紹聖元年(1094年)
- 春正月癸酉朔、群臣が西上閤門に詣り名を進めて奉慰。丙申、夏人が朝貢。辛丑、中書舎人呂希純らを遣わし河を行かせ、河東の大銅銭を罷めた。2月丁未、戸部尚書李清臣を中書侍郎、兵部尚書鄧潤甫を尚書右丞とした。己酉、宣仁聖烈皇后を永厚陵に葬った。己未、神主を太廟に祔した。癸亥、両京・河陽・鄭州の囚罪を1等減じ、山陵の役に緣る民の賦を蠲免。甲子、章献明粛皇后の故事に依り高遵恵の諱を避けることを罷める詔。
- 3月壬申朔、日食があった。乙亥、呂大防が罷免。庚辰、太学の合格上舎生は推恩により省試を免じ科場に附し春榜とする詔。乙酉、集英殿に御して進士を策した。丁亥、武挙を策した。戊子、徐王顥を太師とし冀王に徙封。癸巳、京東・河北の流民を振わせ穀麦の種を貸し帰業を諭し、この年の租税を蠲免する詔。丁酉、礼部奏名進士・諸科及第出身975人に賜物。蘇轍が罷免。
- 夏4月乙巳朔、阿里骨が獅子を進めた。丙午、旱により刑を恤む詔。己酉、中外に決獄させる詔。庚戌、有司に医薬を具え京師の民の疾を治させる詔。壬子、蘇軾は以前の掌制の命語に譏訕に渉る点があったとして落職され英州知事へ。癸丑、改元(紹聖)。白虹が日を貫いた。甲寅、王安石を神宗廟庭に配饗。蔡確を右正議大夫に追復。戊午、新城の両廂を復した。庚申、四京の囚罪を1等減じ杖以下は釈放。壬戌、資政殿学士章惇を尚書左僕射兼門下侍郎とし、范純仁が罷免。丙寅、5路の経律通礼科を罷めた。丁卯、諸路に元豊の免役法を復させる詔。戊辰、同修国史蔡卞が神宗実録の重修を請うた。
- 閏4月壬申、提挙常平官を復した。癸酉、10科挙士法を罷めた。甲申、観文殿学士安燾を門下侍郎とした。丙戌、義倉を復した。丁亥、神宗の随竜人趙世長らに秩を遷しそれぞれ賜賚する詔。戊子、京の諸司が受ける伝宣中批はすべて朝廷の覆奏を待ってから行う詔。乙未、西南張蕃が人を遣わし入貢。丙申、左僕射章惇に神宗国史の修めの提挙を命じた。丁酉、徐州の兵馬都監を添差する詔。
- 5月壬寅、修官制局を罷めた。甲辰、進士の詩賦の習試を罷め専ら2経とし宏詞科を立てた。己酉、修国史曾布が王安石の日録を神宗実録に載せることを請うた。太白が昼に見えた。辛亥、劉奉世が罷免。癸丑、中外の学官で制科・進士・上舎生でない者は入官をすべて罷め、元祐の群臣の章疏および更改事条を編類する詔。甲寅、右正言張商英が、先帝は天地合祭を古に非ずと言ったと言い礼部・太常に詳議させ聞かせる詔。乙丑、鄧潤甫が卒した。丁卯、嗣濮王宗暉が薨じた。
- 6月甲戌、来之邵らが蘇軾が先朝を詆斥したと疏し恵州へ謫する詔。丙子、置制解塩使を罷めた。壬午、高密郡王宗晟を嗣濮王に封じた。癸未、翰林学士承旨曾布を同知樞密院事とした。甲申、進士が王安石の字説を引用することの禁を除いた。
- 秋7月丁巳、御史黄履・周秩・諫官張商英の言により司馬光・呂公著の贈諡を奪い、王巌叟の贈官を奪い、呂大防を秘書監、劉摯を光禄卿、蘇轍を少府監に貶めそれぞれ南京分司とし、梁燾は舒州霊仙観を提挙する詔。戊午、大臣の朋党で司馬光以下はそれぞれ軽重を議して罰し天下に布告するが余は問わず、議者もまた復言しないよう詔した。8月丙戌、輔臣を召して後苑で稼を観た。日に五色雲があった。壬辰、応制科の趙天啓は累上書が狂妄であったため黜けられた。
- 9月癸卯、御史劉拯を遣わし河北の水災を按じ飢民を振わせた。丙午、集英殿に御して賢良方正能直言極諫科を策した。庚戌、制科を罷め、広恵倉を罷めた。癸丑、監司に毎年守臣の課績優なる者を察し聞かせる詔。甲寅、広州知事唐義問は渠陽砦を棄てた罪により舒州団練副使に責授。庚申、太白が昼に見えた。丁卯、京東西・河北に流民を振恤する詔。戊辰、流星が紫微垣に出た。
- 冬10月丙申、三仏斉が使を遣わし入貢。丁酉、河北で水害。11月己亥朔、8路差官法を復した。壬子、冬温で雪がないことにより繋囚を決した。蔡確を観文殿大学士に特追復。甲寅、開封の男子呂安が乗輿を斥したため斬に当たるがこれを貸した。丁巳、河北の飢を振わせ諸路の流亡を恤み、官吏で善状・才能顕著な者は聞かせる詔。
- 12月辛未、銅銭の出外界の法を申嚴した。庚辰、諸路に雪を祈らせた。丙戌、滑州の浮橋で火災。己丑、漳河が決溢し洺・磁等州を浸したため塞ぐことを計置させる詔。甲午、范祖禹・趙彦若・黄庭堅は史事の罪により散官に責授、永州・豊州・黔州安置。この年、京師で疫病があり、洛水が溢れ、太原で地震、河北で水害があり京師の粟を発してこれを振わせた。
紹聖二年(1095年)
- 春正月甲辰、国史院に先帝御集を増補する詔。丙午、宏詞科を立てた。己未、太平興国寺の三朝御容を天章閣に遷奉。乙丑、殿前司が獄が空であることを奏し緡銭を賜う詔。
- 2月乙亥、呂大防は監修史事の罪により秩を貶められ南京分司・安州居住。辛巳、内庫の銭帛20万を出し河北の飢を振わせた。甲午、広文館の解額を罷めた。3月己亥、宗晟が薨じた。己未、宏詞を試し黄符ら5人がそれぞれ1資循った。
- 夏4月戊辰、職事官の帯職を罷め、朝請大夫以下は左右を分けず、集賢院学士を集賢殿修撰、直集賢院を直秘閣、集賢校理を秘閣校理と改める詔。壬申、華容郡王宗愈を嗣濮王に封じ、許将ら7人に資格を限らず才行で任使に堪える者2人をそれぞれ挙げさせる詔。丁亥、元豊の条に依り律学博士2員を置く詔。5月乙巳、蔡卞に国子監三学および外州州学の制を詳定させた。乙卯、皇太妃の宮名を「聖瑞」と上げた。6月壬辰、京城の土人が輿轎を用いることを禁じた。
- 秋7月丙辰、大理寺に右治獄を復置し元豊の例に依り官属を添置する詔。8月壬申、彰信軍節度使宗景を開府儀同三司とし済陰郡王に封じた。甲申、宗愈が薨じた。乙酉、趙普の後希荘を録して閤門祗候とした。
- 9月甲午、安定郡王宗綽を嗣濮王とした。壬寅、神宗神御を景霊宮顕承殿に告遷。癸卯、景霊宮に詣り奉安礼を行った。戊申、神宗に「紹天法古運徳建功英文烈武欽仁聖孝皇帝」の諡を加えた。己酉、景霊宮に朝献。庚戌、太廟に朝饗。辛亥、明堂で大饗し天下に大赦。
- 冬10月甲子、鄭雍が罷免。癸酉、宣仁聖烈皇后の神御を景霊宮徽音殿に告遷。甲戌、宮に詣り奉安礼を行い、吏部尚書許将を尚書左丞、翰林学士蔡卞を尚書右丞とした。辛巳、冀王顥を楚王に進封。辛卯、河南府で地震。11月乙未、安燾が罷め河南府知事へ。丙申、太白が昼に見えた。戊戌、范鍔が転運使からの入対で捕盗の功があると言い章服を乞うたが、帝は「捕盗は常職なり、何ぞ功と言うに足らんや」と言い黜けて寿州知事へ。甲寅、梁惟簡は除名され全州安置。丙辰、蔡確に太師を贈り「忠懐」と諡した。
- 12月乙丑、監察御史3人を復置し6察を分領させ、言事しないよう令し翰林学士蔡京・御史中丞黄履にそれぞれ御史2人を挙げさせた。壬申、白虹が月を貫いた。戊子、元豊の例に依り孟月に景霊宮に朝献する詔。この年、蘇州で夏秋に地震、桂陽監で慶雲が現れ、宮女91人を出した。交阯・三仏斉・韋蕃・阿里骨が入貢。
紹聖三年(1096年)
- 春正月庚子、韓忠彦が罷め真定府知事へ。甲辰、景霊宮に朝献し諸殿を元豊の礼のように遍く詣った。庚戌、蕃官包順・包誠らを引見しそれぞれ賜賚。獄を鞫するには本章に指す所以外の罪を蔓求すれば律のように論ずる詔。乙卯、戸部尚書は右曹を領しない詔。戊午、合祭を罷め大礼の年の夏至日に北郊で地祗を親祭する詔。
- 2月癸亥、元豊庫の緡銭400万を出して陝西・河東の辺儲を糴わせた。辛未、元豊の恤孤幼令を復した。癸酉、富弼の神宗廟庭配饗を罷めた。癸未、濮王の子でまだ王でない者3人を封じ、宗楚を南陽郡王、宗祐を景城郡王としともに開府儀同三司、宗漢を東陽郡王とした。乙酉、宗綽が薨じた。丙戌、3年に1度取旨し郎官・御史を遣わし監司の職事を按察する詔。丁亥、夏人が義合砦を寇した。
- 3月壬辰、禁中で度々火災があったため春宴および池苑への幸を罷め垂拱殿に御さぬこと3日。癸巳、夏人が塞門砦を囲んだ。丁酉、尚書省で火災。戊午、剣南東川で地震。己亥、宗楚を嗣濮王に封じた。辛亥、大寧郡王佖を申王、遂寧郡王佶を端王に封じた。丁巳、申王・端王の府に幸した。
- 夏4月辛酉、宣徽使を罷めた。丙子、今後景霊宮の四孟朝献は2日に分ける詔。5月壬子、太白が昼に見えた。丙辰、囚を録した。6月癸亥、真定に趙普廟を立てさせた。乙酉、北郊の斎宮を端聖園に立てた。
- 秋7月庚戌、元豊の職事官に依り行・守・試の3等で禄秩を定め、元祐に増した聚義銭を罷める詔。甲寅、熙河に王韶廟を立てさせた。8月辛酉、夏人が寧順砦を寇した。壬戌、日の上に五色暈、下に五色気があった。己卯、検法官を復置。庚辰、范祖禹・劉安世が元祐中に誣謗を構造したことにより祖禹は昭州別駕・賀州安置、安世は新州別駕・英州安置に責授。
- 9月己亥、邈川首領阿里骨が卒した。己酉、滁・沂2州で地震。壬子、楚王顥が薨じた。乙卯、皇后孟氏を廃し華陽教主玉清妙静仙師として沖真の名を賜った。冬10月丁巳朔、楚王の薨去により文徳殿の視朝を罷めた。壬戌、夏人が鄜延を寇し金明砦を陥した。戊辰、被辺諸路に城砦の要害を相度し守備を増厳する詔。辛未、西南方で雷声・雨雹があった。癸酉、鍾傅が汝遮に築城することを言上し安西城とする詔。
- 11月丁未、章惇が「神宗実録」を上呈。庚戌、修実録官に宴した。12月辛酉、宗景は妾を立てるにあたり上を罔いた罪により開府儀同三司・判大宗正司事を罷めた。癸酉、施州鋳銭広積監を置いた。甲戌、蔡京が新修「大学勅令式」を上呈し、重修勅令を詳定、遺棄された飢貧の小児で3歳以下の者は真子孫として収養することを聴す詔。この年、于闐・大食・亀茲・師王国・西南蕃の龍氏・羅氏が入貢し、宗室の子で授官された者46人。
紹聖四年(1097年)
- 春正月丙戌朔、朝を受けず。群臣と遼使が東上閤門に詣り拝表して賀し、内外の学制を頒布。庚寅、阿里骨の子瞎征に河西軍節度使・邈川首領を襲がせた。甲午、涇原路鈐轄王文振が没煙峡で夏人を破った。庚戌、李清臣が罷免。
- 2月己未、三省の言により呂公著を建武軍節度副使、司馬光を清遠軍節度副使に追貶し、王巌叟を雷州別駕とし、趙瞻・傅堯兪の贈諡を奪い、韓維の到任、孫固・范百禄・胡宗愈の遺表の恩を追った。江淮の巡検は旧法に依り土兵を招置する詔。癸亥、于闐が朝貢。黒汗王が夏人の3州を攻めその子を遣わし聞かせた。丙寅、夏人が綏徳城を寇した。庚午、国信使は非例の物を使人に贈らないよう条禁を著す詔。癸酉、申王佖・端王佶にそれぞれ毎年銭6500緡を賜う詔。丙子、神宗の婉儀宋氏を賢妃に進めた。己卯、元豊の榷茶法を復した。庚辰、春秋科を罷めた。癸未、三省の言により呂大防を舒州団練使、劉摯を鼎州団練副使、蘇轍を化州別駕、梁燾を雷州別駕、范純仁を安武軍節度副使に追貶し循・新・雷・化・永5州に安置、劉奉世を光禄少卿として南京分司とし、韓維以下30人を黜けそれぞれ軽重を差した。甲申、文彦博を太子少保に降した。
- 閏4月丙戌朔、張天説は上書して先朝を詆訕した罪により処死。壬寅、曾布を知樞密院事、許将を中書侍郎、蔡卞を尚書左丞、吏部尚書黄履を尚書右丞、翰林学士林希を同知樞密院事とした。癸卯、大雨雹。甲辰、蘇軾は瓊州別駕に責授され昌化軍安置へ移り、范祖禹は賓州安置へ、劉安世は高州安置へ移った。己酉、集英殿に御して進士を策した。庚戌、武挙を策した。
- 3月壬戌、夏人が麟州神堂堡を犯し出兵して討ち胡山砦を進築した。癸亥、礼部奏名進士・諸科及第出身609人に賜物。甲子、武挙謝師古らは遠人であることにより帛を賜い、李惟岳は高年により帛を賜った。丁卯、瀘南安撫司・南平軍に楊光栄の播州疆土献納を擅に誘わないよう詔。庚午、夏人が葭蘆城下に大挙して至ったが知石州張構らがこれを撃退。甲戌、金明池に幸した。丙子、胡山を克し新砦が成り平羌砦と名づけた。辛巳、西上閤門使折克行が長波川で夏人を破り首2000余級を斬り牛馬をその倍獲た。壬午、官に命じ司馬光らが法度を改廃したことを論奏した事状を編類させた。
- 夏4月丁亥、諸獄に気楼・涼窓を置き漿飲・薦席・杻械を設け、繋囚は5日に1度浣い時に沐浴させ、寒にあたれば薪炭を給する詔。甲午、熙河に金城関を築いた。丙申、発解省試に策1道を添える詔。丁酉、臣僚章疏143帙を進編。己亥、呂大防が虔州で卒した。庚子、保安軍知事李沂が夏国を伐ち洪州を破った。壬寅、環慶鈐轄張存が塩州に入り俘戮甚だ衆かったが、還るときに夏人がこれを追襲し多くを失った。甲辰、克戎砦・平夏城・霊平砦を置いた。丁丑、西辺の板築の労により陝西・河東路を曲赦し、王珪を万安軍司戸参軍に追貶。己酉、文徳殿の侍従転対を復した。
- 5月丁巳、文彦博が薨じた。辛酉、皇太妃の服薬および亢旱により四京の囚を決した。壬戌、陝西に蕃落馬軍10指揮を添置する詔。丁卯、衛州淇水の第二馬監・潁昌府単鎮馬監を廃した。辛未、韓縝が薨じた。丁丑、韓維を崇信軍節度副使に貶めた。
- 6月癸未朔、日食があった。丁亥、太白が太微垣を犯した。戊子、宗楚が薨じた。丙申、翰林学士・吏部尚書にそれぞれ監察御史2人を挙げさせる詔。丁酉、環慶路安疆砦が成り防托蕃漢官に帛をそれぞれ賜う詔。甲辰、熙河が青石峡を進築し完工し西平と名づけた。乙巳、保寧軍観察留後宗漢を開府儀同三司とし安康郡王に徙封。己酉、太原で地震、太白が昼に見えた。
- 秋7月壬子朔、太白が昼に見えた。8月乙酉、湖州観察使世開を安定郡王に封じた。丙戌、鄜延将王愍が宥州を復した。戊戌、宗祐を嗣濮王に封じ威戎城を築いた。己酉、彗星が西方に出た。9月壬子、星変により避殿・減膳し秋宴を罷め、公卿に心を尽くし政を修め至らぬ点を輔けさせ中外に直言を求める詔。乙卯、天下に大赦、元豊庫の緡銭400万を出して陝西の広糴に付した。帰明人でまだ田を給されない者に官舎を舎す詔。戊辰、彗星が滅した。癸酉、中太一宮に謁して民のため祈福した。丙子、御殿し膳を復した。宗景を開府儀同三司とした。己卯、婉儀劉氏を賢妃に封じた。
- 冬10月戊戌、宗景が薨じた。壬寅、安国・安陽・淇水監および洛陽・原武監を廃した。11月丁卯、諫議大夫以上にそれぞれ監察御史1人を挙げさせる詔。癸酉、劉奉世を隰州団練副使に貶め柳州安置。丁丑、程頤を放って田里に帰し涪州編管の詔。12月癸未、劉摯が卒した。甲申、垂拱殿で遼使に曲宴。乙酉、侍御史董敦逸は奏対が不実であった罪により秩を貶め興国軍知事へ。この年、両浙で旱・飢があり荒政を行い粟を移して賑貸させる詔。宮女24人を出し、宣城の民の妻が一産で4男子を生んだ。于闐・西南蕃羅氏が入貢し、播州の夷楊光栄らが内附した。戸部の主戸は1306万8741戸、口3034万4274人、客戸は636万6829戸、口306万7332人、大辟の断3192人。
元符元年(1098年)
- 春正月庚戌朔、視朝せず。丙寅、咸陽の民段義が玉印1紐を得た。甲戌、瑞聖園に幸し北郊の斎宮を観た。2月丙戌、白虹が日を貫いた。庚寅、五王の外第を建てる詔。壬辰、翰林侍読・侍講学士を復び罷めた。丁酉、宗祐が薨じた。戊申、蘭州知事王舜臣が塞外で夏人を討ち興平城を築いた。
- 3月壬子、三省の樞密吏を3年に1度刑法を試させる。甲寅、楚州の通漣河を開いた。丙辰、米脂砦が成った。丁巳、五王の外第が成り「懿親宅」と名づけた。戊午、宗漢を嗣濮王に封じ、朱崖の流人陳衍を殺した。壬戌、申王佖・端王佶をともに司空とし、太常寺と閤門に刈麦儀を修定させた。乙丑、翰林学士承旨蔡京らに段義が献じた玉璽を辯験し議を定め聞かせる詔。戊辰、吏部郎中方澤らは后族に私謁し宴聚した罪により罰金・補外。庚午、申王府に幸した。辛未、端王府に幸した。甲戌、咸寧郡王俁を莘王に、普寧郡王似を簡王に、祁国公偲を永寧郡王に進封。
- 丙子、熙河の通会関を築いた。夏4月庚辰、世開が薨じた。甲申、睿成宮および莘王・簡王府に幸した。丙戌、章惇らが「神宗帝紀」を進めた。梁燾が化州で卒した。壬辰、林希が罷免。丙申、顕謨閣を建て神宗御集を蔵した。庚子、睿成宮に幸した。壬寅、学士院が「宝璽霊光翔鶴」の楽章を上げた。癸卯、学官に両経を増習させる詔。丁未、曾布が「刪修軍馬勅例」を上呈。
- 5月戊申朔、大慶殿に御して天授伝国受命宝を受け朝会礼を行った。己酉、徳音を天下に班し囚罪を1等減じ徒以下は釈放。癸丑、宝を受け景霊宮に恭謝。戊午、紫宸殿で宴した。庚申、玉璽献上者段義を右班殿直とし絹200匹を賜う詔。6月戊寅朔、改元(元符)。丙戌、官を遣わし鄜延・涇原・河東・熙河に分詣させ築いた城砦を按験させた。甲午、蔡京らが「常平免役勅令」を上呈。
- 秋7月乙卯、大府丞1員を増置する詔。乙丑、大礼5使は今後ともに執政官を差すことを勅として定める。丁卯、学官に3経を試させた。庚午、范祖禹を化州安置に、劉安世を梅州安置に、王巌叟・朱光庭の諸子をともに勒停・不叙とする詔。壬申、京師で地震。8月丙子朔、熙河蘭岷路をまた熙河蘭会路とした。庚辰、今後三省・樞密院が進擬する在京文臣・開封の推判官・武臣の横班使副および諸路監司帥守はともに取旨・召対する詔。丁亥、侍従・中書舎人以上にそれぞれ知る所2人を挙げさせ、権侍郎以上は1人を挙げ堪える職任を指言する詔。
- 9月丁未、霖雨により秋宴を罷めた。庚戌、秦観は除名され雷州編管へ移った。癸亥、王安石の第を京師に賜った。冬10月乙未、武官に文資への試換を許す詔。丁酉、河北・京東で河が溢れたことにより官を遣わし振恤させた。己亥、夏人が平夏城を寇した。癸卯、駙馬都尉張敦禮は元祐初に上疏し司馬光を誉めた罪により留後を奪われ環衛官を授かった。
- 11月壬戌、景霊宮に朝献。癸亥、太廟に朝饗。甲子、昊天上帝を圜丘に祀り天下に大赦。この年、澶州で河が溢れ、河北・京東の被水を振恤した。真定府・祈州で野蚕が繭をなし、涇原路が夏国統軍嵬名阿埋らを禽にした。高麗が膳を征し西南蕃の張氏・羅氏・程氏が入貢し、西蕃首領李訛□巴詘支・呂承信らが内附した。
元符二年(1099年)
- 春正月甲辰朔、大慶殿に御したが雪により朝を罷め、群臣と遼使が東上閤門に詣り拝表して賀し、群臣はさらに内東門に詣り如儀で賀した。丁卯、内の金帛200万を出して陝西の辺儲に備えた。2月甲戌朔、監司に本路の学行優異な者をそれぞれ2人挙げさせる令。韋蕃が入貢。己卯、高麗国王が士を遣わし賓貢することを許す詔。辛巳、神臂弓を増置し、今後被旨で官を挙げる際は不当であれば挙主の姓名を具して聞かせる詔。甲申、夏人が国母の卒により使を遣わし告哀・謝罪させたがその使を却けて受け入れなかった。戊子、鄜延鈐轄劉安が神堆で夏人を破った。甲午、大食が入貢。乙未、吏部の守令課績は御史台の考察に従い実でない者を黜ける詔。
- 3月丙辰、遼人が簽書樞密院事蕭徳崇を遣わし夏人のため師を緩めることを請い玉帯を献じ環慶路定辺城を築いた。丁巳、秦鳳経略司が呉名革が部族の孳畜を率いて帰順したと言い、名革を内殿承制に補し首領李□を右侍禁に補しそれぞれ銭帛を賜う詔。庚申、府州知事折克行が夏国鈐轄令王を獲て皆保とした。乙丑、雨を祈った。己巳、莘王俁を司空とした。
- 夏4月庚辰、莘王府に幸し、広西提点刑獄司に鹽事を兼領させた。丙戌、鄜延・河東路の暖泉・烏竜砦を築いた。丁亥、旱により四京の囚罪を1等減じ杖以下は釈放。辛卯、獄を鞫するに徒以上は結案および審録・審奏を経てから断遣し、令のようでない者は坐する詔。癸巳、永嘉郡王偲を睦王に封じ、中書舎人郭知章を遣わし遼へ報聘した。丁酉、威羌城を築いた。
- 5月甲辰、太白が昼に見えた。庚戌、鄜延路の金湯城を築いた。癸亥、真宗神御を万寿観延聖殿に遷奉し、陝西・河東路を曲赦し囚罪を1等減じ流以下は釈放。西安州および天都等砦を建てた。乙丑、章惇の官を5等進め、曾布は3等、許将・蔡卞・黄履はみな2等進めた。辛未、莘王俁・睦王偲の母を婕妤に進封する詔。
- 6月庚辰、蘭会州の新砦を「会川城」と名づけた。甲午、環慶路の之字平を「清平関」と名づけた。戊戌、定辺・白豹城を築き工が訖わり、閤門使張存らは官を転じ金帛をそれぞれ賜った。秋7月乙巳、盛暑により中外の繋囚を決した。丁未、京の工役を放した。庚戌、河北で河が漲り民田廬を没したため官を遣わし振わせた。甲子、環州知事种朴が夏国監軍訛勃囉を獲た。丙寅、洮西安撫使王贍が邈川城を復し西蕃首領欽彪阿成が城をもって降った。
- 8月癸酉、章惇らが新修敕令式を進め惇が帝前で読んだところ、元豊にはなく元祐の敕令を用いて修立したものがあったため、帝は「元祐にも取るべきものがあるのか」と言い、惇らは「その善なる者を取っております」と対えた。甲戌、太原で地震。戊寅、皇太子が生まれた。辛巳、諸路に徳音を降し囚罪を1等減じ流以下は釈放。乙酉、熙河路に緡銭100万を賜い部族を撫納させた。丁亥、会州の修築を復した。癸巳、太白が昼に見えた。瞎征が降った。甲午、葭蘆戍を建て晋寧軍とした。丙申、保寧軍節度呂恵卿を特に検校司空に授けた。
- 9月庚子朔、夏人が謝罪に来た。癸卯、御史に三省・樞密院を点検させ元豊の旧制に依らせた。甲辰、儲祥宮に幸した。乙巳、醴泉観に幸した。丁未、賢妃劉氏を皇后に立てた。己未、青唐の酋隴拶が城をもって降った。壬戌、雨により秋宴を罷めた。甲子、右正言鄒浩が劉氏を立てるのは不当と論じたことにより除名され新州覊管に責められた。丙寅、文徳殿に御して皇后を冊した。
- 閏9月癸酉、律学博士の員を置いた。廟制の詳議を詔し、青唐を鄯州隴右節度、邈川を湟州、宗哥城を龍支城とし、みな隴右に隷させた。戊寅、廓州を寧砦城とした。丙戌、果州団練使仲忽が古方鼎を進め「魯公作文王尊彝」の銘があった。甲午、熒惑が太微垣の左執法を犯した。己未、越王茂が薨じた。
- 冬10月壬子、河北・大名の22州軍に馬歩軍指揮を置き「広威」「保捷」と名づける詔。甲寅、日食があり皆既となった。11月丁亥、綏徳城を綏徳軍とする詔。壬辰、河北の黄河の退灘地を民が耕墾することを聴し租税を3年免じる詔。乙未、諸州の教授を置く学校に太学の三舎法に依り生徒を考選・升補させる詔。この月、河中猗氏県の民の妻が一産で4男子を生んだ。
元符三年(1100年)
- 春正月辛未、帝に疾があり視朝せず。丁丑、太宗皇帝の御容を景霊宮大定殿に奉安。戊寅、天下に大赦し民租を蠲免。己卯、帝が崩じた。皇太后が遺制を諭し弟の端王を柩前で即位させ、皇太后が軍国事を権同処分した。
- 4月己未、諡「欽文睿武昭孝皇帝」を上げ廟号を哲宗とした。7月丁卯、諡号・冊宝をもって天地宗廟社稷に奏告。8月壬寅、永泰陵に葬った。癸亥、太廟に祔した。崇寧3年(1104年)7月、諡「憲元継道世徳揚功欽文睿武齊聖昭孝皇帝」を加えた。政和3年(1113年)、諡を「憲元継道顕徳定功欽文睿武齊聖昭孝皇帝」と改めた。
賛
- 哲宗は幼くして即位し、宣仁(太皇太后)が同政した初年には馬(司馬光)・呂(呂公著)ら諸賢を召用し、青苗を罷め常平を復し俊良を登用し言路を闢いたことで天下の人心はこぞって治に向かい、元祐の政は仁宗の代にほとんど及ぶものであった。しかし熙豊(熙寧・元豊)の旧姦は根絶されぬまま、間もなくまた媒蘖して復用され、遂に「紹述」の名を借りて前政に反することを務め善良に報復し、党籍の禍を興し君子はことごとく斥けられ、宋の政はますます敝れることとなった。ああ、惜しむべきことである。