宋史卷六 本紀第六 眞宗一

出自と生い立ち

  • 眞宗応符稽古神功譲徳文明武定章聖元孝皇帝、諱は恒。太宗の第3子、母は元徳皇后李氏。乾徳5年(967年)12月2日、開封府第で生まれた。赤光が室を照らし左足指に「天」字の文があった。
  • 幼くして英睿、諸王との遊戯で戦陣を好み自ら元帥と称した。太祖に愛され宮中で育てられ、太祖に「天子は好きか」と問われ「天命によるのみ」と答えた。学に励み一覧で誦を成した。
  • 初名徳昌。太平興国8年(983年)韓王、端拱元年(988年)襄王・元侃、淳化5年(994年)壽王・開封尹、至道元年(995年)皇太子となり名を恒と改めた。開封の政務に励み獄訟の裁決に精しく京獄がしばしば空になった。

至道三年(997年)――即位

  • 二月、太宗崩御、柩前で即位。四月、皇后李氏を皇太后に尊び大赦。羣臣の聴政の請いに従い崇政殿で初めて羣臣に見え、呂端を右僕射とした。弟の元份を雍王、元傑を兗王、元偓を彭城郡王、元偁を安定郡王に進封。傅潜・王超・李継隆・高瓊を諸軍節度使とした。
  • 五月、静海軍節度使交阯郡王黎桓に侍中を兼ねさせ南平王に進封。李昌齢が忠武行軍司馬に降格。
  • 六月、涪王廷美・魏王徳昭・岐王徳芳の官爵を追復。七月、殿前都虞候范廷召らを節度使とした。
  • 八月、曹彬を樞密使とし趙鎔らを副とした。西川広武卒劉旴の乱を上官正らが討平。
  • 十一月、太宗を永熙陵に葬り太廟に祔した。

咸平元年(998年)

  • 正月、改元。皇太后李氏に「元徳」の諡を上った。学官崔頤正に講書させ、明経の士を選ぶよう命じた。
  • 五月、大相国寺で祈雨し、雨が降った。九月、種放に粟帛緍銭を賜った。十月、呂端を太子太保とし、張斉賢・李沆を平章事とした。
  • 十二月、三司判官に知州適任者の推薦を命じた。この歳、溪峒吐蕃諸族が朝貢、定州は雹害を受け租を免除した。

咸平二年(999年)

  • 二月、趙普を太祖廟庭に配饗。三月、荆湖南路転運使を置いた。
  • 六月、曹彬が薨じた。七月、王顕を樞密使とした。八月、翰林侍読学士・侍講学士を置いた。
  • 九月、曹彬を太祖廟庭に、薛居正・潘美・石熙載を太宗廟庭に配饗。
  • 十二月、契丹と鎮定都部署が廉良路で交戦し勝った。この歳、高麗・大食国・高州蛮が来貢、畿内・江南・荆湖が旱害となった。

咸平三年(1000年)――王均の乱と契丹侵攻

  • 正月、大名府の軍が変を起こし鈐轄符昭壽を殺し都虞候王均を首として乱を起こした。王均は益州を占拠。雷有終を討伐に遣わした。
  • 二月、契丹が河間・高陽関を攻め都部署康保裔が戦死。傅潜・張昭允が敗戦の責で流罪。范廷召らが莫州で契丹を破り首級万余を得た。
  • 三月、益州で王均が偽って逃げ、雷有終らは敗れ李惠が戦死。
  • 十月、雷有終が益州を大破して復し、王均を富順監で斬った。
  • この歳、高麗・大食国・高州蛮らが来貢、畿内・江南荆湖が旱害となった。

咸平四年(1001年)

  • 正月、益州の乱の平定を受け、殺傷・劫盗を除いて不問とした。
  • 三月、永州蛮酋蒙瑛らが兵器・毒薬箭を献じ帰順を誓った。
  • 四月、川峡転運使を益利梓夔四路に分けた。種放は病と称し隠棲を続けた。
  • 七月、審官院の考課制度を整備。
  • 九月、蜀部の平定を受け改元・大赦を検討。

咸平五年(1002年)

  • 正月、李継遷の部将卧浪巳らが内附し田宅を給された。環慶部署張凝が諸蕃を襲い族帳200余を焼き5000級を斬り900余人を降した。
  • 三月、李継遷が霊州を陥落させ知州裴済が戦死。北部員外郎洪湛が籍を削られ儋州に流され、工部尚書趙昌言が安遠軍司馬に降格。
  • 六月、李継遷が麟州を包囲、曹璨の援軍要請により并代石隰州の兵を発した。侍衛馬軍都虞候王超を定州路駐泊行営都部署とした。
  • 七月、日食。都城で大雨により多くの廬舎が壊れ死者を賑済した。
  • 九月、种放が便殿で対面し左司諫直昭文館を授けられ第宅を賜った。
  • 十月、鎮戎軍将士に薬を賜い、河西の帰順戎人に内地の閒田を与える詔を出した。
  • 十一月、麟州に給復1年を詔し、六谷首領潘羅支らが馬を貢いだ。太廟を享し、圜丘で天地を祀り大赦。白州民黄受(百余歳)に粟帛を賜い、子玄祐を信国公に封じた。呂䝉正を司空、李沆を右僕射に加え、楚王元佐を右羽林軍上将軍、雍王元份を守太傅、兗王元傑を守太保、曹国公元儼を同平章事とした。
  • 十二月、京城の百歳老人祝道嵓に爵一級を賜い、麟州の内属人を楼煩に遷した。この歳、河北の鄭・曹・滑州が饑饉となり振済した。

(末尾「宋史巻六」。眞宗二の記事は次篇に続く。)