宋史卷十九 本紀第十九 徽宗一

出自と即位

  • 徽宗(諱は佶)は神宗の第11子。母は欽慈皇后陳氏。元豊5年(1082年)10月丁巳、宮中で生まれた。翌年正月、佶と名を賜り、10月鎮寧軍節度使を授かり寧国公に封ぜられた。哲宗の即位に伴い遂寧郡王に封ぜられ、紹聖3年(1096年)平江・鎮江軍節度使をもって端王に封ぜられ傅に就いた。元符5年、司空を加え昭徳・彰信軍節度に改めた。
  • 元符3年(1100年)正月己卯、哲宗が崩じた。皇太后は垂簾して哭し宰臣に「家国不幸にして大行皇帝に子なし、天下の事は早く定むべし」と謂った。章惇は声を厲まして「礼律にあっては母弟の簡王を立てるべし」と対えた。皇太后は「神宗の諸子のうち申王は長じて目疾あり、次いでは端王が立つべし」と言った。惇はまた「年をもってすれば申王が長、礼律をもってすれば同母の弟簡王が立つべし」と言った。皇太后は「みな神宗の子なり、かくのごとく分別しがたし、次を以てすれば端王が立つべし」と言った。知樞密院曾布が「惇はいまだ臣らと商議せず、皇太后の聖諭のごとくが極めて当なり」と言うと、尚書左丞蔡卞・中書門下侍郎許将が相継ぎ「聖旨に依るべし」と言った。皇太后はまた「先帝はかつて端王には福寿ありまた仁孝で諸王と同じからずと言われた」と言い、これに惇は黙然となった。
  • そこで端王を召して皇帝に即位させ、皇太后に軍国事を権同処分させた。庚辰、天下に大赦(常赦の対象外を除く)、百官は官秩を1等進め諸軍に賞し、宋淵を遣わし遼へ告哀。辛巳、先帝の后を尊んで元符皇后とした。癸未、母貴儀陳氏を皇太妃に追尊。甲申、章惇を山陵使に命じた。乙酉、先帝の遺留物を出して近臣に賜った。丙戌、申王佖を太傅とし陳王に進封し贊拝不名を賜った。丁亥、仁宗の淑妃周氏・神宗の淑妃邢氏をともに貴妃に、賢妃宋氏を徳妃に進めた。戊子、章惇を特進とし申国公に封じた。己丑、莘王俁を衛王、簡王似を蔡王、睦王偲を定王に進封しともに守司徒とした。8廂の邏卒の増加を罷めた。
  • 2月己亥、初めて聴政し、先帝の妃朱氏を尊んで聖瑞皇太妃とした。壬寅、南平王李乾徳を検校太師とした。丁未、順国夫人王氏を皇后に立てた。庚戌、向宗回・向宗良を節度使に遷し、太后の弟姪でまだ任じられていない者にはみな官を授けた。癸未、初めて紫宸殿に御した。庚申、吏部尚書韓忠彦を門下侍郎、資政殿大学士黄履を尚書右丞とした。辛酉、懿親宅(潜邸)を「竜徳宮」と名づけた。甲子、承極殿を毀った。丙寅、呉安憲・朱孝孫を遣わし遺留物を遼国主に贈らせた。
  • 3月戊辰朔、宰臣・執政・侍従官にそれぞれ台諫たり得る者を挙げさせる詔。庚午、韓治・曹譜を遣わし即位を遼へ告げた。辛未、祖宗の諸子光済ら33人を王に、女48人を公主に追封する詔。甲申、西蕃王隴拶を河西軍節度使とし「趙懐徳」の姓名を賜い、邈川首領瞎征を懐遠軍節度使とした。己丑、日食にあたり徳音を四京に降し囚罪を1等減じ流以下は釈放。庚寅、趙普の後を録した。辛卯、直言を求める詔。癸巳、寧遠軍節度観察留後世雄を崇信軍節度使とし安定郡王に封じた。乙未、永興の民王懐が進めた玉器を却けた。
  • 夏4月丁酉朔、日食があった。己亥、監司に分部して獄を決させた。甲辰、韓忠彦を尚書右僕射兼中書侍郎、礼部尚書李清臣を門下侍郎、翰林学士蒋之奇を同知樞密院事とした。乙巳、曹佾の後を録した。丁未、帝の生日を天寧節とした。己酉、長子亶が生まれた。辛亥、天下に大赦、元符2年以前の官に係わる逋負をすべて蠲免。癸丑、鹿敏求らは応詔上書により秩を遷った。乙卯、大行皇帝の諡を南郊に請うた。丁巳、范純仁らに官・宮観を復す詔。蘇軾らを内郡に徙して居住させた。癸亥、編類臣僚章疏局を罷めた。乙丑、礼部奏名進士及第出身518人に賜物。
  • 5月丁卯朔、理官の失出の罰を罷めた。丙子、廃后孟氏を元祐皇后に復する詔。乙酉、蔡卞が罷免。己丑、文彦博・王珪・司馬光・呂公著・呂大防・劉摯ら33人の官を追復する詔。辛卯、司馬光らの致仕・遺表の恩を還した。癸巳、河北・河東・陝西で飢え、帥臣に計度・振恤させる詔。6月丙申朔、遼主が蕭進忠・蕭安世らを遣わし弔祭に来た。
  • 秋7月丙寅朔、皇太后の詔を奉じ同聴政を罷めた。丁卯、哲宗「欽文睿武昭孝皇帝」の諡を天地宗廟社稷に告げた。戊辰、宝冊を福寧殿に上げた。癸酉、皇太后が政を還し天下の囚罪を1等減じ流以下は釈放。癸未、陸佃・李嗣徽を遣わし遼へ報謝した。陝西京川路の坑冶を管勾する官、および江西・広東・湖北・夔・梓・成都路の鹽事の管勾措置を罷めた。辛卯、子亶を韓国公に封じた。
  • 8月戊戌、諸路で民に疾ある者は官を委ね医を監じ往きて疾を視させ薬を給する詔。庚子、景霊西宮を作り神宗神御を奉安し、その西に哲宗神御殿を建てた。辛丑、内庫の金帛200万を出し陝西の軍儲を糴わせた。壬寅、哲宗皇帝を永泰陵に葬った。丙午、董敦逸を遣わし遼主の生辰を、呂仲甫を遣わし正旦を賀した。戊申、高麗王王熙が使を遣わし表を奉じ来慰した。庚戌、仁宗・神宗の廟は永世に不祧とする詔。戊午、蔡王似を太保とした。癸亥、哲宗の神主を太廟に祔し楽を「大成之舞」とした。
  • 9月甲子、哲宗実録を修める詔。丙寅、遼が蕭穆を遣わし即位を賀した。丁卯、両京・河陽・鄭州の囚罪を1等減じ、山陵の役に緣る民の賦を蠲免。己巳、竜徳宮に幸した。辛未、章惇が罷免。丙子、陳王佖を太尉とした。丁丑、神宗史を修める詔。己丑、均給職田を復した。
  • 冬10月乙未、夏国が入貢。丙申、蔡京は出て永興軍知事へ、章惇を武昌軍節度副使に貶めた。丁酉、韓忠彦を尚書左僕射兼門下侍郎とした。壬寅、曾布を尚書右僕射兼中書侍郎とした。乙卯、端州を興慶軍に昇格。己未、曲学偏見をもって妄りに意により改作し国事を害する者を禁じる詔。辛酉、平準務を罷めた。
  • 11月丁卯、六朝宝訓を修める詔。端州に徳音を降し囚罪を1等減じ徒以下は釈放。庚午、翌年の改元を詔した。戊寅、観文殿学士安燾を知樞密院事とした。庚辰、黄履が罷免。己丑、春秋博士を置いた。辛卯、陝西に銅鉄銭を兼行させ、礼部尚書范純礼を尚書左丞とした。12月甲午、皇太后不豫により宮観・祠廟・嶽瀆に禱った。戊戌、廩粟を出し価を減じて民を済った。辛丑、囚を慮った。甲辰、国朝会要を修める詔。戊申、諸路に徳音を降し囚罪を1等減じ流以下は釈放。戊午、遼人が正旦を賀しに来た。この年、宮女69人を出した。

建中靖国元年(1101年)

  • 春正月壬戌朔、赤気が東北から西南に亘り中に白気を含み散じようとするとまた黒□が旁にあった。癸亥、星が西南から尾に入りその光が地を燭らした。癸酉、范純仁が薨じた。甲戌、皇太后が崩じた。遺詔で皇太妃陳氏を皇太后に追尊。丁丑、大行皇太后の園陵を山陵と改め曾布を山陵使に命じた。己卯、河・陝で人を募り入粟すれば試を免じ注官する令。
  • 2月丙申、雹が降った。己亥、秦鳳路の2兵を汰した。甲辰、初めて聴政。乙巳、内庫および諸路常平銭をそれぞれ100万出し河北の辺儲に備える詔。丁巳、章惇を雷州司戸参軍に貶めた。
  • 3月甲子、初めて紫宸殿に御した。乙丑、遼使蕭恭がその主洪基の殂を告げに来たため謝文瓘・上官均らを遣わし弔祭させ、黄寔をその子延禧の立を賀させた。丁丑、河西軍節度使趙懐徳に湟州を知らせる詔。壬午、日食にあたり避殿・減膳し天下の囚罪を1等減じ流以下は釈放。
  • 夏4月辛卯朔、日食があったが見えなかった。甲午、大行皇太后に「欽聖憲粛」の諡を上げた。乙未、皇太后に「欽慈」の諡を追上した。丁酉、御殿し膳を復した。壬寅、諸路の疑獄で奏すべきで奏さない者は科罪し、奏すべきでないのに輙く奏す者は坐さないよう著して令とする詔。
  • 5月辛酉朔、大雨雹、三省に吏員を減じ冗費を節する詔。丙寅、欽聖憲粛皇后・欽慈皇后を永裕陵に葬った。庚辰、蘇頌が薨じた。丙戌、欽聖憲粛皇后・欽慈皇后の神主を太廟に祔した。戊子、両京・河陽・鄭州の囚罪を1等減じ、山陵の役に緣る民の賦を蠲免。
  • 6月庚寅朔、韓国公亶を開府儀同三司とし京兆郡王に封じた。戊申、向宗回を永陽郡王、向宗良を永嘉郡王に封じた。甲寅、呉王顥の子孝騫を広陵郡王、頵の子孝参を信都郡王に封じた。戊午、范純礼が罷免。己未、闘殺の情理軽重の格を頒布する詔。
  • 秋7月辛巳、内郡に添差の宗室闕を置いた。丙戌、安燾が罷免。丁亥、蒋之奇を知樞密院事、吏部尚書陸佃を尚書右丞、端明殿学士章楶を同知樞密院事とした。9月己巳、諸路転運提挙司および諸州軍で遺利があれば講求し冗員浮費で裁損すべきものは詳議して聞かせる詔。丙戌、子(皇太子)が薨じた。
  • 冬10月乙未、李清臣が罷免。丁酉、天寧節にあたり群臣と遼使が初めて垂拱殿で寿を上げた。11月庚申、陸佃を尚書左丞、吏部尚書温益を尚書右丞とした。壬戌、西蕃賖羅撒を西平軍節度使・邈川首領とした。辛未、御製の南郊親祀楽章を出した。戊寅、景霊宮に朝献。己卯、太廟に饗した。庚辰、天地を圜丘に祀り天下に大赦、彰信軍を興仁軍、昭徳軍を隆徳軍と改め、翌年の改元を詔した。
  • 12月壬辰、陳王佖に不名の詔書を賜った。癸卯、神宗の昭儀武氏を賢妃に進めた。丙午、神宗神御を景霊西宮大明殿に奉安。丁未、宮に詣り礼を行った。己酉、徳音を西京に降し囚罪を1等減じ徒以下は釈放。この年、遼人が遺留物を献じに来た。河東で地震があり、京畿で蝗害、江淮・両浙・湖南・福建で旱害があった。

崇寧元年(1102年)

  • 春正月丁丑、太原等11郡で地震し死者の家に銭をそれぞれ賜う詔。2月丙戌朔、聖瑞皇太妃の疾により囚を慮った。甲午、子亶が煥と改名し、蔡確を哲宗廟庭に配饗した。戊戌、道徳を懐き久しく下僚に沈んだ士および学行兼備で風俗を励ますべき者があれば、待制以上にそれぞれ知る者2人を挙げさせる詔。奉議郎趙諗が謀反し伏誅。庚子、子煥を魏国公に封じた。辛丑、聖瑞皇太妃が薨じ皇太后に追尊。庚戌、孔鯉を泗水侯、孔伋を沂水侯に追封。
  • 3月丁巳、哲宗神御を景霊西宮宝慶殿に奉安。戊午、宮に詣り礼を行った。壬戌、定王偲を太保とした。壬申、定王第に幸した。夏4月己亥、皇太后に「欽成」の諡を上げた。
  • 5月丁巳、熒惑が斗に入った。庚申、韓忠彦が罷免。己巳、瞎征が卒した。庚午、太子太保司馬光を正議大夫に、太保文彦博を太子太保に降し復し、余はそれぞれ差により官を奪った。辛未、待制以上に能吏をそれぞれ2人挙げさせる詔。乙亥、後苑内侍で箔金を用いて宮殿を飾ることを請う者を黜けた。丙子、元祐の諸臣はそれぞれ削秩をもって今後は復問せず、言者もまた輙く言わないよう詔した。戊寅、欽成皇后を永裕陵に葬った。己卯、陸佃が罷免。庚辰、許将を門下侍郎、温益を中書侍郎、翰林学士承旨蔡京を尚書左丞、吏部尚書趙挺之を尚書右丞とした。
  • 6月己丑、欽成皇后の神主を太廟に祔した。壬辰、西京・河陽・鄭州の囚罪を1等減じ、山陵の役に緣る民の賦を蠲免。癸卯、六曹尚書に事あれば独員でも上殿・奏陳を許す詔。己酉、太白が昼に見えた。壬子、渝州を恭州と改めた。癸丑、唐の六典に倣い神宗の定めた官制を修める詔。伯夷を清恵侯、叔斉を仁恵侯に封じた。
  • 閏6月甲寅朔、哲宗神御殿を「重光」と改名した。辛酉、囚を慮った。壬戌、曾布が罷免。甲子、諸路州県官で治績最も著しい者があれば監司・帥臣にそれぞれ1人挙げさせることを許す詔。壬午、李清臣を武安軍節度副使に追貶。癸未、監司・帥臣に、本路の小使臣以上および親民官のうち智謀勇果で将帥に備えるに足る者をそれぞれ1人挙げさせる詔。
  • 秋7月甲申朔、長生宮を建て熒惑を祠った。丙戌、省・台・寺・監および監司・郡守はともに3年をもって任を成す詔。戊子、蔡京を尚書右僕射兼中書侍郎とした。己丑、元祐法を焚いた。甲午、都省に講議司を置く詔。杭州・明州に市舶司を置く詔。庚子、章楶が罷免。甲辰、雨水が民の廬舎を壊したことにより開封府に圧溺死者を振恤させる詔。辛亥、春秋博士を罷めた。
  • 8月乙卯、子煥が桓と改名し楷が改名した。乙丑、権侍郎の官を罷めた。辛未、安済坊を置き民の貧病の者を養い、諸郡県にも並び置かせる詔。甲戌、天下に興学貢士させ外学を国の南に建てる詔。丙子、司馬光ら21人の子弟が京師で官することを禁じる詔。己卯、趙挺之を尚書左丞、翰林学士張商英を尚書右丞とした。
  • 9月戊子、京師に居養院を置き鰥寡孤独を処し、戸絶の財産をもって養を給する詔。乙未、中書に元符3年の臣僚章疏の姓名を籍し正上・正中・正下・邪上・邪中・邪下の3等に分ける詔。丁酉、臣僚が元祐皇后を復し元符皇后を廃謀した者の罪を治め、韓忠彦・曾布の官を降し、李清臣を雷州司戸参軍、黄履を祁州団練副使に追貶し、曾肇以下17人を竄した。己亥、元祐・元符末の宰相文彦博ら、侍従蘇軾ら、余官秦観ら、内臣張士良ら、武臣王献可ら凡そ120人を籍し御書を端礼門に刻石。
  • 庚子、元符末に上書した人鍾世羙以下41人を正等とし旌擢を加え、范柔中以下500余人を邪等とし降責をそれぞれ差した。当時世羙は既に卒していたため官を贈りその子1人に官を授ける詔。壬寅、曾布を武泰軍節度使に貶めた。甲辰、元符3年・建中靖国元年に責降された臣僚で既に牽復した者はその元の責告命をともに尚書省に繳納する詔。
  • 冬10月癸亥、蒋之奇が罷免。戊辰、責降された宮観人は同一州に居住しない詔。甲戌、御史銭遹・石豫・左膚および輔臣蔡京・許将・温益・趙挺之・張商英らの言により元祐皇后の号を罷め瑤華宮居住に復す。丙子、劉奉世ら27人は元符末の党与により変法罷祠禄の罪に坐した。戊寅、資政殿学士蔡卞を知樞密院事とした。
  • 11月乙酉、邵州が渓洞を知る徽州の楊光銜の内附を言上。戊子、婉儀鄭氏を賢妃とした。辛卯、河北の安済坊を置いた。癸巳、西南両京の宗正司および敦宗院を置いた。戊戌、顕謨閣の学士・待制官を置いた。戊申、子楷を開府儀同三司とし高密郡王に封じた。
  • 己酉、卿監郎官の3年黜陟法を立てた。12月癸丑、湟州を棄てた罪を論じ韓忠彦を崇信軍節度副使に、曾布を賀州別駕に、安燾を寧国軍節度副使に貶め、范純礼は南京分司とした。庚申、当五銭を鋳造。辛酉、哲宗の子鄧王茂を皇太子に追贈し「献愍」と諡した。丁丑、諸々の邪説詖行で先聖賢の書に非ざるものおよび元祐の学術政事はともに施用してはならぬ詔。この年、京畿・京東・河北・淮南で蝗害、江浙・熙河・漳・泉・潭・衡・郴州・興化軍で旱害、辰・沅州で猺が寇し、宮女76人を出した。

崇寧二年(1103年)

  • 春正月辛巳朔、乙酉、任伯雨・陳瓘・龔夬・鄒浩を嶺南に竄し、馬涓ら9人をそれぞれ諸州に分貶した。荊南知事舒亶が辰・沅州の猺賊を平らげ、また誠・徽州を平らげ、誠州を靖州、徽州を蒔竹県と改めた。壬辰、温益が卒した。乙巳、荊湖の疆土を復したことにより両路を曲赦した。丙午、寒さが厳しいことにより監司に分部して獄を決させた。丁未、蔡京を尚書左僕射兼門下侍郎とした。
  • 2月辛亥、安化蛮が入寇したが広西経略使程節がこれを破った。壬子、官を遣わし湖南北の猺地を相度させ材植を取って在京の営造に供させた。甲寅、元符皇后を太后に進め宮名を「崇恩」とした。辛酉、殿中監を置いた。癸酉、哲宗御容を西京会聖宮および応天院に奉安。丙子、諸路に茶場を置いた。
  • 3月壬午、仁宗の充儀張氏を賢妃に進めた。乙酉、西京の囚罪を1等減じ、党人の子弟が擅に闕下に到ることを禁じ、党人に趨附しての罷任・在外の指射差遣・得罪停替の臣僚にも同様の令。丁亥、集英殿に御して進士を策した。癸卯、礼部奏名進士及第出身538人に賜物、かつて上書して正等にあった者は甲を升げ邪等の者は黜けた。
  • 夏4月甲寅、侍従官にそれぞれ知る者2人を挙げさせる詔。乙卯、于闐が入貢。丁卯、呂公著・司馬光・呂大防・范純仁・劉摯・范百禄・梁燾・王巌叟の景霊西京の繪像を毀す詔。己巳、初めて景霊宮に謁したことにより天下に大赦。乙亥、唐鑑ならびに三蘇・秦・黄らの文集の刋行を毀す詔。戊寅、趙挺之を中書侍郎、張商英を尚書左丞、戸部尚書呉居厚を尚書右丞、兵部尚書安惇を同知樞密院事とし、王珪の贈諡を奪い、程頤の出身文字を追毀しその著書を監司に覚察させる詔。
  • 5月辛巳、賢妃鄭氏を淑妃とした。癸巳、陳王佖を太師とした。丙戌、曾布を廉州司戸参軍に貶めた。己亥、子楫を楚国公に封じた。丙午、元符皇后劉氏を太后に冊した。6月壬子、王氏を皇后に冊した。庚申、元符末に上書した進士は多く詆訕に類することにより州郡に新学に入れ太学の自訟斎法に依らせ、1年に及び革心自新に能う者は将来の応挙を許し、変わらぬ者は遠方に屏する詔。壬戌、囚を慮った。この月、中太一宮で火災があり湟州を復した。
  • 秋7月己卯、学士院で火災。辛巳、湟州を復したことにより蔡京の官を3等進め、蔡卞以下は2等進めた。壬午、白虹が日を貫いた。甲申、徳音を熙河蘭会路に降し囚罪を1等減じ流以下は釈放。庚寅、曾肇は濮州団練副使に責授。辛卯、上書した進士で三舎生を充ちる者を罷め帰す詔。丁酉、今後戚里宗属は再び執政官とならないよう令として著す詔。乙巳、責降人の子弟は在京および府界の差遣を任じられない詔。
  • 8月丁未朔、再び湟州を棄てた罪を論じ、韓忠彦を磁州団練副使、安燾を祁州団練副使、范純礼を静江軍節度副使に貶め、蒋之奇の秩を3等削った。戊申、張商英が罷免。辛酉、張商英を元祐党籍に入れる詔。
  • 9月辛巳、宗室が元祐の姦党の子孫と婚姻することを禁じる詔。庚寅、子樞を呉国公に封じ、上書邪等の人で知県以上の資序にある者はともに外祠を与え、選人は改官・県令となることを許さない詔。壬辰、医学を置いた。癸巳、天下の郡にみな崇寧寺を建てさせた。辛丑、吏部選人を承直郎から将仕郎まで7階に改め、天下の監司・長吏の庁にそれぞれ元祐姦党碑を立てさせた。甲辰、郡県に社稷の祭祀を謹ませる詔。
  • 冬11月庚辰、元祐の学術政事を聚徒し伝授する者は監司に挙察させ必ず罰し赦さない詔。12月癸亥、宣祖皇帝・昭憲皇后を祧した。丙寅、六曹の長貳に毎年郎官の治状を考させ3等に分けて聞かせる詔。この年、諸路で蝗害、纂府の蛮楊晟銅(融州)・楊晟天(邵州)・黄聡(内附)があった。

崇寧三年(1104年)

  • 春正月己卯、安化蛮が降った。辛巳、上書邪等の人は京師に至ることを許さない詔。戊子、当十大銭を鋳造。壬辰、県学の弟子員を増した。甲午、蔡京の子攸に進士出身を賜った。癸卯、太白が昼に見えた。甲辰、九鼎を鋳造。
  • 2月丙午、淑妃鄭氏を貴妃とし、元豊の役法を刋定するのが不当であったとして銭遹以下9人を黜けた。丁未、漏沢園を置いた。己酉、王珪・章惇を別に1籍とし元祐党のようにする詔。今後後殿に御しては起居郎・舎人の侍立を許す詔。壬子、楚国公楫を開府儀同三司とし南陽郡王に封じた。庚申、天下の坑冶の金銀をすべて内蔵に輸すよう令する。辛未、雹が降った。
  • 3月辛巳、文繡院を置いた。丁亥、圜土を作り強盗で死を貸された者を居らせた。甲午、欽成皇后の神主を欽慈皇后の上に躋めた。辛丑、大内で火災。夏4月乙巳、火災により徳音を四京に降し囚罪を1等減じ流以下は原した。乙卯、鄯州を復し隴右都護府を建てた。辛酉、楫を楽安郡王に徙封し廓州を復した。
  • 乙丑、講議司を罷めた。己巳、陝西を曲赦した。壬申、楫が薨じた。5月戊寅、開封権知府を罷め牧・少尹を置き、六曹を吏・戸・儀・兵・刑・工の序に改定しその員数を増し、唐の六典に倣い胥吏の称を易えた。己卯、鄯・廓を復したことにより蔡京を守司空とし嘉国公に封じた。庚辰、許将・趙挺之・呉居厚・安惇・蔡卞にそれぞれ3官を転じた。甲申、鄯州を西寧州と改めなお隴右節度とした。辛丑、守臣が金を進め宮廷の修に助けた者を黜ける詔。
  • 6月壬寅朔、熙寧・元豊の功臣を顕謨閣に図した。癸酉、王安石を孔子廟に配饗。丙午、諸州でまだ学が立たない所を増した。壬子、書画算学を置いた。占城が入貢。戊午、元祐・元符の党人および上書邪等の者を重定し合わせて1籍とし通じて309人を朝堂に刻石し、余はともに籍を出て今後は再び弾奏しないよう詔した。辛酉、太医局を復置。癸亥、囚を慮った。乙丑、内外の官が職を越えて事を論じ僥倖に奔競することを禁じ、違う者は御史台が弾奏する詔。
  • 7月癸酉、婉儀王氏を徳妃とした。庚辰、今後大礼で尊号を受けず群臣も上表しない詔。辛卯、方田法を行った。8月庚子、諸路の知州・通判に「主管学事」の4字を増入する詔。壬寅、大雨が民の廬舎を壊し死者を収瘞させる詔。甲辰、蔡京が「神宗史」を上呈。丙午、許将が罷免。
  • 9月乙亥、趙挺之を門下侍郎、呉居厚を中書侍郎、翰林学士承旨張康国を尚書左丞、刑部尚書鄧洵武を尚書右丞とした。壬辰、諸路州学に別に斎舎を置き材武の士を養う詔。冬10月辛丑朔、大雨雹。丁未、賢妃張氏が薨じた。丙辰、官に命じ六朝の勲臣を編類させた。戊午、夏人が涇原に入り平夏城を囲み鎮戎軍を寇した。庚申、熙河蘭会路経略安撫使王厚が河西軍節度使趙懐徳らが出降したと言上。己巳、9廟を立て翼祖・宣祖を復した。庚午、貴妃邢氏が薨じた。
  • 11月甲戌、太学に幸し官が論定した士16人、さらに辟雍に幸し国子司業呉絪・蒋静に4品服を賜い、学官の推恩をそれぞれ差した。丙戌、子杞を冀国公に封じた。丁亥、士を取るにはともに学校に繇り発解および省試の法・科場を罷め故事のようにする詔。癸巳、神宗の諡を「体元顕道帝徳王功英文烈武欽仁聖孝皇帝」に更め、哲宗の諡を「憲元継道顕徳定功欽文睿武齊聖昭孝皇帝」に加上した。甲午、景霊宮に朝献。乙未、太廟に饗した。丙申、昊天上帝を圜丘に祀り天下に大赦、興仁・隆徳軍を府に昇格させ彰信・昭徳の旧節を還した。
  • 12月乙巳、通遠軍を鞏州に昇格。戊午、陳王佖に入朝不趨を賜った。この年、諸路で蝗害、宮女62人を出した。広西の黎洞楊晟免らが内附した。