宋史卷四 本紀第四 太宗一
出自と生い立ち
- 太宗神功聖徳文武皇帝、諱は炅(はじめ匡乂、のち光義、即位2年目に炅と改諱)。宣祖の第3子、母は昭憲皇后杜氏。杜氏が神人の日を捧げる夢を見て懐妊、浚儀の官舎で生まれた。晋の天福4年(939年)10月17日甲辰生。
- 幼くして群を抜き、長じて隆準龍顔(高い鼻・竜の顔)の相を備え、学を好んだ。宣祖が淮南を平定した際、財物を取らず古書だけを求めて帝に与えた。
- 周に仕えて供奉官都知となり、太祖即位後は殿前都虞候・睦州防禦使、澤潞親征時は大内点検で留守、泰寧軍節度使、李重進討伐時は大内都部署、同平章事、開封尹、中書令を兼ね、太原征討時は東都留守、晋王に封ぜられ宰相の上に序班された。
開寳九年(976年)――即位
- 冬十月、太祖崩御、帝は即位。大赦。羣臣が聴政を請い、長春殿に移った。弟廷美を開封尹・中書令・斉王とし、先帝の子徳昭を永興軍節度使兼侍中・武功郡王、徳芳を山南西道節度使興元尹同平章事とした。薛居正・沈倫を僕射、盧多遜を中書侍郎、曹彬を樞密使、楚昭輔を樞密使、潘美を宣徽南院使とした。
- 十一月、尹氏を淑徳皇后、符氏を懿徳皇后に追冊。州県奉戸を罷め、転運使に官吏の考課を命じた。天文術数に通じる者を集め、匿す者は死罪とした。王伷を高麗国王とした。
- 十二月、直舎人院を置き、太平興国と改元。太祖の子及び斉王廷美の子を皇子、女を皇女と称させた。三司副使を置いた。
太平興国二年(977年)
- 正月、太祖に「英武聖文神徳」の諡・「太祖」の廟号を上った。二月、契丹・呉越が朝賀の使を送り、南唐の鉄銭を罷めた。帝、名を炅と改めた。
- 三月、試官の銜選の制を立て、趙普を太子少保とした。四月、太祖を永昌陵に葬った。
- 五月、向拱・張永徳・張美・劉廷讓が節鎮を罷め諸衛上将軍となった。継母が子や婦を殺した罪を殺人と同罪とした。
- 六月、太祖神主を廟に祔し、王氏・符氏・尹氏を皇后として配祀。北帝宮を終南山に造営。
- 八月、黎州両林蛮が来貢、陳洪進が来朝。九月、崇聖殿の造営を詔した。十月、鎮定都部署が契丹を廉良路で破った。
- 十一月、天地を圜丘で祀り大赦、尊号冊を受けた。
太平興国三年(978年)
- 正月、殿直霍瓊が兵を募り民財を劫した罪で腰斬。二月、太祖実録の修纂を命じた。三月、崇文院を置いた。
- 五月、京畿雨足る。六月、王延範らが謀反の罪で棄市。武寧軍節度使陳洪進が卒した。田重進が飛狐で北漢軍を破り、劉知進らが飛狐城を挙げて降った。
- 夏四月、潘美が雲州を克し、田重進が飛狐北で再三勝ち、蔚州の李存璋らが北漢の監城使を殺して降った。
- 五月、曹彬の軍が岐溝関で大敗し易州に退いた。劉保勲が戦死。契丹十万衆が寰州を再陥、楊業は遷民を護送中に力戦し捕えられ節を守って死んだ。
- 秋七月、曹彬・崔彦進・米信を降格。冬十月、平北漢の功で斉王廷美を秦王、薛居正・沈倫・盧多遜・曹彬らを加恩した。十一月、契丹戦で万余級を斬った。
太平興国四年(979年)――呉越・北漢の平定と対契丹戦
- 二月、潘美を北路都招討制置使とし、崔彦進・李漢瓊・劉遇・曹翰らを分遣し北漢討伐の軍を起こした。米信・田重進を行営指揮使とした。郭進を石嶺関都部署とし燕薊の援軍を断った。
- 三月、帝みずから太原を親征。北漢を攻囲し、汾水を引いて城を灌ぎ、諸砦を築いた。
- 四月・五月、羊馬城を陥落させ北漢の宣徽使范超を斬り、繼元に降伏を勧告。北漢主劉繼元が降伏。北漢平定、州10・県40・戸3万5220を得た。
- 六月、幽薊征討のため契丹への親征に発した。涿州・易州が降伏。
- 七月、順州・薊州が来降。契丹軍と髙梁河で大戦し宋軍が敗績。帝は班師した。
- 八月、石守信・劉遇が降格。潘美を河東三交口に屯させた。九月、鎮州都鈐轄劉廷翰が遂城西で契丹を大破し1万3百級を斬った。冬十月、廷美を秦王に進封、諸将を加恩した。武功郡王徳昭がこの間に自殺した。
太平興国五年(980年)
- 三月、宦官の養子制度を明文化。閏三月、太原の故城を隳した。四月、応百篇挙で趙昌国を及第。
- 七月、交州の黎桓討伐に孫全興・張濬らを命じた。
- 十一月、伐契丹の軍が莫州で敗績、十二月、大閲した。
太平興国六年(981年)
- 正月、平塞・静戎の二軍を置いた。三月、詔して官吏の賢否を察させ、破虜・平戎の二軍を置いた。
- 四月、交州行営が白藤江口で敵を破り戦艦二百艘を獲た。炎瘴で死者多く班師した。
- 七月、渤海琰府王に契丹討伐への協力を命じた。九月、田錫の上疏を嘉奨。
- 十月、崔彦進を関南都部署、米信を定州都部署とし、尊号「応運統天睿文英武大聖至明広孝皇帝」を上った。十一月、皇城司を置いた。
太平興国七年(982年)
- 二月、并州治を唐明鎮に移した。四月、盧多遜が兵部尚書に降格、五月、盧多遜は職を褫奪され崖州に流された。沈倫も工部尚書に降格。
- 五月、夏州留後李継捧が銀・夏・綏・宥四州を献じた。秦王廷美が涪陵県公に降封、房州に安置された。
- 六月、李継捧の親族を京師に召し、弟の李継遷は地斤沢に奔った。
- 十月、京朝幕職州県官の考課制度を始めた。
太平興国八年(983年)
- 三月、豊州が契丹兵三千余帳を降した。
- 五月、弭徳超が瓊州に流された。九月、天下に封禅を請う声が上がったが許さず。
- 十月、衛王徳崇を元佐、徳明を元祐、徳昌を元休、徳厳を元儁、徳和を元傑と改名し、それぞれ楚王・陳王・韓王・冀王・益王に進封。趙普が武勝軍節度使に降格。
雍熙元年(984年)
- 三月、滑州の河決を塞ぎ、平河歌を作った。
- 六月、乾元・文明二殿が火災。石守信が薨じた。
- 九月、尊号を三上したが許さず。
- 十月、陳摶に希夷先生の号を賜った。夏州が李継遷の母妻を千四百余帳虜とし、継遷は逃走した。
- 十一月、圜丘で祀り大赦、改元。楊億(浦城の童子)を秘書省正字とした。
- 十二月、李氏を皇后に立てた。
(本篇末尾「宋史卷四」。太宗二の記事は次篇に続く。)