宋史卷六十六 五行志第十九 金

総説

  • 従革は金の性質である。金がその性質を失うと変異となる。旧説では、僭越の咎めによる久しい日照り(恒陽)、『詩』に見える妖言(詩妖)、毛虫(獣類)の怪異、白眚・白祥の類がこれに属するとされ、いまもこれに従う。

金属・宝物の出現

  • 建隆二年(961年)七月、晋州神山県の北の谷中で鉄が水とともに流れ出た。方2丈3尺、重さ7000斤。
  • 太平興国四年(979年)九月、夾江県の民・王誼が黒石2つを得た。ともに丹の文字があり、一つには「君王万歳」、もう一つには「趙二十一帝」とあり、口を封じて献上した。
  • 至道二年(996年)二月、桂陽監で銀が自然に湧き出て山峰の形になった。
  • 咸平四年(1001年)十二月、亳州の太清宮の鐘が自ら鳴った。
  • 乾興元年(1022年)四月甲戌、山陵修奉の総管が奏上、皇堂の隧道を穿つと銅鍋が出て両耳があり、また寝宮の三門下から銅盂1、鉄甕1、鉄甲葉3が出た。
  • 天聖元年(1023年)三月庚辰、涪陵県の相思寺で夜光があり、阿育王塔の旧址を発掘すると金銅像327体を得た。
  • 天聖五年(1027年)七月壬寅、遼山県の旧河陵の地が崩れ、塔から古銭146,543文を得た。
  • 明道元年(1032年)五月壬午、漢州の江岸で古鐘1つを得た。
  • 慶暦四年(1044年)五月乙亥、金谿県で生金の塊、重さ324両を得た。
  • 皇祐四年(1052年)、乾寧軍の漁師が小鐘2つを河のほとりで得た。皇祐五年(1053年)二月己亥、乾寧軍がまた古鐘1つを進上した。
  • 至和二年(1055年)四月甲午、瀏陽県で古鐘1つを得た。
  • 熙寧元年(1068年)から元豊元年(1078年)にかけて、横州で古銅鼓17個を得た。
  • 元豊三年(1080年)八月、岳州永慶寺で銅鐘1、銅磬2を得た。元豊六年(1083年)、南渓県で土を掘り銅銭5万4千余りを得た。元豊七年(1084年)三月、筠州で古銅鐘1つ、十一月、賓州で古銅鼓1つを得た。元豊八年(1085年)、昌元県の塩井で銅鍋9、銅盆1、銅盤1を得た。
  • 崇寧五年(1106年)十月、荊南で古銅鼎を得た。
  • 政和二年(1112年)、晋州で玄圭が出土した。一石は緑色で方3尺余り、中央に「堯天正」の文字があり、掌ほどの大きさで端正な楷書のようであった。「堯」字が右、「天正」の字は左に続いていた。都堂で確認すると石を三分して字画がますます明瞭になり、「堯」字の下にはうっすらと「瑞」字も現れ、位置が整った。「天正堯瑞」と呼ばれ、あるいは晋陽は堯の都であるから玄圭が出てこの瑞があったのだという。政和四年(1114年)、開封周辺の府畿・汝・蔡の間の連山の大小の石がみな瑪瑙に変わり、尚方がこれを取って宝帯や器玩とし、たいへん豊富であった。
  • 政和五年(1115年)正月、湖南提挙常平の劉欽が、蘆荻の中から生金が出て重さ9斤8両、霊芝や祥雲のような形をしていたと言上した。さらに淘って砕金407両余りを得た。十一月、越州の民が生金を拾い、湟州丁羊谷の金坑ではわずか千余の穴から鉱を得て成金は4等、合計134両余りであった。
  • 重和元年(1118年)十二月、孝感県の楚令尹子文廟で周の鼎6つを得た。
  • 宣和四年(1122年)以後、御府所蔵の品々がしばしば変じて石となり、色は白骨のようになった。これは周の宝圭の占いとほぼ同じである。宣和五年(1123年)、栄陽県賈谷山の麒麟谷で採石し明堂を修めた際に一石を得て、そこに「明百官表賀」の文字があった。同年四月、また甗鼎3つを得た。
  • 崇寧四年(1105年)三月、九鼎を鋳造し金を多く用いた。九州の水土を鼎の中に納め、九成宮に安置して天子が巡幸し礼を行ったが、北方の宝鼎が水を漏らしてあふれた。劉炳は誤って「正北は燕山にあるはずだが、宝鼎はただ雄州の境で水土を取っただけで用いるべきでない」と言い、その後ついに北方に乱が起きた。
  • 建炎元年(1127年)、南京留守の朱勝非が夜、城の防備中に南門外に火光が地を照らすのを見て掘らせると「朱勝私印」と刻んだ銅印を得た。火は金を鑠かすもので金の畏れるものである。後に勝非は宰相に拝命したが、明受の変に連座して貶謫された。建炎三年(1129年)、吉州で城を修める役夫が髑髏を得て水中に棄てると、たちまち鐘が一つ浮かんだ。銘は56字で、おおよそ「唐の興元年、わが子は没してここ廬陵の西塁に葬られた。その後、火徳・五九の際、世が衰え道が敗れ、浙と梁が相継いで喪乱し、章貢・康昌の日、わが身もまたこの邦に再び出る」と述べ、東平が工を集めて再びわが子を河伯に同じくさせ命を水官に聴かせるという意で、郡守がその辞を記録させたところ、記録が終わると鐘は自ずから砕けた。

讖謡・詩妖

  • 紹興二年(1132年)、李綱が長沙の帥として建寧を通過した際、僧の宋本が邑の治所の壁に「東燒西燒日月七七後」と題した。数日後、江西の盗賊・李仁がその境に入り邑を焼いたのは七月七日のことであった。
  • 淳熙年間、淮西で「汪秀才」という曲が競って歌われ、「驢に騎り江を渡るも渡り得ず」と舞をもって和した。後に舒城の狂生・汪格が謀反を企て、州の兵がその家に入り縛ろうとすると子が拒んで殺し、悪少数千を集めて乱を起こし、江を渡ると声言した。事が治まると格もまた誅に伏した。
  • 淳熙七年(1180年)正月、余杭門外の墻壁に詩が現れ、その言葉はやや怪異に渉った。後に廉察により作者の名が判明し、杖刑に処し放逐した。城北廂の主管・劉君暨は察知を怠った罪で秩を削られた。その詩の文言は記録されていない。
  • 淳熙十四年(1187年)、都城の市井で「汝も我が家に来ず、我も汝が家に来ず」との歌が流行り、紹熙二・三年(1191・1192年)に至りこの事が両宮(太上皇と皇帝)の間に的中した。
  • 紹定三年(1230年)、都城の市井で作られた歌詞の末句がみな「東君去りて後、花に主なし」であった。朝廷はこれを憎んで禁じたが、間もなく太子・詢が薨じた。
  • 慶元四年(1198年)三月甲辰、御前に詩を記した郵筒が置かれ、宰臣に詔してその詩を調べさせたが、文言は記録されていない。
  • 嘉泰四年(1204年)、越の人々が「鉄弾子」の歌を白塔湖の曲で盛んに歌った。間もなく盗賊「金十一」が「鉄弾子」を自称し、白塔湖で闘死したと誤って伝えられたが、後に諸曁県で捕らえられた。

民間の讖・訛言

  • 漢の乾祐年間、荊南の高従誨が山亭の下に池を掘った際に石の匣を得た。長さ尺余り、扃鐍は非常に固く、従誨はこれを神として左右を退け香を焚いて開けると、匣中に「これを去れば龍に遇い、すなわち歇む」との文があった。建隆年間、従誨の孫・継冲が入朝し徐州への鎮遷を命じられた(「龍」「隆」は音が近い)。
  • 太平興国年間、京師の児童が木の彫り合子の中に穴を空けて腋の下に隠し、音を鳴らして「腋底閙」と号した。後に盧多遜が流罪となり、人々はこれを讖と考えた(肘腋にあって国典を司ったことを言う)。
  • 天禧二年(1018年)五月、西京で烏帽のような物が夜、人家に飛び込み、また犬狼の姿に変じるとの訛言が広まり、人々は恐れおののき、夜ごと戸を固く閉ざし深く身を潜め、兵器を持って追い払う者もいた。六月乙巳、京師にも伝わり「人を食う」と言われ、里巷は聚族して叫び騒ぎ夜を徹した。軍営では特に激しかったが実際には何もなく、妖しげな者の仕業かと詔して厳しく捕らえさせ数輩を得て問いただしたが、皆事実ではなかった。
  • 政和七年(1117年)、神保観(俗にいう二郎神)の修築が詔され、京師の人々は日ごろよりこれを畏れ、春から夏にかけて城中の男女がこぞって土を負って献上し、通りに「某人献土」と榜を掲げた。鬼の姿を装って戸を巡り土の納付を催促する者もあり、不祥として禁絶する者もあった。後に金人の斡離不が京師を囲んだ際、金国では二郎神を自国のことと呼んだという。
  • 紹興元年(1131年)十二月、越州で連続して火災が起こり、民は「もうすぐ望(十五夜)になれば再び火事になる」と噂しあい怯えたが、枢密院が軍法をもって禁じ事は収まった。
  • 嘉定二年(1209年)六月、故循王張俊の家が火災に遭った十日後、市井で「絳衣の婦人が火の禍となって下界に落ちる」との噂が広まり都民は昼夜避け惑ったが、禁じた後は火事は起きなかった。
  • 慶元六年(1200年)十月、瓊州で「妖星が落ち、民の郭七の家に雷のような音が鳴った」との噂が流れ、通判の曾丰と瓊山県令が文書を移して騒ぎを煽ったとして、後に皆連座して罷免された。
  • 簽書枢密院事の林存は賈似道に疎まれ漳州で道死した。漳州の富民が上質な油杉の木を所蔵していたが、林氏の子弟がそれを求めても価格が高くて得られず、その木を撫でて「取っておけ、賈丞相が用いるのを待て」と言った。徳祐元年(1275年)、似道が謫死し、郡守がこの木で似道を殮した。
  • 宋の初め、陳摶に「紙銭は行われない」との説があったが、当時天下ではもっぱら銅銭が用いられこの意味は理解されなかった。その後、交子・会子が用いられるようになり、会子の価値がしだいに下がったため「使いが十八九にもなると紙銭は天に飛び上がる」との謡が生まれた。似道は「十九界」の名を嫌い「関子」と名付けたが、結局それは十九界のままであり、関子の価値もさらに低下した。これは「紙銭使い行われず」を意味する。
  • 宋は周の顕徳七年庚申(960年)に天下を得たが、図讖には「唐を過ぎ漢に及ばず、一に汴、二に杭、三に閩、四に広」とあり、また「寒は五更の頭にあり」との謡があり、「宮満は六更に及ぶ」という。漢は420余年、唐は289年であり、開慶元年(1259年)に宋の祚は唐を11年過ぎ庚申が5回巡った数に至った。徳祐二年(1276年)正月の降附に至り317年、庚申は6回目を迎え、宮漏の数のようであった。

象・虎など獣の怪異

  • 建隆三年(962年)、象が黄陂県に至り林中に隠れて民の苗稼を食い、また安・復・襄・唐州で民田を踏み荒らしたため使者を遣わして捕らえさせたが、翌年十二月南陽県で捕らえ、その歯と皮を献じた。
  • 乾徳二年(964年)五月、象が澧陽・安郷等の県に現れ、また象が江を渡り華容県に入って市街の門を通り過ぎ、さらに象が澧州澧陽県城の北に現れた。乾徳四年(966年)八月、普州で兎が禾を食った。乾徳五年(967年)、象が自ら京師に現れた。
  • 雍熙四年(987年)、犀が黔南から万州に入り、民がこれを捕殺し皮角を得た。開宝八年(975年)四月、平陸県で猛獣が人を傷つけ、使者を遣わして捕らえさせ生きたまま十頭を献じた。十月、江陵府で白昼に虎が市に入り二人を傷つけた。
  • 太平興国三年(978年)、果・閬・蓬・集の諸州で虎害が起こり、殿直の張延鈞を遣わし百獣を捕らえさせたが、間もなく七盤県で虎が人を傷つけ、延鈞はさらに虎7頭を殺して献じた。太平興国七年(982年)、虎が蕭山県に入り民の趙馴の家で8人を害した。
  • 淳化元年(990年)十月、桂州で虎が人を傷つけ、使者を遣わして捕らえさせた。至道元年(995年)六月、梁泉県で虎が人を傷つけた。至道二年(996年)九月、蘇州で虎が夜、福山砦に入り兵卒4人を食った。
  • 咸平二年(999年)十二月、黄州の長析村で虎2頭が夜闘い、一方が死んでその半ばを食われた。占いで「守臣に災いあり」とされ、翌年知州の王禹偁が卒した。咸平六年(1003年)十月乙酉、狐が皇城の東北角楼に現れ軍器庫を経て夾道に至り捕らえられた。
  • 大中祥符九年(1016年)三月、杭州の浙江のほとりで白昼虎が税場に入り、廵検の兪仁祜が戈を揮って殺した。
  • 天聖九年(1031年)五月、宿州で白兎を得た。六月、廬州で白兎を得た。明道二年(1033年)六月、唐州で白兎を得た。皇祐三年(1051年)十二月、泰州で白兎を得た。
  • 嘉祐三年(1058年)六月丁卯、交阯が異獣2頭を貢いだ。もとその国は「麒麟」と称し、牛のような姿で肉甲をまとい鼻先に角があり、生の芻を食う際には必ず杖でその角を叩いてから食わせるといい、枢密使の田況がこれを麟でないと見抜き、詔して「異獣」とのみ称させた。
  • 熙寧元年(1068年)九月、撫州で白兎を得た。十二月、嵐州で白鹿を得た。熙寧四年(1071年)九月、廬州で白兎を得た。政和五年(1115年)十二月、安化軍で白兎を得た。六月、泰州軍で白兎を得た。政和七年(1117年)二月、達州で白兎を得た。宣和元年(1119年)十月、淄州で黒兎を得た。宣和七年(1125年)秋、狐が艮岳から禁中に直入し御榻に座ったため、狐王廟を毀すよう詔した。
  • 紹興十一年(1141年)、海州が金に属し民をすべて逃散させ「江を安んじた」とされたが、翌年虎2頭が城内に入り人がこれを射殺した。虎もまた人を襲った。翌年、魏勝が州を挙げて帰順すると、またその民も逃散した。漢の龔遂は「野獣が宮室に入るのは宮室が空になる兆しであり、虎や豕はみな毛の孽である」と述べている。紹興十三年(1143年)、南康県で雷雨の中、群狐が巌穴で震死し、巌石もみな砕けた。
  • 紹興二十二年(1152年)、劉彭老の家の猫が子を数匹産み、みな長さ3尺であった。乾道七年(1171年)、潮州で野象数百頭が稼を食い、農民が田間に穽を設けると象は食えないため群れをなして行道の車馬を囲み穀を奪って食い去った。淳熙二年(1175年)、江州馬当山で群狐が人を掠めた。淳熙十年(1183年)、滁州で熊と虎が同時に樵民の家に入り、夜のうちに互いに搏ち合って死んだ。
  • 紹熙元年(1190年)三月、臨安府の民家の猫が子を1匹産み、8本足で尾が2本であった。紹熙四年(1193年)、鄂州武昌県で虎害があった。紹熙五年(1194年)八月、揚州が白兎を献じたが、侍御史の章穎が守臣・銭之望が「孽を瑞とした」と弾劾した。占いでは「国に憂いあれば白喪の祥なり」とされ、この年光宗が崩じた。
  • 慶元三年(1197年)、徳興県で群狐が民家に入った。咸淳九年(1273年)十一月辛卯の明け方、揚州の市に虎が現れ、毛色はやや黒く、都撥発官の曹安国が良家の子数十人を率いてこれを射た。制置使の李庭芝は「千日の内に大将を一人殺す」と占い、その肉を城外で臠にして厭勝を行った。
  • 紹興六年(1136年)四月、中京で大雪と雷が同時に起こり、犬数十匹が争って土河に赴いて死に、救われた者はわずか2、3匹であった。淳熙元年(1174年)六月、饒州で大雷震が起こり犬が市の旅舎で死んだ。慶元二年(1196年)、撫州で犬が人のように郡守の座に座り、間もなく郡守の林廷彦が官中で卒した。徳祐元年(1275年)五月壬申、揚州で軍民に犬を飼うことを禁じ、城中で犬数万匹を殺しその皮を官に納めさせた。

天文の白気

  • 乾徳三年(965年)七月己卯夜、西方に蒼白気が起こり長さ50尺、天船・五車を貫き井宿に亘る(占:兵動く)。乾徳六年(968年)十月己未朝、西北に蒼白気3道、長さ20尺、東に趨り散る(占:遊兵の象)。
  • 太平興国四年(979年)四月己未夜、西北に白気が北斗を圧す。雍熙四年(987年)正月癸酉夜、白気が角・亢より起こり太微垣を経て軒轅大星に至り月の傍らで散る。至道二年(996年)二月丙子夜、西方に蒼白気、長短8道、彗のようで天漢を掃き参差として文蛇のよう(占:見えた方角が兵に勝つ)。
  • 咸平四年(1001年)三月丙申、白気2条が天に亘る。咸平五年(1002年)正月、白気が虹のように日を貫き久しくして散る。七月戊戌、白気が陣のように東井を貫く。咸平六年(1003年)四月己巳、白気が東西に天を亘り、丁丑、白気が日を貫く。五月辛亥、白気が昴より出て壁で没す。六月丙子、白気が河鼓より出て左右の旗に分かれ没す。七月癸卯、白気が彗のように西南方より起こる(占:兵喪あり)。
  • 景徳元年(1004年)五月、白気が軒轅を貫き、蒼白気十余条が布のように天に亘る。景徳二年(1005年)二月丁亥、白気5道が北斗を貫く(占:大風・幸臣の憂い)。十月丙子、白気が閣道の西に出て孛のように光る(占:宮中の憂い)。景徳三年(1006年)三月、白気が月を貫く。景徳四年(1007年)三月己未、白気が東西に天を亘り、庚申、白気が南方に出て長さ2丈許り久しく散らず。四月庚午、白気が北斗を貫き長さ10丈(占:大風)、庚寅、白気が竜月のように3丈許り。
  • 大中祥符元年(1008年)正月丁丑、白気2条が東西に天を亘る。大中祥符五年(1012年)二月壬寅、白気が長さ5丈、東井より出て北斗魁・軒轅を貫く(占:兵・雷雨)。明道元年(1032年)十二月壬戌、西北に蒼白気が天を亘る。
  • 慶暦元年(1041年)八月庚辰夜、東方に白気長さ10尺許り、星宿度中にあり10日に及んで長さ丈余、天を衝き90余日で没す。慶暦二年(1042年)八月甲申、白気が北斗を貫く。慶暦三年(1043年)正月戊戌、中天に白気長さ20尺、西南に向かい日を貫く(占:辺兵の憂い)。四月癸卯、白気2条が西北隅の上中天に生じ首尾濁に至り東南に行き良久しくして散る(占:その下に兵寇あり)。八月壬子夜、白気が北斗魁を貫く。九月辛巳夜、白気長さ2丈許り巻舌・南河を貫き東北に行き少頃で散る(占:風雨の候)。
  • 皇祐四年(1052年)十一月辛酉夜、白気が北方近濁より起こり長さ5丈許り北斗を歴て久しくして散る(占:大風多し)。嘉祐元年(1056年)三月、彭城県白鶴郷の地に麫(麦粉状のもの)が生じた(占:地に麫が生じれば民は饑えんとす)。五月、鍾離県の地にも麫が生じた。
  • 治平二年(1065年)四月丙午夜、西北方に白気があり東南に漸行し首尾濁に至り角宿を貫き西北に移り久しくして散る(占:兵戦・疾疫あり)。熙寧九年(1076年)四月庚寅夜、白気長さ丈、東北方の天市垣より起こる。元祐三年(1088年)七月戊辰夜、西北に白気が天を経る(主:兵、西北二鄙を防ぐべし)。元符二年(1099年)九月戊辰夜、白気10道各長さ5尺(主:兵及び大臣の黜)。
  • 崇寧二年(1103年)五月戊子夜、蒼白気が東南方より起こり長さ3丈、尾・箕・斗を貫く(主:蛮夷の入貢、旧臣の帰来)。宣和三年(1121年)九月壬午夜、蒼白気長さ3丈、月を貫く(主:その下に乱あり)。靖康元年(1126年)十二月丙辰、白気が太微垣に出る。靖康二年(1127年)二月壬午夜、白気が虹のように南から北に亘り須臾にして西南から東北に移り天明にして没す。三月戊子、白気が斗を貫く。
  • 建炎二年(1128年)、杜充が北京留守となったとき天が紙銭を雨のように降らせ営中に厚さ1寸ほど積もり、翌日金人と城下で戦って敗れた(紙は白祥である)。建炎三年(1129年)三月、白気が日を貫く。建炎四年(1130年)五月壬子夜、北方に白気10余道、練のようであった。紹興二十六年(1156年)七月辛酉夜、天が水銀を雨のように降らせた。
  • 紹興元年(1131年)、潭州の州城の蓮花池で白玉を得て孔彦舟がこれを献じたが詔してこれを却けた(前史では玉の変を白祥に近いとする。後に彦舟は劇賊となった)。二月己巳夜、東南に白気。紹興十一年(1141年)三月庚申、金人が長安に居るとき油と酒がみな白色に変じた。紹興二十年(1150年)十一月甲午夜、西南に白気が危より出て昴に入る。十二月戊申、白気が尾より出て軫に入り天市垣を貫く。紹興三十一年(1161年)十二月辛丑、白気が帯のように東西に天を亘り斗より出て牛を歴る。
  • 隆興元年(1163年)十二月壬午夜、白気が西南方に見え危より出て昴に入る。隆興二年(1164年)正月甲寅夜、西南に白気が帯のように天を亘る。乾道元年(1165年)正月庚午、白気が西北方に見え奎より出て参に入る。三月戊辰、白気が帯のように参から角に及び東西に天を亘る。四月丁酉夜、白気が西北方に見え天市垣に入り、辛丑夜、白気が北斗に入り、乙巳夜、白気が紫微垣に入る。十月己丑夜、蒼白気が東南方に見え翼に入る。十一月丙寅、白気が帯のように女より出て昴に入り東西に天を亘る。乾道三年(1167年)十二月庚午夜、白気が帯のように東西に天を亘り女より出て昴に入る。
  • 淳熙十年(1183年)正月戊子夜、西南に白気があり天漢のように明るく南北の幅6丈許り、東西に天を亘り壁から畢に及ぶ。紹熙五年(1194年)六月壬寅夜、白気が天を亘り紫微から亢・角に至り、己酉、日入り後、白気が天を亘り頃刻して散る。慶元四年(1198年)八月庚辰、白気が天を亘る。慶元五年(1199年)二月癸酉夜、東北方に白気が帯のように角から参に至る。八月癸亥、東北方に白気が帯のように天を亘る。嘉泰四年(1204年)十一月辛未、昼に白気が数道に分かれ天を亘る。嘉熙四年(1240年)二月丙辰、白気が天を亘る。淳祐二年(1242年)二月甲寅、白気が天を亘る。景定三年(1262年)七月甲申、白気が匹布のように天を亘る。咸淳三年(1267年)、襄陽城中に白気が西より出た。

銅器・鏡の怪異

  • 紹興二年(1132年)、宣州の鉄仏像が座したまま丈余りの高さで自ら動き、前に迭り却に迭り、まるで人にお辞儀するようであった。数日後、郡に火災が発生した(金がその性質を失い変異となったもの)。七月、天が銭を雨のように降らせ、あるいは石甃の中から流れ出て、輪郭・肉好が不分明で、砕くと砂土のようであった。二月、温州の戒福寺の銅仏像の頂珠が自ら動き光彩が激射し、経日止まなかったが、数日後に火事が起こり寺が焼けた。
  • 淳熙九年(1182年)春、徳興県の民家で鏡が自ら飛舞し日光と相射した。慶元二年(1196年)正月、泰寧県の耕夫が厚さ3寸、径1尺2寸の鏡を得た。水底を照らすと日と光を争うほどであったが、熱病の者がこれに向かうと心骨に寒気を生じ、後に雷震で砕けた。