総論――律暦を論ずる意義
- 古の帝王が天下を治めるには律暦を先とした。儒者の学問は天人を通じることを窮極とするが、律暦に至って止まる。暦は数から始まり、数は律から生じる。律暦が正しく定まれば寒暑が節を得て、歳の功が民の事を成し、もろもろの績みを整えて万事の根本がそこから立つ。古人は小学に入るときから楽と数を知り、その源を悟ったが、後世の老練な学者でもなお律暦を習わないことがあり、律暦の専門家も必ずしも道を知らず、それぞれ師を異にして二派に分かれた。巧みな考えがあっても造化の統会を究め天人の蘊奥を識ることは難しく、律を審らかにし暦を造ることが度々改められ一定の説がなかった。治世の効果が古のようにいかないのもこれに由る。
- 宋の初め、五代の末を承け王朴が律暦を制し律凖を作ってその声を宣べた。太祖は雅楽の音が高すぎるとして有司に詔し和峴らに影表銅臬や羊頭秬黍を用いて尺を累ね律を制させ、度量権衡もこれによって正した。しかし歴代の尺度と望臬とは異なり、黍にも大小・縦横・容積の別があって諸儒の議論が分かれ、ついに定説を得なかった。崇寧年間に至り、徽宗が蔡京を任じ方士の「声を身となし身を度となす」との説を信じるに及んでますます古法から外れた。
- 顕徳の欽天暦も王朴の制作である。宋初にこれを用いたが、建隆二年(961年)、推算がやや粗いとして王処訥らに新暦を作らせ、建隆四年(963年)に完成し「応天暦」と名付けた。間もなく気候にずれが生じ、太平興国四年(979年)に「乾元暦」を施行、また間もなくずれ、以後「儀天」「崇天」「明天」「奉元」「観天」「紀元」と続き、靖康丙午(1126年)に至るまで160余年で8度改暦した。南渡の後は「統元」「乾道」「淳熙」「会元」「統天」「開禧」「会天」「成天」と続き、徳祐丙子(1276年)に至るまでまた150年で8度改暦した。もし暦法を立てたとき初めから天道に脗合していれば千年経っても冬至の日を座して知ることができるはずで、幾度も法を改めて幸いに合うことを求める必要はなかったはずである。おそらくその責を任じる者があったのであろう。
- とはいえ天の運行を測ることはもとより至難であり、古今共通の悩みである。天運の左右への日行は既に分かれており必ず誤差が生じる。79年で1度ずれるとされ、古に比べればやや精密だがそれでもおおよそに過ぎない。まして黄道・赤道の度には斜正・広狭の差があり、日月の運行にも盈縮・胐朒・表裏の異なりがある。北極を測るには概ね千里で3度余りの差が生じ、晷景もこれに準ずる。古今の測験は岳台に限られていたが、岳台が必ずしも天地の中心とは限らない。杭州は東南に2千余里離れており、華夏の版図は東西1万里に及ぶため、発斂(節気)の晷刻もすべてを整えることはできない。また暦を造る者が暦元を遠く古に遡って求めるため、二帝が授時斉政の法を尽くしたかどうかも儒者が討論すべき大きな課題である。
- 儀象推測の器具もまた度々改められ、熙寧年間の沈括の議論や宣和年間の璣衡の制はその詳密精緻さが淳風・李淳風や令瓉の表よりも優れていたともいい、人材が乏しかったわけではない。今その遺法は方策にすべて残るが、奉元・会天の二法だけは伝わらない。旧史では乾元・儀天を応天に付す形をとり、今も乾道・淳熙・会元を統元に、開禧・成天を統天に付す。数値は異なっても術理は同じで、増損を重ねて乾象に合わせようとしたものであり、大きな差はないため、その法を備え記し後の考究に資する。
律呂・度量衡の沿革(備数・和声・審度・嘉量・権衡)
- 昔、黄帝は律呂を作って陰陽の声を調え天地の気を候った。堯は暦象を欽若して人に時を授け歳功を成し、三才の道を綜べ万物の情を極めてその政化を成した。司馬遷・班固はその要旨を記し簡策に著した。漢から隋にかけて代々これを祖述し詳しくなったが、唐の貞観から周の顕徳・五代の隆替に至る300余年間は博達の士がやや緝めたものの律志は欠けていた。宋の初め天下を統一し能士がみな挙用され、国経・王制がことごとく古道に復した。漢志には「備数」「和声」「審度」「嘉量」「権衡」の目があり、後代もこれに因ったので、今もこの順序で篇に記す。
- 【備数】周礼の保氏は国子に六芸を教え、その第六を九数といい、方田・粟米・差分・少広・商功・均輸・方程・盈朒・旁要をもって九章とした。その後さらに海島・孫子・五曹・張丘建・夏侯陽・周髀・綴術・緝古等の法が相因って起こり、歴代伝習してこれを小学と呼んだ。唐の試右千牛衛胄曹参軍・陳従運は『得一算経』を著し、その術は折を因って成し損益の道を取り変通させた。また徐仁美は『増成玄一法』を作り93問を設けて新術を立て、大は天地を測り細は微妙を極め、粗くはあるが時に適用された。古は官を太史に属させ、漢魏の世もみな史官に属したが、隋で初めて国庠に算学博士を置き、唐でその員を増やし、宋もこれに因って改めなかった。
- 【和声】周礼の典同は六律六同の和を掌り、およそ楽器を作るには十二律をその数度とした。古の聖人は律を推して器を制し、器によって声を宣べ、声を和して音を成し、音を比べて楽とした。律呂の用こそ楽の本である。その相生損益の数は極めて精微で、聡明博達な者でなければ詳究しがたく、歴代その法は存廃を繰り返した。周の顕徳中、王朴が初めて周の法により秬黍で尺度を校正し、長さ9寸、虚径3分を黄鐘の管とし律凖を作りその声を宣べた。宋の乾徳中、太祖は雅楽の声が高すぎるとして有司に重ねて考正させた。時の判太常寺・和峴は「古の聖人は法を設けるにまず尺寸を立て律呂を三分損益し上下相生させ真音に合わせることを『形器』というが、尺寸の長短は書で伝えられるものではないため秬黍を累ねて凖的とした。後代これを試みても符合しないことがある。西京の銅望臬は古法に校しうるもので、今の司天台の影表銅臬下の石尺がこれである。王朴の定めた尺をこの石尺に比べると4分短く、声楽の音が高いのはこれによる」と述べた。また影表が天地に照らして測るものであれば管律もこれに準じうるとして、古法により新尺と黄鐘9寸の管を造らせ、工人にその声を校べさせたところ、果たして王朴の定めた管より一律低かった。さらに上党羊頭山の秬黍を出して尺を累ねて律を校べても符合したため、尚書省に下して衆議を集めさせるとみな一致し、十二律管を改鋳した。これにより雅音が和暢するようになった。
- 【審度】黄鐘の律から起こり、秬黍の中庸なものを度り、90黍を黄鐘の長さとして分・寸・尺・丈・引の制が生じる。宋は四方を平定すると、新たに帰属した邦にはみな度量をその境に頒布し、偽俗の尺度が法制を超えるものは廃した。乾徳中にはさらに民間で私造することを禁じ、これにより尺度の制は古に復した。
- 【嘉量】周礼の[桌+(ㄇ人人)]氏は量を作った。漢志には「物に多少があり量で受ける。もとは黄鐘の管に起こり秬黍1200粒を容れることに由来し、龠・合・升・斗・斛の五量の法が備わる」とある。太祖は禅を受けると有司に詔して古式を精しく考えさせ嘉量を作って天下に頒布した。その後、西蜀を平定し嶺南を平らげ江表を復し、呉越・泉州が納土し、并・汾が帰命すると、四方の斗斛で式に合わないものはみな廃止し、嘉量の器はことごとく升平の制に復した。
- 【権衡】物を平らかにし民を一にして軽重を知るためのものであり、権には銖・両・斤・鈞・石の5種がある。建隆元年(960年)八月、有司に詔して前代の旧式によって新しい権衡を作り天下に頒布させ、私造を禁じた。荊湖を平定した際もその境に量衡を頒布した。淳化三年(992年)三月三日の詔には「書に『時月を協せ日を正し、律度量衡を同じくする』とあるのは国経を建て民の極を立てる所以である。国家が万邦を治め九賦を均しくするには、出納を司る有司が権衡の定式を守らねばならない。聞くところによれば秬黍の制に毫釐の差があり錘鈞が姦害をなし黎庶に及んでいるという。詳定して称法を著し通規とせよ」とあった。事は有司に下され、内蔵庫を監する崇儀使・劉承珪が「太府寺の旧銅式は1銭から10斤まで凡そ51種あるが軽重の凖がなく、外府が毎年受け取る黄金は必ず毫釐から計算するため式が銭から始まると重さの点で不都合が生じる」と述べ、本末を尋究して別に法物を制した。景徳中に至り承珪がさらに参定を重ね権衡の制はいっそう精備となった。その法は漢志の子穀秬黍を則とし、10黍の広さを1寸とし大楽の尺に従い(秬黍とは黒黍であり、楽尺は黄鐘の管から生じ、秬黍の中庸のものを分寸軽重の制とする)、二術を成した(二術とは尺と黍とをもって氂・絫を求めることをいう)。度尺(丈尺の総称)を因って氂を求め(樂尺の源は黍に起こり寸を成し、寸を析いて分、分を析いて氂、氂を析いて毫、毫を析いて絲、絲を析いて忽とし、10忽を絲、10絲を毫、10毫を氂、10氂を分とする)、積黍によって絫を取る(10黍を絫、10絫を銖、24銖を両とし、錘はみな銅で作る)。氂・絫によって1銭半及び1両などの二称を造り、それぞれ3毫を懸けて星をもって凖ずる。1銭半を等とするものは1称の法を取るためで、その衡は樂尺1尺2寸に合わせ重さ1銭、錘の重さ6分、盤の重さ5分とし、初毫の星凖は半銭、稍に至り総計1銭半、これを析いて15分とし分ごとに10氂を列す(第1毫の下の等は半銭に当たり50氂、もし15斤称なら5斤に等しい)。中毫は稍に至り1銭、析いて10分とし分ごとに10氂を列す。末毫は稍に至り半銭、析いて5分とし分ごとに10氂を列す。1両を等とするものもまた1称の法であり、その衡は樂分尺1尺4寸に合わせ重さ1銭半、錘の重さ6銭、盤の重さ4銭とし、初毫は稍に至り24銖を布き下に別に1星を出し5絫を等とし(毎銖の下にまた1星を出し5絫を等とすれば48星は240絫に等しく2400絫を10両とする)、中毫は稍に至り5銭、12銖を布き5星を列し星ごとに2絫を等とし(12銖を布いて5銭の数とすれば1銖は10絫に等しく都計120絫を両に等しくする)、末毫は半ば稍に至り6銖、銖ごとに10星を列し星ごとに絫を等とし(星ごとに1絫を等とすれば都計60絫は2銭半に等しい)、御書の真・草・行の三体淳化銭を用いて2銖4絫を1銭とすることを較べ定め、2400絫で15斤を得ることを1称の則とした。その法はまず積黍を凖として、その後に分をもって忽を推し数を定める端とする。忽・絲・毫・氂・黍・絫・銖のそれぞれに1銭の則を定める(みな1銭の則を定めた後に称を制するの意)。忽は万をもって分とし(1万忽を1分の則とし10万忽を1銭の則とする。忽とは糸を吐くほどの意で分とは微かに始まり著れることをいう)、絲は千をもって分とし(1千絲を1分とし1万絲を1銭の則とする)、毫は百をもって分とし(100毫を1分とし1000毫を1銭の則とする。毫とは毛のことで忽・絲・毫の三者はみな驥の尾を断って作る)、氂は10をもって分とし(10氂を1分とし100氂を1銭の則とする。氂とは氂牛の尾毛で赤金を曳いて絲となす)、10倍ずつ転じて1銭となる(1万忽から10万忽に至る類を則と定めることをいう)。黍は2400枚をもって1両とし(1龠に1200黍を容れて12銖とすれば2400黍を1両の則とする。両とは2龠をもって両とする意)、絫は240をもって(240絫を1両の則とする意)、銖は24をもって(絫を転じて銖となすには240絫を24銖と定め1両の則とする。銖とは殊異の意)その称を成す。称は黍数に合わせれば1銭半は360黍の重さに相当し、これを5分に列すれば毎分24黍、さらに毎分を10氂に析けば毎氂は2黍と10分黍の4に相当し(10氂に24黍を分ければ毎氂はまず2黍を得て都計40分となり1氂はまた4分を得るので毎氂は2黍と10分黍の4となる)、毎4毫1絲6忽の差をもって1黍とすれば氂・絫の数は極まる。1両は24銖を合わせて2400黍の重さとなり、毎100黍を銖、10黍を絫、2銖4絫を1銭、2絫4黍を1分とし、1絫2黍の重さは5氂、6黍の重さは2氂5毫、3黍の重さは1釐2毫5絲となり、黍・絫の数が成る。その則は銅を用いて文を鏤りその軽重を識す。新法が成ると詔して新式を禁中に留め、太府の旧称40・旧式60を取り新式と校べさせたところ、旧式のいわゆる1斤で軽いものが10、5斤で重いものが1あった。式がこの通りであれば権衡の実態も知られよう。また大称100斤のようなものを用いる際は鈞を架に懸け鐶を衡に植えていたが、鐶が偃くこともあれば手で抑按することもあり、軽重の際が甚だしく懸絶していた。ここに至り新式を鋳造し直し、すべて黍・絫によって斤・石を斉一させ増損できないようにした。また大称を用いるときは必ず糸縄を懸け、物を置いたら退いて視るようにし抑按できないようにした。さらに銅式を鋳造し御書の淳化三体銭2400、新式33、銅牌20を太府に授け、また新式を内府・外府に置き四方に頒布し、大都には凡そ11副とした。先には守蔵吏が天下の毎年の貢の金帛を受け取る際、太府の権衡の旧式が凖を失い、これによって姦をなす者があり、諸道の主者が逋負に坐して破産する者が甚だ多かった。また守蔵の更代の際の校計は争訟が起こり数年を要することもあった。ここに至り新制が定まると奸弊が指すところなく、中外はこれを便とした(度量権衡はみな太府がこれを掌造し内外の官司及び民間の用に給する。改元のたびに法を変え年号を印して識す。その印面には方印・長印・八角印があり、制度を明らかにし偽濫を防ぐためである)。
応天暦への改暦の経緯
- 宋の初めは周の顕徳の欽天暦を用いていたが、建隆二年(961年)五月、その暦の推験がやや粗いとして司天少監の王処訥らに別の暦法を作らせ、建隆四年(963年)四月に新法が成り「応天暦」と名付けられた。太平興国年間、応天暦の気候が漸くずれているとの上言があり、処訥らに重ねて詳定させ、太平興国六年(981年)に表を上げて新暦を献じたが、詔してこれを本監に付し官を集めて詳定させたところ、たまたま冬官正の呉昭素・徐瑩・董昭吉らがそれぞれ新暦を献じたため、処訥の上げた暦は行われなくなった。詔して昭素・瑩・昭吉が献じた新暦を内臣の沈元応に本監の官属・学生を集めさせて参校測験し、その疎密を考えさせた。秋官正の史端らは「昭吉の暦は差があり、昭素・瑩の二暦は建隆癸亥(963年)以来24年の気朔で験すると頗る切凖である」と言い、さらに二暦を対験すると昭素の暦のみ気朔がやや均しく施行しうるとされた。また詔して衛尉少卿の元象宗に元応らと再び明暦の術を集めさせ、呉昭素・劉内真・苗守信・徐瑩・王熙元・董昭吉・魏序及び本監の官属・史端らに精しく詳定させたところ、象宗らは「昭素の暦法は考験して差がなく永く施行しうる」と述べ、「乾元暦」の号を賜り、応天・乾元の二暦にはともに御製の序があった。真宗が位を嗣ぐと判官司天監の史序らに前法を考験し旧文を研覈させ枢要を取って新暦に編ませ、咸平四年(1001年)三月に暦が成って上げられ「儀天暦」の号を賜った。天道の運行にはみな常度があり、暦象の術は古今に共通するが、法を変じて天に従い時に随って数を推すため、法に疎密があり数に繁簡がある。条例はやや異なるが綱目は一つである。今、三暦を参照考校し、応天を本として乾元・儀天をこれに附し注する。法が同じものは重ねて出さず、異なるものを後に備え列す。
建隆応天暦の術文(歩気朔)
- 演紀上元は木星の甲子から建隆三年壬戌(962年)の歳まで積4,825,558(乾元は上元甲子から太平興国六年辛巳〈981年〉まで積30,543,977、儀天は上元土星甲子から咸平四年辛丑〈1001年〉まで積716,497)。
- 歩気朔の元法は12(乾元の元率は940、儀天の宗法は10,100。あわせて日法という)。
- 歳盈は269,365(乾元の歳周は214,764、儀天の歳周は368,897。儀天には周天365度余り2,470、約余2,445、歳余52,970、余2,470とする法がある。応天・乾元にはこの法はなく、以後もこれに倣う)。
- 月率は59,073(乾元はこの法を置かず、儀天の合率は298,259。また儀天には歳閏19,862、月閏9,115秒6という法がある)。
- 会日は29、小余5,307(乾元の朔策は29、小余1,560、儀天の会日は29、小余5,357)。
- 弦策は7、小余3,827秒6(乾元の小余は1,125、儀天の小余は3,864秒27。策はみな同じ)。
- 望策は14、小余7,654秒12(乾元の小余は2,257、儀天の小余は7,227秒18。策はみな同じ)。
- 気策は15、小余2,185秒24(乾元の小余は642半、儀天の小余は3,207秒3。策はみな同じ。また儀天には気盈4,414秒6という法がある)。
- 朔虚分は4,695(乾元は1,380、儀天は4,741)。
- 没限は7,816秒9(乾元は2,297半、儀天は7,892。また儀天には紀実60万6千という法がある)。
- 秒法は24(乾元は100、儀天の秒母は36)。
- 紀法は60(二暦とも同じ)。
- 求元積の法:求める年に歳盈を展じて元積とする。
- 求天正十一月朔の盈日及び分と冬至の大小余:元積を841,168で去り、余りを半分にして位を進め元法で収めて盈日とし、満たない分を小余とする。日は満60で去り、去りきれない分を甲子から数えて冬至の日辰の大小余とする(乾元は歳周に積年を乗じて歳積分とし70,560で去り、余りを5倍し元率で満たして収め日とし、満たない分を余とする。儀天は歳周に積年を乗じ一位進めて歳積分とし宗法で割って積日とし、満たない分を余とする。命位の法は応天と同じ)。
- 求次気の法:天正冬至の大小余に諸常数を順次加え、満60で去り、去りきれない分を前と同様に命じれば諸気の日辰の大小余・秒が得られる(乾元は中気の大小余に気策を加え次気の日辰を得る。儀天は冬至の大小余に気及び余秒を加え秒が秒母に満てば小余に従わせ、満紀法で去り、みな前と同様に命じて次気の常日辰及び余秒を得る)。
- 求天正十一月朔中日(乾元・儀天ではこれを経朔・正合朔という)の法:月率で元積を去り、去りきれない分を天正十一月の通余とする。通余を736,635から減じ、余りを半分にして位を進め元法で収めて日とし、満たない分を分とすれば天正十一月朔中日及び余秒が得られる。
- 求次朔望中日の法:朔中日に弦策の余秒を順次加えれば弦望及び次朔の中日が得られる。
- 求望中月の法:朔中月に半交を加え、交正に満てば去り、余りを望中月とする(二暦にはこの法はない)。
- 求朔弦望入気の法:朔望の中日をそれぞれ盈縮の凖により去り、去りきれない分を入気日及び分とする(二暦にはこの法はない)。
- 推没日の法:没のある気の小余(小余が7,816秒9以上のものについて求める)を元法から返し減じ、余りに8を乗じ1,092秒19半で除した余りを没日とする。気初から起算し没日辰を得る。
- 推滅日の法:冬至の大小余を朔日中に順次加えて上位とし、分があれば下位とする。4,695以下のものを滅の分とする。滅の分を進位し1,565で除して滅日とし、上位に加え甲子から数えて月内の滅日を得る。
- 求発斂:候策は5、小余728秒2母24(乾元の候数は5、小余154秒12、秒母72。儀天の候率は5、小余735秒25、秒母36)。卦策は6、小余874秒6(乾元の卦位は6、小余257、秒母60。儀天の卦率は6、小余883秒20)。土王策は12、小余1,748秒12(乾元の策は3、小余188半、秒母110。儀天の土王率は3、小余440秒5、秒母同上)。辰数は822半(乾元の辰法は245、辰率は1,520)。刻法は100(乾元は147、儀天は300)。
- 求七十二候の法:諸気の大小余・秒によって初候日を定め、候策を順次加えて次候・末候の日を得る(二暦とも同法)。
- 求六十四卦の法:諸中気の大小余・秒によって公卦用事日を定め、卦策を順次加えて次卦・終卦の用事日を得る。十二節の初はみな諸侯外卦の用事日である(二暦とも同法)。
- 求五行用事の法:四立(立春・立夏・立秋・立冬)の大小余・秒によって春木・夏火・秋金・冬水の首の用事日を定め、土王策を四季の節の大小余・秒に加え、甲子から数えてその月の土王用事日を得る(乾元は土王策を四季中気の大小余から減じ、儀天は土王率を四季大小余に加える)。
- 求二十四気の加時辰刻の法:小余を辰数で除して時数とし、満たない分を100で収めて刻分とし、子正から起算して所在の時刻を得る(乾元の時数は同じで残余を5倍し刻法で除して刻分とする。儀天は小余を3倍し辰率で除して時数とし、残余は刻率で除して刻・分とする)。
応天暦の術文(歩日躔)
- 天総は730,658秒64(乾元の軌率は214,077秒7,510、小分70、儀天の乾元数は3,689,088秒99)。
- 天度は365、小余2,563微88(乾元の周天は365度、小余2,563。儀天の周天は365度、小余2,588秒99。応天の諸法はみな天総数の中に含まれるが、乾元・儀天はそれぞれ独自の法を立てる。乾元の周天策は1,073,853秒7,553半、会周は17,364、会余は214,764、天中は182、6,281半。儀天の歳差は118秒99、一象度は91、余3,142秒50、盈初縮末限の分は897,699秒50、限日88、余8,899秒50、縮初盈末限の分は946,785秒15、限日93、余7,485秒50、盈縮積は24,543、進退率は1,836、秒母は100)。
- 常気盈縮凖・常数・定日・損益凖・先後積の表(数値は原本に立成表として掲げられ、割注に「後略」とある部分あり)。
- 乾元二十四気日躔陰陽度:陰陽分・陰陽度・損益率・陰陽差の立成表(応天・乾元二暦は常気によって二十四気の陰陽差を求める立成があるが、儀天は盈縮定分・四限から直接二十四気の陰陽差を求めるため、二十四気差の法を別に制していない)。
- 求日躔損益盈縮度(乾元は毎日陰陽差、儀天は入盈縮分先後定数という)の法:定日及び分を冬至の常数と互いに減じ、100倍して分とし、雨水後は16、霜降後は15を法として分を除し気中率とする。二率を互いに減じて合差とし、半分にして初率・末率の加減とする(前が多ければ減じて初、加えて末とし、前が少なければ加えて初、減じて末とする)。また合差を法で除して日差とし(後が少なければ初率を日々減じ、後が多ければ初率を日々益す)、毎日の日躔損益率とし、その数を累積して盈縮度分を得る。
- 求日躔先後定数(乾元は入気を求め弦望気入を求め日躔陰陽差を求めるという)の法:朔弦望の入気日及び本気の定日・分秒を減じ通分し、損益率を展じて元法で分とし、損減益加して次気下の先後積を定数とする。
赤道宿度・黄道宿度
- 赤道宿度:斗26、牛8、女12、虚10(及び分)、危17、室16、壁9(二暦同じ)。北方七宿は98度、虚分2,563秒19(乾元は7,535秒25、儀天は2,588秒99)。奎16、婁12、胃14、昴11、畢17、觜1、参10。西方七宿は81度(二暦同じ)。井33、鬼3、柳15、星7、張18、翼18、軫17。南方七宿は111度(二暦同じ)。角12、亢9、氐15、房5、心5、尾18、箕11。東方七宿は75度(二暦同じ。儀天によれば「これらの赤道度は古来天儀により測定し常凖として用いてきたもので、赤道とは天中の紘帯であり、儀極によって黄道を格すもの」という)。
- 求赤道変黄道度の法:二至の赤道日躔宿次の前後5度を限とし、初限12、限ごとに半減し9限で減じ尽くして距二立の宿から1度弱を減じる。以後は逆に限ごとに半増し9限で終わり、十二の距二分の宿に至れば、限度をすべて乗じ身外に1を除き、余りが100に満てば度分とし「黄赤道差」と呼ぶ。二至前後各9限は羨をもって減とし、二分前後各9限は差をもって加とし、それぞれ赤道度に加減して黄道度とする(乾元の初率は9、限ごとに1減じ、末率は1。儀天の初数は107、限ごとに10減じ、末率は27。その他の限数の加減はみな応天と同じ)。
- 黄道宿度:斗23度半、牛7度半(二暦同じ)、女11度太(二暦とも11度半)、虚10度小強(2,563秒19。乾元は分なし、儀天は63分99秒)、危17度少(乾元同じ、儀天17度太)、室16度太、壁10度(乾元9度太、儀天同じ)。北方七宿は97度2,563秒19(乾元96度半、儀天97度半63秒99)。奎17度半(二暦同じ)、婁12度太(乾元13度、儀天同じ)、胃14度少(二暦とも14度太)、昴11度(二暦同じ)、畢16度半(乾元同じ、儀天16度少)、觜1度、参9度少(二暦とも同じ)。西方七宿は82度少(乾元83度、儀天82度半)。井30度、鬼2度太(二暦とも同じ)、柳14度半(乾元・儀天14度少)、星7度(乾元・儀天とも6度太)、張18度少(乾元同じ、儀天18度太)、翼19度少(乾元19度、儀天同じ)、軫18度太(二暦同じ)。南方七宿は110度半(乾元109度太、儀天同じ)。角13度、亢9度半(二暦とも同じ)、氐12度少(乾元・儀天とも15度半)、房5度(二暦同じ)、心5度(乾元同じ、儀天4度太)、尾17度少(乾元同じ、儀天17度)、箕10度(乾元10度太、儀天10度)。東方七宿は75度少(乾元76度、儀天74度太)。
- 求赤道日度(儀天は「推日度」という)の法:天総で元積を除して総数とし、去りきれない分を半分にして位を進め、また100倍して総数に従わせ元法で収めて度とし、満たない分を秒とし、赤道虚宿4度分から起算する(乾元は軌率で歳積分を去り、余りを5倍し軌率に満てば度とし、満たなければ退いて分とする。儀天は乾数で歳積分を去り宗法で収めて度とし虚宿2度から起算する。また一象度及び余秒を順次加え赤道宿度に満てば去り、四正の初日加時赤道日度を得る)。
- 求黄道日度の法:冬至の赤道日躔宿度に所入の限数を乗じ、得られた数を身外に1を除き100に満てば度とし、満たない分を用いて赤道日度から減じ、冬至加時黄道日度及び分を得る(乾元・儀天も同様の法。乾元は84をもって、儀天は101で除して度とする以外は応天と同じ)。
- 求朔望常日月(乾元は「黄道平朔日度を求める」という)の法:朔望日躔の先後定数を位を進め倍にし、身外に除き元法で収めて度分とし、先には加え後には減じて朔望中日月に加え朔望常日月度分とし、冬至黄道の宿に命じて加えれば朔望常日月の所在が得られる。
- 毎日加時黄道日度(乾元は「毎日行分」という)の法:定朔望日の所在の差を距後日数で除して平行分とし、二つの行分の差を合差とし、半分にして平行分に加減し初行分とする(後の平行が多ければ減じて初、少なければ加えて初とする)。距後日数で合差を除して日差とし(後が少なければ損じ、後が多ければ益す)毎日行分とし、朔望日に累加すれば求める値が得られる(乾元は儀天と同じくこの法を立てないが、儀天には別に「次正定日加時黄道日度を求める」法などがあり、歳差を用いて限数を乗じ一位進めて求める複雑な計算が付記されている)。