開寳五年(972年)
- 正月、鉄で仏像・浮屠を鋳ることを禁じた。盧県の元尉許永(75歳)が父瓊(99歳)のために官を乞い、瓊に厚く賜い永を鄢陵令とした。州県の小吏や直力人を省いた。
- 二月、沿河17州に河隄判官を各1員置き、鳳州七房の銀冶を開寳監とした。劉熙古を参知政事とした。進士安守亮ら諸科38人を礼部が試み、初めて講武殿で放榜した。
- 五月、恩赦侯劉鋹に銭150万を賜い、広南州の統廃合(13県39を併合)を行い、嶺南の採珠媚川都を静江軍の卒とした。
- 六月、河が陽武で決壊し汴も榖熟で決壊。淫雨で澶・滑・済・鄆・曹・濮六州が大水となり、水害の民田は租を除いた。
- 八月、獠人が邕・容等州で乱を起こしたが、広州行営都監朱憲が容州でこれを大破した。九月、李崇矩が鎮国軍節度使を罷めた。十一月、李継明・薬継清が英州で獠賊を大破した。僧道の天文地理習得を禁じ、挙人の寄応を禁じた。薛居正・呂餘慶に淮湖嶺蜀転運使を兼ねさせた。
- 十二月、董延諤が倉の芻粟を盗んだ罪で杖殺された。この年、大饑饉であった。
開寳六年(973年)
- 正月、蜀の水陸転運計度使を置いた。二月、棣州の兵馬殿直傅廷翰の謀反が誅された。曹州饑饉に太倉米2万石を賑済。三月、周の鄭王(恭帝)が房州で薨じ、帝は素服し輟朝10日、諡を恭帝、慶陵の側に順陵として改葬した。宻州を安化軍節度に復した。講武殿で進士を覆試、宋凖ら及第者127人に宴銭20万を賜った。李昉が試験の不当で太常少卿に降格。王事に死んだ朝臣の子陸坦らに進士出身を賜った。
- 四月、盧多遜を江南国信使とし、詔して五代史を修めさせた。五月、劉熙古が戸部尚書で致仕。交州丁璉が貢を献じた。趙普の党人胡贊らの不法が告発され、籍没された。参知政事が宰相と印を分掌することとした。
- 七月、諸州府に司寇参軍を置いた。八月、成都府の偽蜀嫁装税を罷めた。趙普が河陽三城節度使同平章事に降格。
- 九月、晋王光義を侍中に、徳昭を同中書門下平章事に封じ、薛居正・沈義倫・盧多遜らを宰相に任じた。冬十月、周恭帝を葬り、江南討伐の準備として舟師を発した。
- 十月、曹彬・潘美・曹翰が江南(南唐)討伐の兵十万を発し、李煜の一門を害さぬよう戒めた。李穆を江南国信使とした。閏月、峡口を克し、池州を克し、銅陵で江南軍を破った。十二月、白鷺洲で江南軍を敗り、常州を包囲した。
開寳七年(974年)
- 正月、田欽祚が溧水で江南軍を敗り都統使李雄を斬った。二月、曹彬が昇州の水砦を抜き白鷺洲で江南軍を破った。三月、覆試進士で王嗣宗ら諸科紀自成ら及第。四月、契丹使を殿で観射させ、王継恩を昇州へ派遣した。
- 五月、呉越王が常州を抜き、彬らが秦淮北で江南軍を敗った。契丹の遣使が来講和した。
- 七月、契丹将韓徳威が国境で敗れ、田重進が飛狐北で契丹に勝ち、大鵬翼らを捕えた。曹彬が涿州を克し、契丹将を涿州南で殺した。潘美が応州を降した。
- 冬十月、曹彬が昇州(金陵)を克し、南唐主李煜を虜とし、江南平定、州19・軍3・県180・戸65万5060を得た。
開寳八年(975年)
- 正月、樊若水が江南軍を破り、曹彬が昇州城南の水砦を抜いた。二月、彬が白鷺洲で敗り昇州の関城を抜いた。三月、覆試諸科で王嗣宗ら及第。潘美・彬ら江北で江南軍を破った。
- 四月、契丹使を殿で引見、内侍王継恩を昇州へ発した。呉越王が常州を抜き、彬らが秦淮北で敗った。
- 五月、呉越国王銭俶を守太師尚書令とし、江南の寧遠軍らが降った。六月、彬らが遣使で江南軍撃破を報告した。
- 七月、西天東印土王子来朝。八月、丁徳裕が潤州兵を破った。
- 冬十月、江南主が徐鉉らを遣わして緩師を乞うたが不許、曹彬が皖口で朱令贇・王暉を破り捕えた。十一月、曹彬が城下で夜戦し勝ち、乙未、昇州を克し李煜を虜とし江南平定。十二月、赦して江南に一歳の兵役を免じ、龍興寺に幸した。
開寳九年(976年)
- 正月、明徳門で李煜を接見し献俘の儀を用いず、大赦。李煜を違命侯に封じた。江南昭武軍節度使留後盧絳が州県を焼掠。
- 二月、晋王らが尊号を三度上らせようとしたが許さず。呉越王銭俶が朝覲し、進物は銀絹乳香吳綾紬綿錢茶犀象香薬など億万に上った。
- 三月、皇子徳芳を検校太保貴州防禦使とした。四月、圜丘で祭祀を行い大赦、大宴を賜った。
- 五月、翰林学士の推薦で盧絳を討ち殺した。宋州で大風により城楼と官民舎5000間近くが壊れた。
- 七月、泉州節度使陳洪進が朝覲を乞い、光美(廷美)の第を再訪して疾を見舞った。
- 八月、党進を伐北漢の将とし、五道から太原に入った。九月、党進が太原城北で北漢軍を破った。
- 冬十月、兵馬監押馬継恩が河東界に入り40余砦を焼いた。十一月、太祖が万歳殿で崩御。年50。殯し、諡を英武聖文神徳皇帝、廟号太祖とした(太平興国二年に永昌陵に葬り、大中祥符元年に「啓運立極英武睿文神徳聖功至明大孝皇帝」の尊諡を加えた)。
太祖の人となり
- 性は孝友・節倹で自然に従い、装飾を好まなかった。受禅の当初は微行を好み、諫める者に「帝王の興隆は天命による」と答えた。
- 汴京新宮の完成時、諸門を洞開させ「わが心のように邪曲があれば人に見える」と語った。
- 呉越王銭俶が朝覲した際、群臣は俶を留めてその地を取ることを請うたが帝は許さず、俶が帰国する際に群臣の留置を求める上奏を封じて俶に授け、後に俶が開いてみると自分を留めよという上奏ばかりであった。俶はこれに感激・恐懼し、後に江南平定後、俶は自ら領地の献納(納土)を願い出た。
- 南漢の劉鋹は国では毒殺を好んで用いたが、帰朝後、宴で帝が酒を賜うと毒を疑い辞退した。帝は自ら先に飲んでみせ、朕は人に赤心を推すのであり、そのようなことはしないと答えた。
- 王彦昇は擅に韓通を殺したため、佐命の功があっても終身節鉞を与えられなかった。王全斌は蜀に入り貪欲で降兵を殺したため、大功があっても貶謫された。
- 宮中の葦簾は青布を用い、常服は洗濯して再用した。魏国長公主の襦の翠羽飾りをやめさせ、「富貴に生まれても福を惜しめ」と教えた。孟昶の七宝装飾の溺器を見て「これでは滅びぬはずがない」と碎いた。
- 晩年は読書を好み、二典(堯典・舜典)を読んで「堯舜の四凶の罪も追放にとどまるのに近代の法網はなぜこれほど厳しいのか」と嘆じた。五代の諸侯が枉法殺人しても不問だったことを憂え、諸州の大辟(死刑)判決は刑部に上奏させる制度を定めた。
- 乾徳と改元する際、前代にない年号を選ばせたが、蜀平定後、蜀宮人の鏡に「乾徳四年鋳」とあるのを見て竇儀に問い、蜀に既に同名の年号があったと知り「宰相は読書人でなければならない」と語り、儒者を重んじた。
- 杜太后は帝位を太宗(弟)に伝えるよう遺言し、太宗が病んだ際、帝は自ら灸をすえてやり、常々「太宗は龍行虎歩、必ず太平の天子となる。福徳は私に及ばない」と語った。
史論
- 賛にいう。堯舜は禅譲、湯武は征伐によって天下を得た。いずれも民を救うことを責とされたのであり、必ずしも聖人の才を得た上での継承ではなかった。五代の乱世の極みに、太祖は一介の武人から起こり、晋・漢・周とその出自は大差ないが、号令を発すれば強藩大将も従い、天下を平定した。これは人力で容易に成し遂げられるものではない。建隆以来、藩鎮の兵権を解き、贓吏を重法で取り締まって濁乱の根を絶ち、州郡の司牧から幕職に至るまで自ら引見し、農を勧め学を興し、刑罰を慎み租税を薄くして民と休息を共にした。在位17年で三百余年の基を開き、子孫に伝えて典則とした。宋の道徳仁義の風は漢唐に劣らない。創業垂統の君としての規模の大きさは、実に遠大というべきである。