出自と経歴
- 蔡沈、字は仲黙、号は九峯先生。西山先生・蔡元定の子である。九峯に居を構え、当世の名卿がその人物を求めて訪ねて登用しようとしたが、公は仕官を潔しとしなかった。紹定三年五月に没した。享年六十四。
父・元定と朱熹との学統
- 西山(父・蔡元定)は朱熹(晦菴)に師事したが、朱熹は「季通(蔡元定)はわたしの老友である」として、性と天道の妙で他の弟子には語らないことも必ず季通には語った。難解な篇や奥深い伝、微妙な言葉や突然の論点は、まず季通に討究させてから自ら折衷して定めた。それゆえ二人の問答をまとめた『翁季録』という書があり、朱熹は季通を自分に匹敵する者として引き合いに出していた。
- 公(蔡沈)は幼くして衣を着られるようになった頃から出入りするたびに父の教えに服し、外に出れば朱熹に師事した。朱熹は晩年に諸経の訓伝をほぼ整えたが、『書経』だけは手をつけられず、門下生の中で任せられる者を求め、ついに公に託した。「洪範」の数学は久しく伝が絶えていたが、西山だけがこれを独自に会得していたものの論著するには至らず、朱熹は「わが書を完成させるのは沈だ」と語った。
『書集伝』の完成
- 公は父と師の託を受け、常に責任の重さを感じながら、数十年にわたり沈潜反復してようやく完成させた。『書』については、序文の誤りを考証し諸儒の説を訂正して、二帝三王や聖賢たちの心を「洪範」「洛誥」「秦誓」などの諸篇において明らかにし、先儒がまだ及ばなかった見解をしばしば示した。
- 「洪範」の数について公は、「天地の撰を体するものは『易』の象であり、天地の撰を紀するものは『洪範』の数である。数は一の奇から始まり、象は二の偶から成る。奇は数の立つ所以であり、偶は象の存する所以である。ゆえに二を四とし八とするのが八卦の象であり、三を三として九とするのが九疇の数である。これによって八を八倍しさらに八倍すれば四千九十六となり象が備わり、九を九倍しさらに九倍すれば五百六十一となり数が周る」と論じた。
- 「『易』は四人の聖人(伏羲・文王・周公・孔子)を経てすでに象が著れたが、『洪範』は禹に授けられて数は伝わらなかった。後の論者は象数の源を知らず変通の妙を塞ぎ、象に即して数を作ったり、数に反して象を擬えたりした。『洞極』の書や『潜虚』の図もこれを試みたものではあるが、牽合付会によってかえって自然の数を晦ませてしまった」と批判した。
- 「天地が肇まり人物が生まれ万事の得失が生じるのは、すべて数によらないものはない。数の体は形に著れ、数の用は理に妙する。神を窮め化を知る者でなければこれを語るに足りない」とし、公はこの二書(『易』の象、『洪範』の数)の幽微を闡発してここに至った。まことに父と師の託に恥じないものであったと評される。
偽学の禁と流罪の父への随行
- 偽学の論が興り、父(聘君=蔡元定)が遠く舂陵へ流されると、公は数千里を徒歩で従い、九疑山の麓、楚と粤の最も窮僻な地に至った。山川風物は悲涼惨愴で住む者もこれに堪えられないほどであったが、公は父と対座してただ義理を語り合い自ら楽しみ、屈原の湘水に沈んだ嘆きや楚囚の泣くような悲哀は見せなかった。
- 父が不幸にも配所で没すると、公はまた徒歩で柩を護って帰郷した。金銭を贈る者があっても義に反すると受け取らず、「わたしはむしろ止まった所に埋葬されようとも、父にこれ以上の累を及ぼしたくない」と辞退した。
学問への専心
- 公はわずか三十歳で科挙のための学問を捨て、もっぱら聖賢を師とした。日常は天を仰ぎ地を俯して観察し、黙坐して終日を過ごし、天地の心と万物の情を瞭然と見出し、我が身に反り求めれば諸理がすべて備わっていることを知り、前聖の言葉が自分を欺かないことを確信した。
父の学問の継承
- 父(聘君)はかつて『律呂新書』を著し『八陣図』を演述し、いずれも朱熹(文公)から感嘆され重んじられたが、学ぶ者でその微妙な内容を窺える者は少なかった。ときにこれを公に問うと、公は毫分縷析して人を洒然として疑いを解かせた。天象の運行や陰陽の向背についても、掌を指すように明らかに説いた。
文才
- 公の文章は論弁に長じ、詩は若いころ李白を慕い、晩年には陶淵明・韋応物の系譜に入った。その吟詠に性情を表し造化を写す様は、朱熹の「感興」諸作にも通じるものがあり、単に詩人として自ら任じるだけの人物ではなかった。