宋名臣言行錄外集卷七十五 蔡元定

蔡元定(字は季通、号は西山先生、建州建陽の人、?–戊午の年)。朱熹に最も長く師事し、天文・地理・楽律・暦数・兵陣に精通した高弟。慶元の党禁で沈継祖の誣告を受け道州へ流罪となり、配所で没した。『律呂新書』の著者としても知られる。

年表(4件)

出自と経歴

  • 蔡元定、字は季通、号は西山先生。建州建陽の人で、朱熹(晦菴)に師事した。慶元初年、党禁の禍が起こり、勅を奉じて道州へ編管(流罪の一種)となり、翌年配所で没した。嘉定三年夏、勅により迪功郎を追贈された。

慶元の党禁――誣告と流罪

  • 慶元丙辰、御史の沈継祖が「朱熹は張載・程頤の説を剽窃し、喫菜事魔(邪教)の妖術を装って後進を惑わし、浮誇な言辞で私に品評を立て、四方の無頼の徒を集めて党を増やしている。粗食を共にし衣は褒帯博(大きな帯・広い袖)を着し、広信の鵝湖の寺で集会したり長沙の敬簡堂に潜んだりして、鬼や蜮のように姿を隠している。その徒の蔡元定は妖術を助けている」と上奏し、蔡元定を他州へ配流するよう求めた。

護送への態度

  • 丁巳正月、朱熹はちょうど諸生と講論していたところに小報(急報)が届いたが、しばらく様子を見てから講論に戻り、言葉遣いや表情はむしろ穏やかであった。翌朝になって諸生は詔の内容を知った。
  • 郡県は蔡元定を急ぎ捕らえたが、蔡元定は顔色一つ変えず毅然として道を進んだ。朱熹をはじめ従学した百余人が蕭寺(お寺)で見送り、涙する者もいた。朱熹は蔡元定が平時と変わらぬ様子を見て、「朋友相愛の情も、季通の挫けぬ志も、両方とも見事に得られたと言えよう」と述べ、さらに「季通の道中、少しも意に適わぬことがなかったが、丘子服(門人)だけは涙を流し名残を惜しんで止まらなかった。事を処するにも困窮する友を憐れむにも、その両方の道を得ている」と語った。

護送途中の逸話(別録より)

  • 別録によれば、朱熹が浄安寺に蔡元定を訪ねた際、蔡元定は府から舟に乗って配所へ向かう途中で浄安寺に立ち寄った。朱熹は寺門を出て迎え、方丈で座し、寒暄の挨拶以外に労いの言葉はなく、連日読んでいた『参同契』の疑問点を蔡元定に問い、蔡元定が洒然として答えた。しばらくして皆で酒を酌み交わし、寺前の橋の上に座って飲み、寺に戻ってまた飲んだ。朱熹は酔って眠り、皆がまだ橋の上で飲んでいるとき、詹元善だけがすぐに退出した。朱熹はこれを見て「この人は富貴の気がある」と評した。

朱熹の書簡

  • 朱熹は書簡で「遠く別れることを思うたびに悵惘の念に堪えない。読書して理を玩ぶにも語り合う相手がなく、これは常人の離別の思いとは比べものにならない。連日『参同契』を読んで趣きを得、『千周万遍』(繰り返し誦読すれば理解が深まる)が虚言でないことを知った」と述べた。
  • また「平生共にいたときはその楽しさに気づかなかったが、別れてから事欠くことを痛感する。実に嘆かわしい」とも述べた。
  • 「読書講学のたびに問い質す相手も語り合う相手もなく、いよいよあなたの徳を仰ぐ深さを感じる。足の病でうまく歩けず気血も日々衰え、残りの日々も多くはないだろう。病中に塊のように座り心を休めることもできず、書物を繙くたびに前人の粗略な誤りに気づき人に告げたくなるが、告げる相手がおらず、著述の念がまた起こる。これも閑居の中の一つの魔障であり、力を尽くして去ろうとしてもできない。かつて共に語り合った楽しみを、この生でまた味わえるものか分からない」と嘆いた。
  • 「季通が一度旅立って江湖表裏の形勢をつぶさに観察したことは無益ではなかったが、共に行けなかったことを深く恨む。その律書の法度は極めて精緻で、近世の諸儒も及ばない。ただ律管の吹奏がまだ整っておらず、帰ってからさらに細かく検討する必要がある」とも述べた(以上、朱熹の書簡による)。

訃報と哭辞

  • 戊午の年、蔡元定が没すると朱熹は慟哭し、冬十月に祭文を捧げて「亡き友、西山先生蔡君季通の柩が遠く舂陵より故里に帰る。謹んで家庭料理と一羽の鶏、一斗の酒を柩前に供える」と述べた。また黄榦(勉齋)への書簡で「季通の柩はすでに陳坂の上の一寺に帰った。すでにその前に墓地を買い、この冬に葬る。万事すべて終わった、もはや何を言おうか。慟哭の後、自らも病に伏している」と伝えた。
  • 十一月六日、朱熹は息子を遣わして葬儀に祭らせ、出発に際して哭して見送り、「季通よ、まさかこうなろうとは。精詣の識見、卓絶の才、屈することなき志、窮まりなき弁論を、もう二度と見ることができない。天がこの人を生んだのは、果たして何のためだったのか。西山の頂に君は住居を選び、西山の麓に君を葬る地を占った。わたしは君が生きているうちに、ついにその廬を訪ねて『半山の約』を果たせなかった。今日もまた病躯を運んで君の亡骸を見送ることができず、これが永訣となる。共に遊んだ好誼、志を同じくした楽しみも、もはやこれまでだ」と嘆いた。

蔡元定の学識

  • 西山(蔡元定)は朱熹に最も長く師事し、精識博聞は同輩の及ぶところではなかった。義理の大原はすでに心で通じ意で解しており、とりわけ天文・地理・楽律・暦数・兵陣の説に長じていた。古書の錯綜した難所は、学ぶ者が句読すら取れないほどだったが、蔡元定は爬梳剖析して細部まで秋毫のごとく解き明かした。朱熹が『易』を論じて河図洛書や邵雍の『皇極経世書』『先天図』に本づけたのも、蔡元定との往復議論から発したことが多かった。それゆえ蔡元定の流罪の際には語り合う相手を失ったことを恨み、その死には深く哀悼を捧げた。

黄榦(勉齋)の評

  • 黄榦は「朱熹先生の門に学ぶ者は多いが、公(蔡元定)が来ると先生は必ず数日引き留め、しばしば夜通し語り合って寝る間も惜しんだ。先生に学ぶ者は帰り際に必ず公の家に立ち寄り、その言論を聞いて立ち去りがたく、皆充実した収穫を得た。公は英邁の気を持ち該洽の学を蘊み、知は道徳性命の原を極め、行いは家庭の慎み深さに至った。晦翁の門下でも傑出した存在と言えよう」と評した。

劉爚(文簡公)の墓表

  • 劉爚(文簡公)は公の墓表で「先生は天資高く道を聞くのが早く、読まない書はなく論じない事はなかった。陰陽消長の運行に明るく古今盛衰の理に達し、天時を稽え人事を考証してすべてに明証があった。礼楽兵制度数はその流れを正して一に帰し、方技曲学異端邪説はその根を抜いてその非を弁じた。古書の奇辞奥旨で人が読めないものも一目で理解した。朱熹(文公)はかつて『人は易を読むのは易しいが書を読むのは難しいと言うが、季通は書を読むのは易しく易を読むのが難しいと言う』『造化の微妙は理を深く究めた者のみが識ることができる。わたしは季通と語って倦むことがなかった』と語った。先生は家では孝弟忠信をもって子孫の模範とし、人を教えるには性と天道を先にし、根本から枝葉へ、源から流れへと説き、聞く者は皆奮い立った」と記した。
  • 「朱熹が人を教えるのに訓詁文義を先にし下学して上達させるのは常の順序だが、世が衰え道が微かになり邪説が交々起こる中で、学ぶ者はまだ本原を知らず異端の説に惑わされないとは限らない。それゆえ朱熹は晩年、後学を導くのに隠すところがなかった」とも述べられている。

『律呂新書』とその序

  • 蔡元定は『律呂新書』を著し、朱熹はこれに序を寄せた。「古楽が失われて久しいが、秦漢の頃はまだ周から遠くなく、楽器や音声も残っていたため、その道が当時行われなくとも法にまだ異論はなかった。東漢末から西晋初にかけて次第に諸説が分かれ、魏・周・斉・隋・唐・五代を経て論者はますます増え法はますます定まらなくなった」。
  • 「我が朝に至り、建隆・皇祐・元豊の間にも三たび意を用いたが、胡瑗・阮逸・李照・范鎮・馬光祖・劉几・楊傑ら諸賢の議論も一致を見なかった。まして崇寧・宣和の末の姦諛の時代、靖康の変以後にあって天地の和を語る余裕などなかった」。
  • 「丁未の南狩(靖康の変)から六十年、神人の憤りもまだ晴れない状況で稽古礼文の事に構う暇もなく、学士大夫も鐘律に意を用いる者がなかった。友人の蔡元定はこの時代に独りこの学を好み力を尽くして求め、遠近を捜し巨細を捐てず、数年の蓄積を経て著書二巻をなした」。
  • 「その言葉は明白深遠、緻密で通暢、牽合付会の説によらず、珠が盤から出ないように筋道が通っている。近世未詳の説を多く含むが、実際には一字も古人既成の法に基づかないものはない。黄鐘の囲径の数は漢の觚(酒器)の積分で考証でき、寸を九分とする法は淮南・太史・小司馬の説で推せる。五声二変の数、変律半声の例は『通典』に、変宮変徴が調とならない理は『礼疏』に見える。先に声気の元を求めそこから律によって尺を生む法はとりわけ卓越しており、両漢の志や蔡邕の説、国朝の『会要』、程子・張子の言にも散見するが、読者が深く考証しないためにこの説を得ても他を失うことが多く、定論を欠いていた」。
  • 「季通はその独自の見解を奮い起こし、超然として遠く見渡し、爬梳剔抉、比較参照を重ね、半生の力を尽くしてついに豁然として融会貫通した。実に勤勉というべきだ。その論を著すにあたっても根本を推し究め条理を整え、機要を撮取し精微を闡明にし、浮わついた濫説で乱すことがなかった。まさに書の体を得たと言えよう」。
  • 「国家がまもなく中原を平定し中天の運を開くとき、必ず音を審らかにし律を協せて神人を諧和させる時が来る。そのとき詔を受けてこれを掌る臣がこの書を得て奏すれば、東京の郊廟の楽も、後世に理解者を待つ必要なく整うだろう」。
  • 朱熹はさらに「季通の書は言葉が簡約で理が明白であり、読みやすいはずなのに読む者はしばしば読み終える前に欠伸をして眠くなり、その趣旨を理解しきれない。わたしのような頑鈍な者ですら数回熟読してようやくその大意の彷彿を得たに過ぎない。季通はこれをもってわたしを己の志を理解する者と認め、序文を託されたので断れなかった」と述べ、「季通はさらに均調節簇の管を集めて別に楽書を作りその業を究めようとし、余力で諸葛亮の六十四陣図を発揮し邵雍の『皇極経世』の暦を整理して一家の言を大成しようとしていた。その意気込みは実に旺盛であった。わたしも老病の身だが、もし完成を見ることができれば千古の一快事であろう」と結んだ。

楽律研究への評

  • 朱熹はまた「季通は楽律を理会するのに大いに心力を注ぎ、多くの書物を読み込んでいる。『史記』律暦書のような既存の文献にも人が見落としていたところまで目を通し、近ごろまた一律を作って古法にすべて合わせようとしている」と評した。

『皇極経世』の暦数論

  • 蔡元定は邵雍の『皇極経世』の暦数について「元・会・運・世の数は大きくて見えず、分・釐・絲・毫の数は小さくて察せない。数えられるのは歳・月・日・辰である。一世は三十歳、一月は三十日であるから歳と日の数はいずれも三十。一歳は十二月、一日は十二辰であるから月と辰の数はいずれも十二。歳月日辰の数から上に推せば元会運世の数が得られ、下に推せば分釐絲毫の数が得られる。三十と十二を反復して掛け合わせると三百六十になるため、元会運世・歳月日辰の八つの数はいずれも三百六十である。三百六十に三百六十を掛けると十二万九千六百になるため、一元は十二万九千六百歳、一会は十二万九千六百月、一運は十二万九千六百日、一世は十二万九千六百辰である。同様に、一歳は十二万九千六百分、一月は十二万九千六百釐、一日は十二万九千六百毫、一辰は十二万九千六百絲であり、これらはすべて天地の自然の数であって知恵や力で作為したものではない」と論じ、天地の運行・日月の行度・気朔の盈虚・五星の伏見朓朒・屈伸・交食の浅深はすべてこの数によると説いた。
  • 漢以来、暦数の名家は太初暦と大衍暦のみで、太初暦は四千六百十七歳を元とし八十一を分とし、大衍暦は一百六十三億七千四百五十九万五千二百を元とし三千四十を分とする。いずれも付会牽合の要素があり、これで天地の数を求めれば誤差を免れないと蔡元定は論じた。これに対し朱熹は「康節(邵雍)の暦はもとより優れているが、季通の推算はさらに緻密である。実際の運用でどうなるかは分からないが、おそらく諸家より格段に優れているだろう」と評した。

追贈の詔

  • 嘉定庚午年夏、季通に初秩(初めの官階)を追贈した際の制詞に、「士の遇不遇は天による。あるいは生前に排斥されても死後に伸びることがある。天理は昭々として、久しくして定まらないことはない。汝の学問には源があり操履には瑕がなかった。門を閉ざして著述するだけで世に関わることはなかったが、不幸にも誣告を受け遠く流された。今、是非はすでに定まったが、汝はすでに世を去った。朕は深くこれを憐れみ、官を追贈して泉下の汝を慰める。死してもう贖うことはできないが、この栄誉を享けよ」とある。