宋史卷一 本紀第一 太祖一

出自と生い立ち

  • 太祖(啓運立極英武睿文神徳聖功至明大孝皇帝)、諱は匡胤、姓は趙氏、涿郡の人。
  • 高祖脁(僖祖)は唐で永清・文安・幽都令を歴任。曾祖珽(順祖)は藩鎮に仕え御史中丞を兼ねた。祖敬(翼祖)は營・薊・涿の三州刺史を歴任。父弘殷(宣祖)は後周顯徳年間に左驍騎衞上將軍を贈られた。
  • 宣祖は驍勇で騎射に優れ、趙王王鎔の五百騎を率いて後唐荘宗を援け功があった。荘宗はその勇を愛して禁軍に留めた。後漢乾祐中、王景討伐で鳳翔にて蜀の援軍と戦い、矢が左目に刺さっても奮戦して大敗させた。その功で鐵騎第一軍都指揮使に遷り、右廂都指揮・岳州防禦使を経て淮南遠征に従軍、呉軍を撃退した。顯徳三年の揚州平定戦で世宗と壽春に会し、太祖と共に禁兵を分典した。検校司徒・天水縣男に至り、没後武清軍節度使・太尉を贈られた。
  • 太祖は宣祖の次子。母は杜氏。後唐天成二年(927年)、洛陽夾馬營に生まれた。生誕時に赤光が室を巡り異香が一夜消えず、体に金色があり三日消えなかったという。長じて容貌雄偉、器量が大きく、識者はただ人でないと知った。騎射に優れ、悪馬に無理に乗って落馬しても無傷だったなど、若い頃から異才の逸話が伝わる。
  • 後漢初、各地を放浪し襄陽の僧寺に寄宿した際、老僧に「北へ行けば運が開ける」と予言された。後周太祖が樞密使として李守貞討伐の応募に加わり、その麾下となった。廣順初、東西班行首・滑州副指揮に補せられ、世宗が開封尹の時は開封府馬直軍使に転じた。世宗即位後、禁兵を統率。
  • 北漢が契丹と結び侵攻すると、世宗はこれを討ち高平で戦った。指揮官樊愛能らが先に逃げ軍が危機に陥ると、太祖は同列を率いて敵陣に突撃、漢兵を大敗させた。河東城攻めでは左腕に流矢を受けたが世宗に制止されて退いた。殿前都虞候・嚴州刺史を拝命。
  • 顯徳三年、淮南遠征に従い渦口で南唐軍を破り、將何延錫らを斬った。皇甫暉・姚鳳が十五萬と号する軍を率いて清流關に拠ったが、これを撃退。暉との一騎打ちで自ら刃を振るい暉を斬り姚鳳を捕えた。宣祖の軍と合流し城下で開門を促した際「父子固より親なれど、啓閉は王事なり」と言い、翌朝入城した。
  • 韓令坤の揚州攻めで南唐の援軍に対し、太祖は二千の兵で六合に赴き「揚州兵で六合を過ぎる者は足を斬る」と令して軍を固めさせ、齊王李景達を六合東で破って首萬余級を得た。殿前都指揮使・定國軍節度使を歴任。
  • 顯徳四年、壽春攻めで連珠砦を抜き壽州を陥落させ、義成軍節度使・檢校太保・殿前都指揮使を兼ねた。冬の濠泗遠征では十八里灘の南唐砦を、世宗が槖駞での渡河を議する間に単騎で先に渡り攻略。泗州も陥とし、清口の南唐軍を追って山陽に至り節度使陳承詔を捕虜とし、楚州を抜き江口・瓜歩でも南唐軍を破った。
  • 淮南平定後、南唐主は太祖の威名を恐れ、世宗への使者に託して太祖へ白金三千兩を贈ったが、太祖はすべて内府に納め離間策を防いだ。顯徳五年、忠武軍節度使に改まる。
  • 顯徳六年、世宗の北伐で水陸都部署となり、瓦橋關で守將姚内斌を降し、關南を平定。この頃、世宗が四方からの文書の中に「點檢作天子」と記した木片を見つけ怪しんだ(当時の點檢は張永徳)。世宗が病で還京すると太祖は檢校太傅・殿前都點檢に任じられ張永徳に代わった。恭帝即位後、歸徳軍節度使・檢校太尉に改まる。
  • 顯徳七年(960年)春、北漢が契丹と結んで侵攻したため出師、陳橋驛に至った軍中で天文の異変が語られ、夜、軍士が驛門に集い點檢を天子に推戴しようとした。制止しても衆は聞かず、太宗が太祖に知らせ、諸校が刃を並べて庭に列し「三軍に主無し、太尉を天子に推す」と言い、黄衣を太祖の身に加えた。衆は拝礼して萬歳を呼び、太祖は馬に乗り「号令に従えるか」と将らに問い、皆下馬して従うことを誓った。太祖は「太后・主上は皆北面して事える。汝らは大臣を驚かせ府庫・士庶を侵掠してはならぬ、従えば重賞、違えば族誅」と命じた。
  • 副都指揮使韓通がこれに抗しようとしたが、王彦昇がその邸で韓通を殺した。太祖は明徳門に入り甲士を営に帰らせ、公署に退いた。宰相范質らが連れられて来ると、太祖は涙を流し「天地に背いた、今この事態に至った」と言った。列校羅彦瓌が剣を按じて「われらに主無し、今日必ず天子を得ねばならぬ」と質らに迫り、質らは階を降りて拝礼、文武百僚を召した。翰林承旨陶穀が周恭帝の禪位の制書を袖から出し、宣徽使が太祖を導いて庭で北面拝受させ、崇元殿に昇って袞冕を着け皇帝に即位した。恭帝と符后は西宮に遷され、恭帝は鄭王と改号、符后は周太后と尊ばれた。

建隆元年(960年)

  • 春正月乙巳、大赦し年号を建隆と改め、国号を宋とした。内外百官・軍士に爵賞を与え、貶降者を復し流配者を釈放、恩赦を告げるため使者を郡国に遣わした。丙午、諸鎮将帥に詔諭。戊申、南唐に賜書し、韓通に中書令を贈り礼をもって収葬させた。己酉、天地社稷を告祭、安州・華州・兗州を復して節度とした。辛亥、翊戴の功を論じ、石守信・高懐徳・張令鐸・王審琦・張光翰・趙彦徽らをそれぞれ節度使に任じ、他の領軍者も進爵させた。
  • 壬子、宰相・樞密・諸軍校に襲衣・犀玉帯・鞍馬を賜う。癸丑、南唐降将周成らを放って帰国させた。乙卯、諸州に使者を分けて振恤。丁巳、周宗正郭玘に周陵廟を祀らせ随時祭享。己未、宰相が二月十六日を長春節とする表を上げた。癸亥、周の天雄軍節度使符彦卿・雄武軍節度使王景・定難軍節度使李彝殷・荊南節度使高保融ら旧勢力にそれぞれ太師・太保・太傅・太尉の号を守らせ、他の節鎮者も進爵させた。甲子、皇弟殿前都虞候匡義に光義の名を賜う。己巳、太廟を建てた。
  • 鎮州の郭崇が契丹と北漢の軍がともに撤退したと報告。二月乙亥、母の南陽郡夫人杜氏を皇太后に尊ぶ。周の宰相范質・王溥・魏仁浦をそれぞれ司徒兼侍中・司空兼門下侍郎・尚書右僕射兼中書侍郎同中書門下平章事とし、樞密使呉廷祚を同中書門下二品とした。丙戌、長春節で群臣に衣を賜う。三月乙巳、御名・廟諱に触れる郡県名を改めた。丙辰、南唐主李景・呉越王銭俶が使者を遣わし御服・錦綺・金帛で祝賀。宿州の火災に振恤。壬戌、国運を火徳と定め色は赤、臘は戌の日とした。癸亥、武勝軍節度使宋延渥らに舟師で江を巡らせた。
  • 夏四月癸酉、竇儼が二舞十二楽の曲名・楽章を上奏。乙酉、玉津園に行幸、京城の各門で饑民に粥を賜った。丙戌、蔡河を浚渫。癸巳、昭義軍節度使李筠が叛き、歸徳軍節度使石守信に討伐させた。五月己亥朔、日食。庚子、昭化軍節度使慕容延釗・彰徳軍節度使王全斌に東道から出兵させ石守信と合流し李筠を討たせた。壬寅、竇儼が太廟の舞曲名を上奏。癸卯、石守信が長平で李筠を破る。甲辰、諸道に進討を命令。丙午、魏仁浦邸を見舞う。己酉、西京で周の六廟を完成させ官を遣わして遷座。丁巳、親征を詔し、樞密使呉廷祚を上都留守、都虞候光義を大内都點檢とし、天平軍節度使韓令坤に河陽への屯兵を命じた。己未、京師を出発。丁卯、石守信・高懐徳が澤州で李筠の軍を破り偽節度范守図を捕らえ、降兵数千を殺害、筠は澤州に逃げ込んだ。戊辰、王師が澤州を包囲。
  • 六月癸酉、赤星が心宿に出現。辛未、澤州を抜き李筠は焼身自殺、遺骨を埋め河東の相魏融を釈放し剽掠を禁じた。甲申、澤州の今年の租を免除。赤星が太微垣を経て上相を通過。乙酉、上党を討つ。丁亥、李筠の子守節が城を挙げて降り赦免、上党に至る。辛卯、大赦、死罪を減じ附潞三十里の今年の租を免除、戦没した将校の子孫を録用し丁夫に賦役の免除三年を与えた。甲午、永安軍節度使折徳扆が北漢の沙谷砦を破る。
  • 秋七月戊申、上党から帰還。壬子、范質邸を見舞う。甲子、艾穎を遣わして嵩慶陵を拝させる。乙丑、南唐が澤潞平定を賀して白金を献上。丁卯、南唐が輿服の品を献上。八月戊辰朔、崇元殿で入閣の儀を行う。辛未、郭玘に周廟を饗させる。壬申、貝州を永清軍節度に復す。甲戌、宰相に雨乞いを命じる。辛巳、周の武勝軍節度使侯章を太子太師とする。壬午、光義を泰寧軍節度に領させ殿前都虞候はそのまま。甲申、琅琊郡夫人王氏を皇后に立てる。戊子、南唐が澤潞平定を賀し金銀器・羅綺を千単位で献上。
  • 九月壬寅、昭義軍節度使李継勲が北漢の平遥県を焼く。癸卯、三佛齊国が方物を献上。丙午、玉冊を奉じ高祖(僖祖)を文獻皇帝、その妃崔氏を文懿皇后、曾祖(順祖)を恵元皇帝、妃桑氏を恵明皇后、祖(翼祖)を簡恭皇帝、妃劉氏を簡穆皇后、父(宣祖)を武昭皇帝と諡した。己酉、宜春苑に行幸。中書舎人趙行逢が従征の際に危難を避けたとして房州司戸参軍に貶される。己未、淮南節度李重進が揚州で叛き、石守信らに討伐させた。甲子、太原の俘虜が帰還。
  • 冬十月丁卯朔、内外文武官に冬衣を賜う。壬申、県を望・緊・上・中・下に定め三年に一度銓注。壬午、河が厭次で決壊。乙酉、晉州兵馬鈐轄荊罕儒が北漢の汾州を襲い戦死、龍捷指揮石進ら二十九人が救援怠慢で棄市。丁亥、揚州親征を詔し、都虞候光義を大内都部署、樞密使呉廷祚を権上都留守とした。戊子、諸道の長貳で異政を挙げられ碑を立てたい者は参軍が実を検じて報告させる。庚寅、京師を出発。
  • 十一月丁未、諸軍が揚州城を攻略し李重進は自焚。戊申、重進の一党を誅し揚州平定。諸軍に迎鑾で戦艦の演習をさせる。南唐主は畏怖し、その臣杜著・薛良が詭計で来奔したが、太祖は不忠を憎み杜著を蜀市で斬り、薛良を廬州の牙校に配した。己酉、揚州城中の民に米を振給(十歳以下は半分)、脅されて軍に入れられた者に衣履を賜い帰還させた。庚戌、攻城で死んだ役夫に絹三匹を賜い賦役を三年免除。乙卯、南唐主が使者を遣わし師を犒う。庚申、その子從鎰が来朝。十二月己巳、京師に帰還。丁亥、揚州から帰着。辛卯、泉州節度使留從效が藩を称した。

建隆二年(961年)

  • 春正月丙申朔、太后宮門で慶賀。庚子、占城国が使者を遣わし来朝。壬寅、造船務に行幸し水戦を観覧。戊申、揚州行宮を建隆寺とする。太僕少卿王承哲が挙官失実の罪で殿中丞に降格。壬子、商州の鼠害に賦を免除、宰臣に「近年、田を測る使者が功を求めて民を弊す」と戒める。丁巳、蔡水を潁に導く。己未、郭玘に周廟を饗させる。霊武節度使馮継業が馬五百・槖駞百・野馬十を献上。甲子、澤州刺史張崇詁が李重進に党したとして棄市。
  • 二月丙寅、飛山閣で礮車を観覧。壬申、五丈河を浚渫。癸酉、進士合格者十一名。荊南高保勗が黄金什器を献上。甲戌、城南で修水匱を観覧。丁丑、南唐が長春節の御衣・金帯・金銀器を献上。己卯、天雄軍節度符彦卿に粟を賜い、春夏の捕魚・射鳥を禁じる。己丑、竊盗律を定める。
  • 三月丙申、内酒坊で火災、酒工三十余人死亡、乗じて盗んだ者五十人のうち三十八人を捕斬。酒坊使左承規・副使田処巖は酒工が盗みを働いたとして棄市。閏月己巳、玉津園に行幸し「酔うことは礼儀に反する、宴で酔うたびに悔いる」と侍臣に語る。壬辰、南唐が誕生日賀の金器・羅綺を献上。丁丑、金・商・房三州の饑饉に振恤。癸未、迎春苑で宴射。
  • 夏四月癸巳朔、日食。壬寅、諸国に前代帝王賢臣陵冢の守戸を置く詔。己酉、無棣の男趙遇が皇弟を詐称し誅殺。己未、商河県令李瑤が贓罪で杖殺、左贊善大夫申文緯は失察で除籍。庚申、私鍊貨易・鹽・酒麹の律を頒布。五月癸亥朔、皇太后の病により雑犯死罪以下を赦す。乙丑、天狗が西南に落ちる。丙寅、三佛齊国が方物を献上。丁丑、安邑・解の両池塩を徐・宿・鄆・済に給す。庚寅、供奉官李継昭が官船を盗み売った罪で棄市。諸道の郵伝を軍卒による逓送に改める。六月甲午、皇太后が滋徳殿で崩御。己亥、群臣が聴政を請い従う。庚子、太后喪により時享を停止。辛丑、紫宸殿門で百官に会う。壬子、雨乞い。庚申、喪服を解く。
  • 秋七月壬戌、皇太后の殯により朝を受けず。辛未、晉州神山県の谷水から円径二丈三尺・重さ七千斤の鉄が出た。壬申、光義を開封府尹、光美を興元尹とする。己卯、隴州が黄鸚鵡を献上。八月壬辰朔、朝を視ず。壬寅、大辟は所属州軍に送って判決させる詔。甲辰、南唐主李景が死去、子の煜が嗣ぎ帝号の追尊を請い、これを許した。己酉、易定節度使同平章事孫行友が削官の上私第に帰された。辛亥、崇夏寺に行幸し三門の修築を観覧。女直国が使者を遣わし来朝。大名府永済主簿郭顗が贓罪で棄市。庚申、周の世宗実録が完成。
  • 九月壬戌朔、殿に御さず。南唐が金銀繒綵を献上。甲子、契丹の解利が来降。荊南節度使高保勗が弟保寅を遣わし来朝。戊子、南唐に使者を遣わし弔祭。冬十月癸巳、南唐が韓熙載・田霖を遣わし皇太后の葬に参会。丙申、樞密承旨王仁贍を遣わし南唐に礼物を賜う。戊戌、辺民が塞外の馬を盗むのを禁じる。辛丑、丹州で大雹。丙午、明憲皇太后を安陵に葬る。十一月辛酉朔、朝を視ず。甲子、太后を廟に祔す。己巳、相国寺に行幸、国子監にも行幸。癸酉、沙州節度使曹元忠・瓜州団練使曹延継らが玉鞍勒馬を献上。十二月壬申、回鶻可汗景瓊が使者を遣わし方物を献上。乙未、李継勲が北漢軍を破り遼州刺史傅廷彦の弟勲を献上。辛丑、新修河倉に行幸。庚戌、近郊で狩猟。癸丑、南唐・呉越に馬牛槖駞を賜う。

建隆三年(962年)

  • 春正月庚申朔、喪により朝賀を受けず。己巳、淮南の饑饉に振恤。庚午、迎春苑で宴射。甲戌、皇城を広げ、諸国長吏に播種を勧める詔。丙子、瓜沙帰義節度使曹元忠が馬を献上。庚辰、女直国の使者只骨が来献、諸国に道路居民への使役を禁じる詔。癸未、国子監に行幸。
  • 二月丙辰、再び国子監に行幸、迎春苑で従官を宴す。庚寅、文班官に賓佐・令録に堪える者をそれぞれ一人挙げさせ、不当な者は連坐とする詔。甲午、百官に朝対では時政の利病を陳べ諱を憚らぬよう詔す。乙未、滑州節度使張建豐が失火の罪で免官。己亥、竊盗律を改定。壬午、上が侍臣に「武臣にことごとく書を読ませ治道を通じさせたいがどうか」と問うたが左右は答えられなかった。甲寅、北漢が潞・晉に侵攻、守将が撃退。三月戊午朔、厭次で霜が桑を殺す。壬戌、三佛齊国が使者を遣わし来献。癸亥、雨乞い。
  • 丁卯、太清観に行幸、開封尹の後園でも宴射。己巳、大雨、大辟の罪は刑部が審覆するよう申し渡す。乙亥、南唐主に誕生日礼物を賜う。丁丑、女直国が使者を遣わし来献。丁亥、北漢の降人を邢・洺に移す。夏四月乙未、延州で大雪、趙・衛二州は旱。丙申、寧州で大雪、溝洫が凍る。戊戌、太清観に行幸。庚子、回鶻の阿督らが方物を献上。壬寅、丹州で雪二尺。乙巳、兄光済を邕王、弟光贊を虁王に贈り、夫人賀氏を皇后に追冊。五月甲子、相国寺に行幸し雨乞い、迎春苑で宴射。乙亥、海州で火災、太行の運路を開く。癸未、諸州の旱を検じさせる。甲申、戸役を均しくし隠蔽する者は罪する詔。
  • 六月辛卯、宿州の饑饉に振恤。癸巳、呉廷祚が雄武軍節度使を罷免。乙未、国子監に酒を賜う。丁酉、太清観に行幸。己亥、京畿・河北の死罪以下を減じる。壬寅、京師で雨。壬子、蕃部尚波于らが採造務を争い渭北で兵を犯し、秦州知事高防が撃退。乙卯、迎春苑で宴射、黄陂県に象が南から来て稲を食う。秋七月庚申、南唐が誕生日賀の金銀錦綺を千・万単位で献上。壬戌、南唐の降卒の弱者数千人を放って帰国させる。
  • 乙丑、舒州の菰蒲の新税を免除。丁卯、潞州で大雹。不法な内外軍を沙門島に配流。己卯、北漢の捉生指揮使路貴らが来降。辛巳、従臣十人を遣わし河北の旱を検じさせる。癸未、兗・済・徳・磁・洺五州で蝗害。八月癸巳、蔡河務の綱官王訓ら四人が糠土を軍糧に混ぜた罪で磔刑。乙未、知制誥高錫の言により賄賂で薦挙された者を告発する制度を作る。諸道司法参軍に律疏で試判させる詔、尚書吏部に書判拔萃科を挙げさせる詔。九月庚午、吐蕃尚波于らが伏羌県の地を帰す。壬申、武成王廟を修築。丙子、占城国が来献、桑棗の伐採を禁じる。
  • 冬十月乙酉朔、百官に冬服を賜う。丙戌、太清観、造船務で水戦観覧。己亥、岳臺に行幸し諸軍に騎射を習わせ、玉津園にも行幸。辛丑、樞密副使趙普を樞密使とする。辛亥、近郊で狩猟。十一月癸亥、奉使が請托するのを禁じ、県令の考課を戸口の増減による黜陟とする。丙寅、南唐がその臣顧彝を遣わし来朝。丙子、三佛齊国が李麗林らを遣わし来献、高麗国が李興祐らを遣わし来朝。己卯、近郊で狩猟。壬午、南唐に建隆四年の暦を賜う。十二月丙戌、県に尉を一員置き盗訟を治めさせ弓手を戸数に応じて置く詔。
  • 戊戌、蒲・晉・慈・隰・相・衛六州の饑饉に振恤。庚子、捕盗令を頒布。甲辰、衡州刺史張文表が叛く。この歳、周の鄭王が房州に出居した。

乾徳元年(963年)

  • 春正月甲寅朔、殿に御さず。乙卯、関西の郷兵を慶州に赴かせる。丁巳、畿内の河堤を修築。己未、南唐・呉越に馬・槖駞・羊を賜う。庚申、山南東道節度使慕容延釗に十州の兵を率いて張文表を討たせる。乙丑、造船務に行幸し戦船の建造を観覧。甲戌、荊南に水卒三千を発し延釗と潭州で合流させる詔。己卯、女直国が使者を遣わし来献。三月壬辰、周保権の将楊師璠が張文表を朗陵市で梟首。甲午、慕容延釗が荊南に入り、高継沖が朝廷への帰属を請い三州十七県を得た。乙未、潭州を克す。
  • 辛亥、澶・滑・衛・魏・晉・絳・蒲・孟八州の饑饉に廪を発し振恤。三月辛未、金鳳園で射を習い七発すべて中し、符彦卿らが馬を進め賀した。従臣に名馬・銀器を賜う。壬申、高継沖がその銭帛芻粟を献上。癸酉、新定律を頒布。戊寅、慕容延釗が三江口で破り岳州を下し朗州を克復、湖南平定、十四州一監六十六県を得た。夏四月旱、甲申、京城の祠廟で徧く雨乞いし夕に雨が降り、荊南・朗州・潭州管内の死罪を一等減じ、掠奪された財物は主に返還させる。乙酉、南岳に使者を遣わし祭る。丁亥、国子監・武成王廟に行幸、玉津園で宴射。
  • 庚寅、内銭を出して諸軍の子弟を募り習戦の池を掘らせる。辛卯、建隆応天暦の御製序が完成。壬辰、湖南平定の功に将士を賞す。癸巳、玉津園に行幸。丙申、兵部郎中曹匪躬が棄市、海陵塩城屯田副使張藹も不法により除名。庚子、荊南節度使高継沖が助宴の金銀羅紈・柱衣・屏風などを献上。錦・叙などの州が帰順。甲辰、三門の疏鑿を詔し、涇原・邠慶等州で蕃人を辺鎮将に補すのを禁じる。夏の西平王李彝興が犛牛を献上。乙巳、玉津園に行幸し諸軍の騎射を閲する。丙午、湖南の茶税を免除、陝州の塩井を禁じる。辛亥、澶州の民に種食を貸与。
  • 五月壬子朔、京城で雨乞い。甲寅、嶽瀆に雨乞いの使者を遣わす。乙丑、内城を広げる。庚午、荊南管内に符印を給す。癸酉、玉津園に行幸。六月乙酉、潭州諸県の無名の配歛を免除。壬辰、暑さで営造を罷め工匠に衫履を賜う。乙未、荊南の兵で帰農を願う者を許可。丙申、歴代帝王の廟を二年に一度饗し、漢光武・唐太宗の廟を立てる詔。己亥、澶・濮・曹・絳で蝗害、牢祭を命じる。庚子、百官が三度、楽を挙げることを請い、これに従い左右仗の千牛の員を減じる。丙午、雨。蜡祀廟社をすべて戍臘の一日に用いる詔。己酉、新池で水戦を習わせる命令。
  • 秋七月辛亥朔、州県に置く雑職・承符・庁子等の名数を定める。甲寅、湖湘で王事に殉じた靳彦朗の男承勲ら三十人を殿直に補す。丙寅、新池に行幸し役夫に銭を賜い、玉津園にも行幸。丁巳、安国軍節度使王全斌らが太原境に兵を入れ捕虜を献上、銭米を給して釈放。己未、疾病の親族を遺棄する者を罪する詔。癸亥、湖南の疫病に行営将校へ薬を賜う。丁卯、武成王廟・新池に行幸し水戦観覧。己巳、朗州の賊将汪端が州城に侵攻し都監尹重睿が撃退、荊南管内の夏税を半減する詔。甲戌、周保権の罪を釈す。乙亥、朗州城の修繕を詔し管内の夏税を免除。丁丑、近臣に分けて雨乞いさせる。己卯、重定刑統等の書を頒布。
  • 八月壬午、殿前都虞候張瓊が軍校史珪・石漢卿らに誣告され下吏、瓊は自殺。丙戌、給事中劉載を遣わし安陵を朝拝。丁亥、王全斌が北漢の楽平県を攻め降す。辛卯、楽平県を平晋軍とし降卒千八百人を効順軍とし銭帛を賜う。壬辰、九経挙人で下第の者に再試させる詔。癸巳、女直国が名馬を献上、登州沙門島の民税を蠲し船渡専用とする。丙申、北漢静陽十八砦の首領が来降、泉州陳洪進が使者を遣わし朝貢、斉州で河が決壊し京師で雨。己亥、契丹幽州岐溝関使柴廷翰らが来降。癸卯、宰相范質が百官を率いて尊号を上げようとしたが許さず。
  • 九月甲寅、三度の上表に従う。丙寅、広政殿で初めて楽を用いて宴す。丁卯、宣徽南院使兼樞密副使李処耘を淄州刺史に責める。戊辰、女直国が海東青の名鷹を献上。丙子、朝臣が貢挙人を公薦するのを禁じ、南唐に羊万口を賜い、汪端を朗州で磔刑。戊寅、北漢が契丹兵を引き入れ平晋を攻め、洺州防禦使郭進らを遣わし救援。冬十月庚辰、州県に徴科の簿籍を置く詔。己亥、近郊で狩猟。丁未、呉越国王が郊祀の礼として金銀珠器・犀象・香薬を万単位で進上。十一月乙卯、荊南節度使高継沖が郊祀の銀万両を進上。甲子、南郊で祭事を行い大赦、年号を乾徳と改め、百官が玉冊を奉じ応天広運仁聖文武至徳皇帝の尊号を上げた。丙寅、南唐が南郊尊号を賀し銀絹万を進上。丁卯、近臣に襲衣・金帯・器幣・鞍馬を賜う。乙亥、近郊で狩猟。
  • 十二月庚辰、殿前祗候李璘が父の仇として同僚陳友璘を殺し自首、義とみなし釈放。辛巳、開封府尹光義・興元尹光美にそれぞれ食邑を増し功臣号を賜い、宰相范質・王溥・魏仁浦を特進に進め封邑を加え、樞密使趙普を光禄大夫に加え功臣号を賜う。文武臣僚それぞれ階勲爵邑を進める。甲申、皇后王氏が崩御。辛卯、登州都督を廃止。己亥、泉州陳洪進が使者を遣わし白金千両・乳香・茶薬を万単位で貢納。己巳、南唐主が名で呼ばれることを願う上表をしたが許さず。
  • 閏月己酉朔、医官の技芸未熟な者二十二人を黜する。甲寅、近臣に雪乞いを命じる。丁卯、覆試の拔萃科で田可封・宋白・潭利用らが評価に適い賞を賜う。辛未、安陵の地を鞏県に卜する。乙亥、折徳扆が北漢軍を城下で破り将楊璘を捕える。太常が赤帝を感生帝として奉ることを議す。

乾徳二年(964年)

  • 春正月辛巳、諸国長吏に農耕を勧める詔、南陽に象が入り虞人がこれを殺し歯革を献上、京師で雨雪雷。癸未、迎春苑で宴射。甲申、四時聴選の式を著す詔、回鶻が使者を遣わし方物を献上。戊子、宰相范質が太子太傅、王溥が太子太保、魏仁浦は尚書左僕射のまま罷免。庚寅、趙普を門下侍郎同中書門下平章事、李崇矩を樞密使とする。壬辰、親試制挙三科は官庶を問わず閤門へ直接進状させる詔。甲辰、諸道の獄詞は大理・刑部が検詳し、中書門下が改正するに至れば重く罪する詔。乙巳、玉津園で宴射。丁未、県令・簿・尉は公事以外で村落に至らぬよう詔し、耄耋・篤疾の官には劾挙させる。
  • 二月戊申朔、北漢の遼州刺史杜延韜が城を挙げて降る。癸丑、陝州の饑饉に振恤、潩水を京に導く。丁巳、安陵の隧道が壊れ役兵二百人が圧死、瘞恤を命じる。庚午、府州が北漢の衛州刺史(闕)楊璘を捕らえ献上。甲戌、南唐が安陵改葬の銀綾絹を万単位で進上、汴河を浚渫。三月辛巳、教船池に行幸し水軍将士に衣を賜い玉津園でも宴射。乙未、北漢の耀州団練使周審玉らが来降。丁酉、五嶽に雨乞いの使者を遣わし、臣僚が私に往来し官軍を仮り部送させるのを禁じる。辛丑、攝太尉光義を遣わし明憲皇太后に昭憲皇后、賀氏に孝恵皇后、王氏に孝明皇后の諡を上げる冊寳を奉じさせる。
  • 夏四月丁未朔、賢良方正直言極諫科で博州判官頴贄が中第。戊申、河中の饑饉に振恤。己酉、今年苗の無い諸道の夏税を免除。乙丑、昭憲皇太后・孝明皇后を安陵に葬る。乙丑、初めて参知政事を置き兵部侍郎薛居正・呂餘慶を任じる。己巳、霊武の饑饉に涇の粟を転じて饟する。壬申、二后を別廟に祔す。永州の諸県で蠱を畜う民三百二十六家を県の僻地に徙し、郷での交際を禁じる。五月己卯、知制誥高錫が藩鎮の賂を受けた罪で萊州司馬に貶される。辛巳、宗正卿趙礪が贓罪で杖打ち除籍。癸未、玉津園で宴射。六月己酉、光義を中書令、光美を同中書門下平章事とし、子の徳昭を貴州防禦使とする。庚申、相国寺・教船池・玉津園に行幸。辛未、河南北・秦の諸州で蝗害、趙州のみ食害を免れる。
  • 秋七月乙亥、春州で暴水が民を溺れさせる。庚辰、郃陽で雹。辛巳、玉津園・新池に行幸し水戦観覧。辛卯、翰林学士陶穀・竇儀らに藩郡通判に堪える者をそれぞれ一人挙げさせ、不当な者は連坐とする詔。九月甲戌朔、周易博士奚嶼が乾州司戸に、庫部員外王貽孫が左贊善大夫に責められる、任子の試を不公にした罪。戊子、延州で雹。乙未、北郊で稲の実りを観る。辛丑、太子太傅范質が薨去。壬寅、潘美らが郴州を克す。冬十月戊申、周の紀王熙謹が薨去し朝を輟める。十一月甲戌、忠武軍節度使王全斌を西川行営前軍兵馬都部署、武信軍節度崔彦進を副とし歩騎三万を率い鳳州道から、江寧軍節度使劉光義を西川行営前軍兵馬都部署、樞密承旨曹彬を副とし歩騎二万を率い帰州道から、蜀を伐たせる。
  • 乙亥、崇徳殿で西川行営将校を宴し川峡の地図を示して攻取の方略を授け、金玉帯・衣物をそれぞれ賜う。壬辰、近郊で狩猟。十二月乙巳、広南郴州都監陳琄ら二百人を釈放。戊申、劉光義が夔州を抜き蜀の節度使高彦儔が自焚。丁巳、帰峡の秋税を免除。辛酉、王全斌が万仞・燕子二砦を克し興州を下し、連ねて石圌等二十余砦を抜く。甲子、光義が巫山等の砦を抜き蜀将南光海ら八千級を斬り戦棹都指揮袁徳宏ら千二百人を捕える。全斌の先鋒史進徳が三泉砦で蜀人を破り節度使韓保正・李進らを捕える。南唐が銀二万両・金銀器皿数百を進上。庚午、山林に潜匿する者の招復を詔す。辛未、北郊で狩猟。