宋史卷二 本紀第二 太祖二
乾德三年(965年)
- 春正月、出師のため朝賀の儀を行わなかった。王全斌が劍門を攻略して一万余級を斬り、蜀の樞密使王昭遠・澤州節度趙崇韜を捕えた。戦死者の弔いを命じ、利州を取り、蜀主孟昶が降伏、州45・県198・戸53万4039を得た。高麗国王が使者を遣わして朝貢した。
- 吏部郎中鄧守中が試験の不正で処分され、劉光義が萬・施・開・忠の四州と遂州を取り、王全斌ら伐蜀の軍が蜀の降兵2万7000人を成都で殺害した。
- 三月、義倉を置いた。両川で賊が蜂起し、先鋒都指揮使高彦暉が戦死。南唐・呉越が進物を献じ、蜀の臣に鞍馬車乗を給した。
- 五月、幕職官の異動制度を改め、開封尹光義(のちの太宗)が孟昶を玉津園でねぎらい、崇元殿・大明殿で宴を賜った。六月、孟昶を中書令秦国公とし、まもなく孟昶は薨じ、楚王を追封された。
- 秋、珍州刺史田景遷が内附。九月、諸道の兵を閲し騎軍を驍雄、歩軍を雄武と称し親軍に隷させた。十二月、婦の舅姑の喪の礼を定めた。甘州回鶻・于闐国王らが馬千匹・槖駝五百頭・玉五百囲・琥珀五百斤を貢いだ。
乾德四年(966年)
- 春、蜀の群臣家に銭帛を賜い、丁徳裕らに西川を巡撫させた。西川の今年の夏税と諸徴の半分を免除、田を耕せない者は全免した。占城国が来献。
- 契丹の天徳軍節度使于延超が子とともに降った。進士李藹が釈氏を毀損した罪で黥杖配流された。
- 六月、東阿・観城の河決。人臣の家が私に宦者を養うことを禁じ、内侍は30歳以上でのみ養子を許した。
- 秋、蜀官の疾病者に医薬銭帛を給し、西南夷の首領董暠らが内附。西川行営の将士に銭帛を賜り、劒南蜀の米麦の徴発を罷めた。
- 八月、蜀の倍息(高利貸)を除いた。呂餘慶・薛居正らを吏部侍郎とし、宰相趙普が贓罪で死刑を論じられたが恩赦により沙門島に流され、まもなく赦されず留まった。
- 九月、水虎捷指揮使孫進龍・龍衛指揮使呉瓌ら27人が呂翰の乱に与した罪で誅殺され一族も夷された。占城が馴象を献じた。十月、太常に古の二舞を復させ、諸郡に古帝王陵廟を建て守戸を置いた。十二月、妖人張龍児ら24人が誅殺された。
乾德五年(967年)
- 正月、河隄を治め、王全斌ら伐蜀の将が蜀の財貨を掠奪し降兵を殺した罪で節度使から降格された。伐蜀の功を賞し曹彬・劉光義らの爵位を進めた。
- 三月、翰林学士・常参官らに人材推薦を命じ、趙普を尚書左僕射兼門下侍郎同中書門下平章事とした。北漢の石盆砦招収指揮使閻章が来降。
- 五月、京城の貧民に衣を賜い、北漢の鴻唐砦招収指揮使樊暉が来降。王溥を太子太傅とした。
- 秋、銅仏像の毀損を禁じ、水旱の被災戸の今年の租を免除。九月、贓罪の倉部員外郎陳郾が処刑された。十二月、新小・鐡鑞銭や布帛への粉薬混入を禁じ、麟州を建寧軍節度に昇格。趙普は母の喪に服したが起復された。
開寳元年(968年)
- 正月、京城・陝の集津・絳の垣曲・懐の武陟を増治し、饑饉を賑済した。北漢の偏城砦招収指揮使任恩らが来降。三月、県令尉の捕盗令を頒布。
- 五月、南唐に米麦十万斛を賜り、六月、田が霖雨で被害を受けた民の今年の夏税を免除。荆蜀の民は祖父母・父母が在るうちは子孫が財産を分けて別居することを禁じた。
- 秋、鐡騎営の軍に銭・羊・酒を賜り、北漢の穎州砦主胡遇らが来降。北漢主劉鈞が卒し養子継恩が立った。
- 八月、招討使李継勲らに北漢征討を命じ、九月、辛已、北漢の供奉官侯霸栄が主の継恩を弑し継元が立った。
- 十一月、南郊で祭祀を行い開寳と改元、大赦し十悪・殺人・受贓の官吏は赦さなかった。宰相趙普らが上奏して尊号「応天広運大聖神武明道至徳仁孝皇帝」を奉った。大食国が来献。
開寳二年(969年)
- 二月、李継勲を河東行営前軍都部署として北漢討伐の軍を発し、韓仲贇らに契丹に備えさせた。開封尹光義が上都留守となり親征に発した。
- 三月、李継勲が太原城下で北漢軍を破り、太原を包囲。汾水を引いて城を灌ぎ、四方に砦を築いた。五月、王庭義・石漢卿が戦死。北漢の趙文度が嵐州で来降。閏三月、魏仁浦が薨じ、李光賛の建言で班師を決めた。
- 七月、封禅寺に幸し、鎮・深・趙・刑・洺五州の管内の鎮砦県をすべて城壁を築かせた。西南夷順化王子武才らが来献。
- 冬十月、散指揮都知杜延進らの謀反が誅された。十一月、囬鶻・于闐が来献。十二月、宰相趙普の疾を視た。西川兵馬都監張延通らが不遜の罪で誅・杖配された。
開寳三年(970年)
- 正月、河堤を増治し、孝弟や篤行の民を推挙させた。三月、進士15挙以上の司馬浦ら106人に出身を賜い、王昭素を国子博士として致仕させた。
- 五月、京城の民の兵器保有を禁じ、七月、蜀州県の官を戸口により差第し禄を加え、他路にも及ぼした。
- 九月、潘美を貴州道兵馬行営都部署とし南漢討伐の軍を発した。十月、賀州を陥落させ、十一月、昭・桂の二州を下し、十二月、潘美らが連州・韶州を下した。
開寳四年(971年)
- 正月、諸道州県の摂官を罷め、潘美らが英・雄二州を取った。二月、南漢主劉鋹が降伏を上表し、潘美が広州を克して劉鋹を虜とし広南を平定、州60・県214・戸17万263を得た。広南は二税を免ぜられた。
- 三月、広南で人を売買し利を得ることを禁じ、六月、劉鋹の俘を釈放して大明殿で大宴し、伐広南の功を賞して潘美・尹崇珂らの爵位を進めた。南漢の官には試験の上、任官させた。
- 八月、文武百官が尊号を上ろうとしたが許さず。十月、黄金偽造の罪を棄市とした。十一月、南唐主李煜が国号除去を乞い許された。十二月、南郊祭祀を行い十悪・故劫殺・受贓者を赦さなかった。
(本篇末尾、次篇の開寳五年冒頭に続く。「畋近郊」で本文が終わり、「宋史巻二」で結ぶ。)