宋史卷五 本紀第五 太宗二

雍熙二年(985年)

  • 正月、徳恭を左武衛大将軍・判済州・定安侯、徳隆を右武衛大将軍・判沂州・長寧侯とした。二月、権交州留後黎桓が来貢。夏州李継遷が汝州団練使曹光実を誘殺した。
  • 三月、江南の民が饑饉のため渡江を許された。四月、潘美を三交口に復帰させ、江南諸州の振済を行った。
  • 五月、夏州行営が西蕃息利族を破り代州刺史折羅遇らを斬った。
  • 九月、重陽の宴の夕、楚王元佐の宮で火災。楚王元佐は庶人に廃され均州に安置された(羣臣の請いで京師での療養が許された)。
  • 十月、天竺僧天息災・施護・法天を朝請大夫試鴻臚少卿とした。汴河の主糧胥吏が漕軍の口糧を奪った罪で腕を断ち、三日晒して斬った。

雍熙三年(986年)

  • 正月、右武衛大将軍長寧侯徳隆が薨じ、弟徳彝が嗣いだ。
  • 三月、曹彬を幽州道行営前軍馬歩水陸都部署、崔彦進を副、米信を西北道都部署とし北伐を発した。田重進を定州路都部署とし飛狐から出撃させた。
  • 三月、曹彬が固安南で契丹軍を破り、田重進が飛狐北で契丹を破り、潘美が寰州を得た。
  • 四月、田重進が蔚州を得て、五月、曹彬の軍が岐溝関で大敗し易州へ退いた。劉保勲が戦死。契丹十万衆が寰州を再陥、楊業が戦死。
  • 七月、曹彬らを右驍衛上将軍等に降格。八月、蕭肯頭ら契丹降人を将軍とした。
  • 十二月、田重進が岐溝関を攻略、契丹が劉廷讓軍を君子館で破りその将賀令図・楊重進を殺した。

雍熙四年(987年)

  • 二月、京師の旱で祈雨。四月、金明池で水嬉を観、瓊林苑で楼上から金銭・繒綵を撒いて民に取らせた。
  • 九月、遼への使者往来を続けた。

端拱元年(988年)

  • 正月、耤田を親耕、丹鳳楼で改元し大赦。左右補闕を左右司諫、左右拾遺を左右正言と改称。
  • 二月、瀛州の被災民に租税を三年免除。開封尹陳王元僖を許王、元侃を襄王、鄧王銭俶に加恩。李昉を尚書右僕射とした。
  • 五月、閏五月、李継捧に趙保忠の姓名を賜い定難軍節度使とした。
  • 八月、太師鄧王銭俶が薨じ秦国王・忠懿と追封。

端拱二年(989年)

  • 二月、河北東西路に営田を置いた。
  • 三月、平塞・天威平・定威虜・静戎・保塞・寧辺等の軍と祁・易・保定・鎮・邢・趙等の州民に給復を延長した。
  • 七月、彗星が東井上に出て正殿を避け膳を減じた。崇儀使尹継倫が威虜軍で契丹を破り相の皮室大将于越を敗走させた。

淳化元年(990年)

  • 正月、改元。二月、江南両浙淮西嶺南の漁禁を除いた。
  • 七月、京師の旱で天災を憂え、宰相らに詔した。
  • この年、京師で疫病が流行し、洪吉江蘄河陽等が水害、開封陳留封丘酸棗鄢陵が旱害となり租税を減免した。

淳化二年(991年)

  • 二月、盡く宮殿の彩繪を赭堊に易えた。監察御史祖吉が姦贓で棄市。
  • 三月、日食で蝗害・旱害の中、帝は宰相呂䝉正らに手詔し「朕は自ら焚いて天譴に答えよう」と述べ、翌日雨が降り蝗が尽く死んだ。
  • 六月、忠武軍節度使同平章事潘美が卒した。
  • 七月、李継遷が降を奉じ銀州観察使とされ姓を賜い名を保吉と改めた。
  • 十一月、女真が契丹討伐を請うたが許さず、以後遂に契丹に服属した。この年、大名河中絳濮陝曹済同淄単徳徐晋輝磁博汝兖虢汾鄭亳慶許斉濵棣沂貝衛青霸等の州が旱害となった。

淳化三年(992年)

  • 三月、趙普を太師魏国公とした。四月、江南両浙荆湖の配流民を本郡に還した。
  • 六月、飛蝗が東北から蔽天して来たが、夕に大雨が降り蝗が尽く死んだ。
  • 七月、太師魏国公趙普が薨じ真定王を追封。この月、許汝兖単滄蔡斉貝八州が蝗害。
  • 十一月、許王元僖が薨じた。
  • この歳、潤州丹徒県で飢饉により300戸が死んだ。

淳化四年(993年)

  • 正月、宣祖太祖を圜丘に配祀し大赦。二月、審官院・考課院を置き、永康軍青城県民王小波が徒党を集め眉州彭山県令斉元振を殺害(王小波・李順の乱の発端)。
  • 六月、罷鹽鉄戸部度支等使、三司使を置いた。
  • 十月、天下州県を十道に分けた。十一月、河決澶州、江決涪州で死者を賑済。十二月、西川都廵検使張玘が王小波と戦い戦死、小波も流矢で死に党の李順が首領となった。

淳化五年(994年)――王小波・李順の乱

  • 正月、李順が濮州・彭州・成都を陥落させ、成都知府郭載が梓州に奔り、順は成都に拠った。李継隆を河西行営都部署とし李継遷を討たせ、王継恩を両川招安使として李順討伐を命じた。
  • 二月、李順が剣州を攻めたが上官正・宿翰が大破。
  • 三月、趙保忠(李継遷の一族)が趙保吉に襲われ李継隆が夏州に入った。
  • 五月、西川行営が李順を破り成都を復し、李順を捕えた(一党張余は嘉戎瀘渝涪忠万開八州を陥落させ続けた)。
  • 六月、都城で大疫、賊が施州・陵州・眉州を攻めたがいずれも撃退された。
  • 九月、罷諸州榷酤。十月、蜀部がほぼ平定し帝は自ら罪を詔書に記した(下詔罪己)。
  • 十一月、賊将張餘の首が西川行営に届き余党が平定した。十二月、榮州で降賊の丞が処刑された。

至道元年(995年)

  • 正月、改元。四月、吕蒙正が右僕射を罷め、吕端が戸部侍郎平章事となった。
  • 五月、開寶皇后宋氏が崩じた。六月、李継遷に鄜州節度使を授けたが継遷は詔を奉じなかった。
  • 八月、壽王元侃を皇太子に立て名を恒と改めた。
  • 十二月、羣臣が尊号を五度上ったが許さず。折御卿が契丹防戦中に軍中で没した。

至道二年(996年)

  • 正月、圜丘祭祀、大赦、加恩。二月、司空致仕李昉が薨じた。任子官制を定めた。
  • 四月、李継隆を環慶等州都部署とし李継遷討伐を命じた。五月、李継遷が霊州を冦した。
  • 九月、烏白池で李継遷を破ったが継遷は逃走した。
  • 十二月、河北民が旱害に苦しみ振済を続けた。

至道三年(997年)

  • 二月、靈州行営が李継遷を破った。帝の病が重り、三月、退朝し万歳殿で皇太子に柩前即位を宣した。この日、太宗が崩御。年59。在位22年。殯し、羣臣が「神功聖徳文武皇帝」の尊諡・「太宗」の廟号を上った。十月、永熙陵に葬った。

史論

  • 賛にいう。帝は沈毅な謀と英断を備え、天下平定の志を抱いた。即位後、陳洪進・銭俶が相継いで領地を献納し、まもなく太原を取り、契丹を伐ち、交州・西夏の役が相継いで戦は絶えなかったが、天災が頻発しても民は兵役に苦しまず、水旱・螟蝗が天下に広がっても民が乱を思わなかったのはなぜか。帝は慈倹を宝とし、粗末な衣を着け竒巧な器物を毀し女楽の献上を却け、遊猟の非を悟り、遠方の珍物を絶ち符瑞を抑え、農事を憐れみ治功を考え学問を講じて多聞を求め、狂悖の言を罪とせず諫言を勧めた。哀矜惻怛の心で自ら勵み、日が暮れても食を忘れ、自ら焚いて天譴に答えようとし、天下の賦税を尽く除いて民力を紓めようとした。ついに兵を用いずして禾稼が豊作となり、青斉の老人が子弟を率いて治道を助けようと望み封禅を請う者が相継いだ。「丘民の心を得て天子となる」とはこのことをいうのであろう。帝の功徳は史書に輝き賢君と称される。ただ太祖の崩御の年内に改元したこと、涪陵県公(廷美)の左遷・死、武功王(徳昭)の自殺、宋后の喪が正式に行われなかったことについては、後世に議論の余地が残る。