摂事させるとし、斎殿は「迎釐」、宮西門は「広祐」と名付けられた。四年(1067年)、英徳殿を建てて英宗の神御を奉じた。凡そ七十年間、神御は宮に四か所、寺観に十一か所寓されていたが、元豊五年(1082年)に宮内に十一殿を新造し、在京の寺観にあった神御をすべて迎え入れ、時王の礼をもって帝后を合祀した。十一月、百官が集英殿廷に班し、帝は蘂珠・凝華などの殿に詣で告遷廟の礼を行い、礼儀使が神御を綵輿に奉じて殿を出た。翌日再び薦享の礼を行い、礼儀使が神輿を奉じて行き、帝は幄を出て宣徳門外まで送り、親王・使相・宗室・正任以上が前引し、望参官および諸軍都虞候・宗室副率以上が陪位し、内侍省押班が儀衛を整えて随った。神御は十一殿に奉安された。
- 翌日、帝は宮に朝献し、まず天興殿に謁してから順に礼を行うのは四孟の儀に同じとした。以後朝献は孟春に十一日、孟夏は日を択び、孟秋は中元日、孟冬は下元日とし、天子は常服で行事し、聖祖殿には素饌、神御殿には膳羞・器服・儀物をすべて今制に依って薦めるべきだと詔した。天興殿の門は天神を奉るため㦸を立てず、諸神御殿の門には親事官五百人を置き㦸二十四を立て、歴代の文武執政官・武臣節慶使以上の像を両廡に図形した。凡そ執政官が拝命・赴任するとき宮に恭謝し、南郊の際には先に宮に詣で薦享の礼を行うことも太廟の儀に依った。
- 元祐元年(1086年)、太常寺は季秋の明堂の事に関し、景霊宮への朝享・太廟への親享はいずれも三年不祭の礼に依り大臣を遣わして摂事すべきだと言ったが、礼部は景霊宮天興殿が天地の礼を用いる以上廟享ではなく、典礼に違わないと反論し、明堂の前二日に景霊宮天興殿へ朝享することが詔された。翌年、神宗の神御を景霊宮に奉安し十一殿奉安の礼に依った。
- 旧制では、車駕は上元節に十一日、興国寺・啓聖院に詣で太祖・太宗・神宗の神御に朝謁し、下元節には景霊宮に詣で天興殿を拝し真宗・仁宗・英宗の神御に朝謁していたが、以後は毎年四孟月の拝謁を孟秋より始めることとし、親祭できないときは官を分けて詣でることとした。当初は天興殿・保寧閣・天元殿・太始殿に詣で、次いで皇武殿・儷極殿・太定殿・輝徳殿に詣で、次いで熙文殿・衍慶殿・美成殿に詣で、次いで治隆殿・宣光殿(宣光殿は後に顕承殿と改め、徽宗が更に大明殿と改めた)に詣でるとした。皇太后が崩じた際、三省は治隆殿に神御を奉安するよう請い、元祐初めの詔に依った。後に御史劉極の言により特に原廟(神御殿)を建て、廟が成ると神御殿を「徽音」、山殿を「寧真」と名付けた。紹聖二年(1095年)、神宗の神御を顕承殿に奉安した。元豊中は毎年四孟月に天子があまねく諸殿に朝献していたが、元祐初め議者は四孟を分けて一年で遍く至ることを請い、この時に再び旧儀に復し、以後四孟の朝献は二日に分け、先日に天興殿・保寧閣・天元・太始・皇武・儷極・大定・徳輝の諸殿に、次日に熙文・衍慶・美成・継仁・治隆・徽音・顕承の七殿に詣でることとした。三年(1100年)十月、帝が天興ら諸殿に朝献した翌日大雨が降ったため、すでに致斎した官に熙文ら七殿を分献させ、以後雨雪の際はこれを例とした。
- 徽宗即位にあたり宰臣は特に景霊西宮を建て神宗を顕承殿に奉安し館御の首として万世に尊異の意を示すべきだと請い、哲宗の神御殿を西に建てその東偏を斎殿とし、度僧牒・紫衣牒千道を営造の費に充て戸牖の工巧の物はすべて荊湖北路に置くこととしたが、まもなく右正言陳瓘が五つの不可を論じ蔡京の矯誣を非としたため実行されなかった。建中靖国元年(1101年)、欽聖憲肅皇后・欽慈皇后の神御殿を大明殿の北に建て「柔明」(後に「欽儀」、また「坤元」と改称)と名付け、また哲宗の神御殿を「観成」(後に「重光」と改称)と名付けるよう詔し、以後景霊宮は三日に分けて朝献するよう詔した。崇寧三年(1104年)、欽成皇后の神御を坤元殿の欽聖憲肅皇后の次に、欽慈皇后をさらにその次に奉安した。政和三年(1113年)、哲宗の神御を重光殿に奉安し、昭懐皇后の神御殿が成ると正殿を「柔儀」、山殿を「霊娭」と名付けた。かくして両宮あわせて前殿九・後殿八・山殿十六・閣一・鐘楼一・碑楼四・経閣一・斎殿三・神厨二・道院一および斎宮廊廡をあわせ計二千三百二十区に及んだ。
- 東京以来の奉先の制では、太廟は神主を奉じ歳五享に宗室諸王が行事し朔祭・月薦新は太常卿が行事するのに対し、景霊宮は塑像を奉じ歳四孟に皇帝が親享し、帝后の大忌には宰相が百官を率いて行香し后妃がこれに続き、郊祀・明堂の大礼にあたっては先立つ二日に景霊宮に親詣して朝享の礼を行うものであった。紹興十三年(1143年)二月、臣僚が上言し、元豊五年(1082年)神宗が景霊宮を広めて祖宗衣冠の游(原廟)を奉じたのは漢の原廟に相当するもので、艱難以来庶事は草創され宗廟だけがまず建てられ原廟の神游はいまだ永嘉(温州)に寄せられたままであり、四孟の薦献も便宜的に朝設して享けるにとどまり広孝の意にいまだ副わないとし、爽塏の地を有司に択ばせて景霊宮の旧規に倣い建て、告成の日を俟って晬容(御真影)を新廟に迎え奉安し四孟の親行の献礼を実現すべきだと請い、従われた。当初築かれた三殿では、聖祖を前に、宣祖から祖宗諸帝を中殿に、元天大聖后と祖宗諸后を後殿に安んじ、宮内には内侍七人・道士十人・吏卒二百七十六人が置かれた。上元には灯楼を結び、寒食には鞦韆を設け、七夕には摩睺羅を設け、簾幕は歳時ごとに一新し、歳ごとに酌献に羊二百四十を用い、帝后の忌辰にはみな道釈が法事を行った。十八年(1148年)、道院を増築した。当初、本は劉光世に賜った邸第で、後に韓世忠の邸第を加えて増築したもので、天興殿は九楹、中殿は七楹、後殿は十七楹、斎殿・進食殿もすべて備えられた。
- 神御殿は古の原廟であり、先朝の御容を奉安するもので、宣祖・昭憲皇后は資福寺・慶基殿に、太祖の神御殿は七か所(太平興国寺開元殿・景霊宮・応天禅院・西京鴻慶宮・永安県会聖宮・揚州建隆寺章武殿・滁州大慶寺端命殿)に、太宗の神御殿は七か所(啓聖禅院寿寧堂景福殿・鳳翔上清太平宮・并州崇聖寺統平殿および西京鴻慶宮・会聖宮)に、真宗の神御殿は十四か所(景霊宮奉真殿・玉清昭応宮安聖殿・洪福院寿寧堂福聖殿・崇先観永崇殿・万寿観延聖殿・澶州信武殿・西京崇福宮保祥殿・華州雲台観集真殿および西京鴻慶宮・会聖宮・鳳翔太平宮)に、仁宗・英宗・神宗・哲宗の四朝の神御は景霊宮応天院に、章献明粛皇后は慈孝寺彰徳殿に、章懿皇后は景霊宮広孝殿に、明徳・章穆の二后は普安院重徽殿に、章恵太后は万寿観広慶殿にそれぞれ置かれた。
- 景徳四年(1007年)、太祖の御容を応天禅院に奉安するにあたり宰臣向敏中を奉安聖容礼儀使とし、いったん文徳殿に安置して百官が班列し帝が酌献の礼を行い、鹵簿が導引して綵輿を進発させ、帝は正陽門外で辞し百官は瓊林苑門外で辞し、官を遣わして昌陵に奏告した。皇祐年間、滁州通判正靖の請いにより滁・并・澶の三州に殿を建て神御を奉じることとなり、太祖が皇甫暉を滁州で擒えたのは受命の端緒であるとして大慶寺の殿を「端命」と名付け太祖を奉じ、太宗が劉継元を并州で取ったのは太平の統であるとして崇聖寺の殿を「統平」と名付け太宗を奉じ、真宗が契丹と澶州で盟したのは偃武の信であるとして旧寺の殿を「信武」と名付け真宗を奉じた。まもなく統平殿が火災に遭い、諫官范鎮は、并州は元来火災が少なく神御殿を建ててから間もなく焼失したのは、祖宗の御容が郡国に安んずべきでないことを天意が示したものであろうとし、并州が平定されてから七十七年を経てなお故城の父老が新城に入らない実情に鑑み、賦役を寛やかにして河東の民に太宗の徳を忘れさせないことこそ陛下の孝思の表れであり、あえて神御殿を一つ建てることに比すべきではないと論じた。これより先、睦親・広親の二宅にも神御殿が建てられていたが、翰林学士欧陽脩が神御は人臣私家の礼ではないと論じ、両制・台諫・礼官の議で漢が春秋の義を用いて郡国廟を罷めた例に照らし典礼に合わないとされ、広親宅はすでに建てて久しいためそのままとされたが睦親宅は罷められた。
- 熙寧二年(1069年)、英宗の御容を景霊宮に奉安し帝みずから酌献し、以後歳ごとに十月望に朝享すること、期喪以上または災異には輔臣に摂事させることを詔した。知大宗正丞事李徳芻は、礼法として諸侯は天子を祖とせず公廟は私家に設けないものであるのに、今宗室邸第に帝后の神御が並び置かれているのは尊卑を明らかにし正統を崇ぶ所以ではないとし、一切廃罷すべきだと望み、礼官に詳定させたところ請いの通りとされ、諸宗室宮院の祖宗神御はすべて天章閣に迎え蔵められ、以後臣庶の家にあった御容もすべて禁中に取り蔵められることとなった。元豊五年(1082年)に景霊宮十一殿が造られ在京の宮観寺院にあった神御はすべて禁中に迎え入れられ、残るのは万寿観・延聖・広愛・寧華の三殿のみとなった。
- 宣和元年(1119年)、礼部が奏し太常寺が参酌して定めた諸州府の祖宗御容がある地における朔日・諸節序の御封香表・下降香表の行礼儀注が示された。斎戒・朝拝の前日には朝拝官・読表文官が早く斎所に赴き、礼が備わるのを俟って禮生が読表文官を導いて香表を捧げ、朝拝官に集まらせて執事者が香表を呈示し、禮生が読表文官に少し前に出て表文(あるいは密詞)を稍前で読み習わせ、封題のみを読ませることもあること、以下朝拝・薦献の細かな進行が定められた。以上のとおり詔して頒行された。
- 東京の神御殿は宮中にあり旧称「欽先孝思殿」と言った。建炎二年(1128年)閏四月、温州の神御を闕に迎える旨を詔した。これより先、神御は温州の開元寺に暫く奉安されており、章聖皇帝(真宗)とその后の像はいずれも金で鋳造され外に置かれ不便であったため、帝は愀然として宰輔に、播遷してここに至り時に祖宗の神御を薦享できず、海隅に置かれたことを念い坐しても心安まらないと述べ、この命を下した。三年(1129年)二月、帝は禁中の神御薦享の礼物を覧て、宰臣に、神御の一位ごとに羊胃一・湏(羹の一種か)に二十五羊を用いているが祖宗は仁厚であり物を多く害することを望むまいと述べ、謹んで別味に代えるよう命じた。天にある祖宗の霊も必ずこれを享けるであろうとし、呂頤浩は陛下が宗廟を寅んで礼を尽くしつつ仁愛を物にまで及ぼすことを称えた。紹興十五年(1145年)秋、崇政殿の東に神御殿を再建し、朔望・節序・帝后の生辰には皇帝がみな親ら酌献し家人の礼を用いた。その殿名は、徽宗を「承元」、欽宗を「端慶」、高宗を「皇徳」、孝宗を「系隆」、光宗を「羙明」、寧宗を「垂光」、理宗を「章熙」、度宗を「昭光」とした。
功臣酌享
- 真宗の咸平二年(999年)、太師贈尚書令韓王趙普を太祖の廟庭に配享する旨を初めて詔し、続いて翰林承旨宋白らの議により、故枢密使贈中書令済陽郡王曹彬を太祖に、司空贈太尉中書令薛居正・忠武軍節度使贈中書令潘美・尚書右僕射贈侍中石熙載を太宗の廟庭に配享した。あわせて本室に奏告し、禘祫にはみな配することとされた。祀日には有司が先んじて幄次を設け廟庭の東門内・道の南に褥位を布き、配室ごとに西向に位牌を設け(板は方七寸・厚一寸半)、籩豆各一・簠簋俎各一を置き、知廟卿が奠爵し再拝した。
- 乾興元年(1022年)、翰林礼官の参議に依り右僕射贈太尉中書令李沆・贈太師尚書令王旦・忠武軍節度使贈中書令李継隆を真宗に配享するよう詔した。嘉祐八年(1063年)、尚書右僕射贈尚書令王曾・太尉贈尚書令呂夷簡・彰武軍節度使贈侍中曹瑋を仁宗に配享するよう詔した。
- 熙寧八年(1075年)、司徒兼侍中贈尚書令韓琦を英宗に配享するよう詔した。元豊元年(1078年)、さらに贈太師中書令曾公亮をこれに配した。熙寧の頃はまだ太常礼院が親祠太廟の際に功臣に及ぶ礼例を講求したことはなく、この時に至り禘祫のほか親享太廟でもみな功臣を配することとされ、太常礼院の請いにより配享功臣は現任の贈官によって板位を記すこととされた。
- 元祐初め、吏部尚書孫永らの議により、故司徒贈太尉富弼を神宗に配享した。紹聖初め、守司空贈太傅王安石をこれに配した。三年(1096年)には富弼の配を罷めたが、これは弼が先帝(神宗)に得罪していたためである。崇寧元年(1102年)、観文殿大学士贈太師蔡確を哲宗に配享するよう詔した。五礼新儀では配享功臣の位は殿庭の次に設けられ、趙普・曹彬は横街の南、道の西で東向に第一次、薛居正・石熙載・潘美は第二次、李沆・王旦・李継隆は第三次でみな北を上とし、王曾・呂夷簡・曹瑋は横街の南、道の東で西向に第一次、韓琦・曾公亮は第二次、王安石は第三次、蔡確は第四次でみな北を上とし、冬享・祫享でのみ偏に祭位を設けることとされた。
- 建炎の初め、蔡確が贈られた太師汝南郡王の号を奪い武泰軍節度副使に追貶するよう詔し、代わりに左僕射贈太師司馬光を哲宗に配享させた。まもなく王安石の配も罷め、再び富弼を神宗に配享させた。紹興八年(1138年)、尚書左僕射贈太師韓忠彦を徽宗に配享した。十八年(1148年)二月、監登聞鼓院徐璉が、国家の原廟には佐命配享として当時の輔弼勲労の臣を廟庭に絵像し不忘の意を示してきたが、累朝を通じて十余人に過ぎず、今の臣僚やその子孫の家にもなお絵像を存する者があるはずだとし、有司に尋訪させ景霊宮庭の壁に再び摹らせることを望んだ。功臣の子孫に寵を仮すのみならず祖宗の徳業を増重し臣子の勧めとなるとし、諸路転運司に命じて管下の州軍にそれぞれの家(韓王趙普・周王曹彬・太師薛居正・石熙載・鄭王潘美・太師李沆・王旦・李継隆・王曾・呂夷簡・侍中曹瑋・司徒韓琦・太師曾公亮・富弼・司馬光・韓忠彦)を尋訪させ貌像を摹写して景霊宮の壁に描かせた。
- 乾道五年(1169年)九月、太常少卿林栗らは、欽宗皇帝の廟廷になお配享が虚しいままであるとし、艱難の時代に淪胥(滅び)を救えなかったとはいえ、身をもって国に殉じ名節が著しい者もいるはずで、生前の官品が配享の格に及ばずとも事変が非常であれば定制に拘るべきでないとし、特に集議を詔すべきだと請うた。吏部尚書汪応辰は、当時死事した臣にはみな次第の褒贈があり、これに基づいて配享させるのは欽廟の典故にないことで、創行するなら本末を訪ね究め軽重を差次すべきで軽々しくはできないと奏し、配享功臣は唐制に依るなら各廟にその人がなければ欠くのが当然だとして、結局集議は罷められ欽宗一廟には配享がないままとなった。
- 淳熙年間、高宗の祔廟にあたり翰林学士洪邁は、配食功臣を先んじて議定するにあたり自ら二度宣諭を受け文武臣各二名を用いようと考え、文臣は故宰相贈太師秦国公謚忠穆呂頤浩・特進観文殿大学士謚忠簡趙鼎、武臣は太師蘄王謚忠武韓世忠・太師魯王謚忠烈張浚のこの四人がいずれも一時の名将相であり天下の公論に適うとし、これに従った。秘書少監楊万里は独り丞相張浚が配食を得られないのは非であると争ったが認められず、これにより去位した。
- 紹熙五年(1194年)十二月、左丞相贈太師魯国公陳康伯を孝宗の廟庭に配享した。嘉泰元年(1201年)正月、右丞相贈太師葛邲を光宗の廟庭に配享した。嘉定十四年(1221年)八月、追封右丞相史浩を越王とし諡を忠定と改めて孝宗の廟庭に配享した。端平二年(1235年)八月、太師趙汝愚を寧宗の廟庭に配享した。
- 仁宗の天聖年間、郊祀にあたり故相李昉・宋琪・呂端・張斉賢・畢士安・王旦および執政李至・王沔・温仲舒・陳洪進らの子孫を官に録用するよう詔した。元豊中、景霊宮の絵像旧臣について子孫への恩を推し、本支の両房以上は禄を食まぬ者に均しく機会を与え、年長の者を取ること、子孫もまた絵像がある場合はその房のみで禄を食まぬ者を取り他房は取らないことなどが定められた。紹聖初め、林希は慶暦以後まだ編次されていない臣僚の子孫で録用すべき者を次第に編定すべきだと請い、まもなく趙普は社稷に殊勲があるためその諸孤のうち禄を食まぬ者は年長の順に一子を官とすること、三人を超えないことが詔された。崇寧初め、哲宗の絵像を文武臣僚とその子または孫一人にあわせて与えること、初品官であれば子孫が多くとも一家一人を超えないことが詔され、また藝祖(太祖)の功臣呂余慶の族孫偉と司徒富弼の孫直柔・直道を官に録し祀祭を奉じさせた。靖康の初め、臣僚が言うに、司馬光の後は再び絶えて族子稹を立てたが稹もすでに卒し、今その子はいるものの光の遺表による恩沢はすでに五十年を経て再び奏請することはできないため、現存する曾孫に恩沢を移し世々禄を受けさせるべきだと請い、従われた。
群臣家廟
- 周制に本づき、適士以上は廟に、庶士以下は寝に祭った。唐は周制を尊んで私廟を崇めたが、五代の乱で礼文は大いに壊れ、士大夫は爵位を襲うことがなくなり廟を建てず四時に寓祭した。宗室では慶暦元年(1041年)の南郊赦書に、中外の文武官はみな旧式に依り家廟を立ててよいとの一文があり、まもなく宋庠がこれを言上し、両制・礼官に命じてその制度を詳定させた。すなわち、正一品平章事以上は四廟を、枢密使・知枢密院事・参知政事・枢密副使・同知枢密院事・簽書院事の現任・前任、および宣徽使・尚書・節度使・東宮少保以上はみな三廟を立て、その他の官は寝に祭るとした。廟を立てる資格を得た者は嫡子に爵位を襲わせて祭主とし、その爵位が世々一等ずつ下がり死しても神主を作れなくなったときは別に寝に祭ることとした。廟を立てる資格を得た者はその主を祔し、その子孫が代を継いでも廟祭・寝祭は世数の疎密に応じて遷祧し、初めて廟を立てた者は祧さず、始封に祧されない者があるのに準じて四廟あるいは五廟を通祭させた。廟が衆子によって立てられ嫡長子が存命なら嫡長子が祭を主宰し、嫡長子が死しても子には伝えず廟を立てた者の子に伝えることとした。廟を立てる場所は京師または居住する州県で選んでよいが、京師では裏城および南郊の御路の側には建てられないとし、あわせて爵位襲用の制も別に議されることとなったが、廟を有する者の子孫にたまたま官が微賤で祭祀を継げない場合があり、朝廷も襲爵の恩を尽くしがたく、結局この案は実行されなかった。
- 大観二年(1108年)、議礼局は臣庶の祭礼について古今を参酌討論し上奏すべきだとし、これを受けて執政以上は四廟を、他は通じて三廟を祭るとしてきたのは古に四世を祭る例がないのにこれを超えるものであり、また侍従官から士庶まで通じて三世を祭り差等がないのも礼意にそぐわないとした。古の天子は七世を祭るとされ、今太廟がすでに九室に増えている以上、執政は古の諸侯に準じ五世を祭っても過ぎることはないとし、先王が礼を制定して万人万様の情を斉一にし、賤者は僭上を許さず貴者は分を越えないようにした趣旨から、二世を祭る資格の者が孝思追遠の心があっても越えられないのと同様、五世を祭る資格の者もそれに及ぶべきだとし、恩を奪って三世に通ずるよう流俗に阿るのは先王の等差の義に反すると論じた。結局、文臣執政官・武臣節度使以上は五世を祭り、文武升朝官は三世を祭り、その他は二世を祭ることとされ、私第を有する者は廟を門内の左に立て、狭隘であれば私第の側に立ててもよく、力が及ばなければ随宜とすることが許された。また詔して、古は寝が廟を超えないものとされ、この礼が久しく廃れ士庶の堂寝が度を超え七楹・九楹に及ぶものもあるが、一旦五世・三世の数に応じさせて居宇を取り壊させるのは行い難いとし、以後廟を立てる際はその間数を祭る世数に応じさせ、寝の間数は廟を超えないこととし、二世を祭る者の寝は二間までとした。
- 議礼局はまた礼記王制の「諸侯五廟、二昭二穆と太祖の廟とで五」を引き、「太」とは始封の祖を指し必ずしも五世である必要はなく臣下が通称できるものでもないとし、今の高祖以上一祖にはまだ名称がないため「五世祖」と称すべきだと請うた。家廟の祭器については、正一品は毎室に籩豆各十二・簠簋各四・壺尊罍鉶鼎俎篚各二・尊罍に勺羃各一・爵各一を用い、諸室で共用する胙俎・罍洗一を置くとし、従一品は籩豆簠簋を二ずつ減らし、正二品は籩豆各八・簠簋各二とし他はみな正一品の数に依るとされ、詔して礼制局に製造させ賜与することとされた。
- 紹興十一年(1141年)二月癸丑、太師左僕射秦国公秦檜に家廟を建てるよう詔し、臨安守臣にこれを営ませた。太常は私第の中門の左に一堂五室(五世祖を中央に東二を昭、西二を穆とする)を建て、堂は黝堊で飾り、神板は長さ一尺・幅四寸五分・厚さ五寸八分で「某官某大夫之神坐」と大書し帛の囊に貯め漆の函に蔵め、歳四享は孟月の柔日に行い三献の礼を具えるべきだと請うた。有司は時享に常器・常饌を用いるとしたが、帝は政和の故事に倣って祭器を製し賜与するよう命じた。その後、太傅昭慶節度平楽郡王韋淵、太尉保慶節度呉益、少傅寧遠節度楊存中がそれぞれ家廟を建てることを請い祭器を賜った。隆興二年(1164年)四月庚辰、少卿四川宣撫使呉璘が楊存中の例に依ることを請い、従われた。
- 乾道八年(1172年)九月、有司に少保武安節度四川宣撫使虞允文の家廟に祭器を賜うよう故事に依り詔した。淳熙五年(1178年)七月、戸部尚書韓彦古は賜第を用いて父韓世忠の家廟を楊存中の例に依り建てることを請うた。十二月、少傅保寧節度衛国公史浩が家廟を建て祭器を量って賜うことを請うた。嘉泰元年(1201年)、太傅永興平原郡王韓侂冑は曾祖韓琦が先朝に忠を効し累世家廟に侑食してきたにもかかわらずなお欠けているとして礼官にその制を考究させ建てることを奏請した。二年(1202年)には循忠烈王張俊、開禧三年(1207年)には鄜武僖王劉安世の子孫がそれぞれ相継いで請い、みな従われた。
- 嘉定十四年(1221年)八月、右丞相史弥遠の賜第に淳熙の故事に遵い家廟を賜うことを詔し、臨安守臣にこれを営ませ、礼官に討論させて祭器は韓侂冑の制にすべて依らせた。史弥遠は生母斉国夫人周氏および祔妻魯国夫人潘氏をあわせて生母の別廟に祀ることを請い、いずれも有司に器を賜わせた。景定三年(1262年)、丞相賈似道に家廟を賜うことを詔し、臨安守漕にこれを営ませ、礼官に討論させ祭器を賜うことすべて儀に依った。