宋史卷七 本紀第七 眞宗二

咸平六年(1003年)

  • 二月、飛山雄武営で発機石連弩を観、京東西淮南の水災を振恤した。西涼府六谷首領潘羅支を朔方軍節度・霊州西面都廵検使とした。
  • 四月、李継遷が洪徳砦を冦したが慶香癿慶らが撃退。契丹との望都県の戦で副都部署王継忠が捕虜となった。信国公玄祐が薨じた。
  • 五月、望都の戦没将士の子孫を録し、鎮州副都部署李福が戦の退却の罪で流罪。京城で疫病が流行し薬を配布した。
  • 六月、瓦窰没劑如羅昧克ら族が河を渡り李継遷を撃破。宼凖が三司使となった。
  • 七月、兗王元傑が薨じた。八月、西蕃八部二十五族が帰順。
  • 十一月、西面部署が李継遷の西涼攻撃と知府丁惟清の戦死を報告。李継隆を山南東道節度使とした。萬安太后(李皇太后)が不豫となった。
  • この歳、西涼府・高州・大食国等が来貢、河北興元府遂郢州が大熟であった。

景德元年(1004年)――澶淵の盟

  • 正月、改元。麟府路が契丹埿族の内属を報告。京師で地震が頻発し、天象器物の讖候書の禁と焼却を詔した。石隰州の河西蕃部45族が内附。
  • 二月、環慶部署が西涼府潘羅支と六谷蕃部が合撃し李継遷を破ったと報告、継遷は流矢に中り死んだ。
  • 三月、威虜軍が長城口で契丹を破った。皇太后(李氏)が崩じた。羣臣が三たび聴政を請い、李沆らが五度上表して聴政を勧め、帝は西北軍事の緊急を理由に従った。
  • 夏四月、明徳皇太后の諡を上り、羣臣が三度正殿への還御を請い従った。
  • 六月、川陝閩広の州軍貢の承天節分を罷めた。
  • 七月、李沆が薨じた。畢士安を吏部侍郎参知政事とした。
  • 八月、畢士安・宼凖を平章事、王継英を樞密使とした。
  • 閏九月、河北の民が契丹を殺した場合の賞格を頒布。契丹統軍撻覧が威虜・順安軍を攻めたが破られ、また北平砦・保州も敗れた。王欽若を天雄軍府判官・都部署とした。撻覧が定州で唐河に阻まれ、陽城淀に駐屯。王継忠を通じて講和を打診、石普に書を送った。
  • 十月、周瑩を駕前貝冀路都部署、葛霸を駕前邢洺路都部署とした。髙継祖が岢嵐軍で契丹数万騎を破った。明徳皇后を太廟に祔した。王超らに行在への出兵を命じ、定州に魏能・張凝・田敏を屯させた。王継忠が講和を上言し、曹利用を答礼に遣わした。
  • 十一月、瀛州で知府李延渥が契丹を大破し十余万を殺傷させた。帝は自ら北巡(親征)に発し、韋城県に駐蹕。撻覧が澶州北で伏弩に中り死んだ。
  • 十二月、契丹使韓杞が講和に来た。帝は澶州に至り北砦に幸した。曹利用が契丹より帰り和議が成立(澶淵の盟)。契丹兵が塞外に退き、帝は澶州から京師に還った。この歳、交州・西涼州・西高・豐甘・沙州・占城・大食・蒲端・亀茲国が来貢、江南東西路が饑饉、陝・濱・棣州が蝗害となった。

景德二年(1005年)

  • 正月、契丹講和を受け大赦。二月、曲阜県の孔子廟学舎建立を詔した。
  • 三月、御試礼部貢挙人。四月、丁謂を修昭応宮使とした。
  • 五月、賢良方正能直言極諫等六科を復した。
  • 八月、雍王元份が薨じた。九月、向敏中を鄜延路都部署とした。
  • 十一月、天地を圜丘で祀り大赦、大宴、尊号冊を受けた。宼凖を中書侍郎兼工部尚書とし、廷美系の諸王を進封した。

景德三年(1006年)

  • 正月、宼凖が刑部尚書に、王旦が工部尚書平章事となった。王欽若・陳堯叟が知樞密院事となった。
  • 二月、交州の李公蘊が静海軍留後を称した。
  • 三月、隨州光化の民の貸糧を免除。四月、种放が終南山に帰った。
  • 五月、京師で大雨があり平地数尺の水害、死者を賑済した。
  • 六月、河中府父老が后土祭祀を請うたが許さず。頒布した釈奠先聖廟儀・祭器図。
  • 七月、向敏中を工部尚書資政殿大学士とした。汾陰后土祭祀の準備を開始。
  • 八月、陳堯叟を祀汾陰経度制置使、王旦を大礼使、王欽若を礼儀使とした。
  • 十月、契丹使耶律寧が高麗征討を告げた。
  • 十二月、陝州の黄河が二度清んだ。この歳、龜茲・占城・交州が来貢、陝西が饑饉、江淮南が旱害となった。

景德四年(1007年)

  • 正月、太廟に謁で東偏門を用いる詔を出した。二月、資政殿大学士向敏中を東京留守とした。
  • 三月、権静海軍留後李公蘊を静海軍節度使・交阯郡王とした。
  • 四月、石保吉が薨じた。丁謂を修昭応宮使とした。
  • 六月、契丹国母(蕭太后)の喪を受け辺城の楽を禁じた。
  • 七月、王旦を祀汾陰大礼使、王欽若を礼儀使とした。
  • 十月、丁謂らが大中祥符封禅記を上った。この歳、龜茲・占城・交州が来貢、陝西が饑饉、江淮南が旱害となった。

大中祥符元年(1008年)――天書と泰山封禅

  • 正月、左承天門に黄帛が垂れているのが発見され、天書と称された。紫雲が龍鳳のごとく宮殿を覆った。改元・大赦。夏州が饑饉で粟を市んだ。
  • 二月、天書の応に基づき在位者を戒めた。三月、兗州父老・進士ら数万人が封禅を請い(五度上表)許さず。
  • 四月、王欽若を泰山封禅経度制置使、王旦を封禅大礼使とした。
  • 五月、王欽若が泰山の醴泉出現・蒼龍出現を報告。
  • 六月、天書が泰山醴泉北に再降した。
  • 八月、太祖・太宗に尊諡を上った(太祖「啓運立極英武聖文神徳玄功大孝皇帝」、太宗「至仁応道神功聖徳文武大明広孝皇帝」)。
  • 九月、王欽若が芝草8000余本を献じた。奉天書を太廟に告げた。
  • 冬十月、車駕が京師を発し東封(泰山封禅)に向かった。鄆州で神光が出た。
  • 十一月、泰山を登り昊天上帝を圜台で祀り天書を左に陳べ太祖太宗を配祀。社首で禅祭を行った。朝覲壇の壽昌殿で羣臣の朝賀を受け大赦。孔子を「玄聖文宣王」と加諡し孔林に幸した。
  • 十二月、乾元殿で尊号を受けた。この歳、西涼府・甘州・三佛齊・大食国・西南蕃らが封禅を賀し、諸路は歳稔で米が安値であった。

大中祥符二年(1009年)

  • 正月、封禅の慶成で宗室・輔臣に襲衣金帯器幣を賜った。
  • 四月、丁謂を三司使とした。五月、孔子弟子七十二人を追封した。
  • 七月、玉清昭応宮とした。八月、封禅赦前の逋負1266万緡を蠲除した。
  • 十一月、丁謂が封禅朝覲祥瑞図を、劉承珪が天書儀仗図を上った。契丹国母蕭氏が卒し輟朝した。この歳、于闐・西涼府・西南蕃らが来貢。

大中祥符三年(1010年)

  • 二月、交州の黎至忠が卒し大校李公蘊が自ら留後と称した。
  • 三月、権静海軍留後李公蘊を静海軍節度使・交阯郡王とした。
  • 四月、石保吉が卒した。五月、契丹国母の葬により朝を廃し辺城の楽を禁じた。
  • 七月、羣臣が汾陰后土祭祀を三度請うた。
  • 八月、陳堯叟を祀汾陰経度制置使、王旦を大礼使、王欽若を礼儀使とした(汾陰祭祀の準備)。
  • 十一月、陝州の黄河が清んだ。丁謂らが大中祥符封禅記を上った。この歳、龜茲・占城・交州が来貢、陝西が饑饉、江淮南が旱害となった。

(末尾「宋史巻七」。眞宗三の記事(大中祥符四年以降)は次篇に続く。)