宋名臣言行錄外集卷七十四 陳亮
陳亮(字は同父、婺州永康の人、?–紹熙五年、享年五十五)。孝宗朝に六度の上書で中原恢復の大計を論じ続けた在野の論客で、朱熹との王覇義利論争でも知られる。老いてようやく紹熙四年の廷試で光宗自ら首席に抜擢されたが、翌年に没した。
出自と経歴
- 陳亮、字は同父、婺州永康の人。壮年で「賢能の書」に首位で挙げられ、まもなく太学(璧水)の選に預かった。孝宗朝で六度朝廷に上書し恢復(中原回復)の大計を論じ、また闕下に伏して宰相が非才で天下の望みに応えられないと論じた。垂拱殿が成ると賦を進めて頌徳し、また「郊祀慶成賦」を進めたがいずれも取り上げられなかった。
- 光宗の即位に際し闕下に伏して「鑒成箴」を上ったが、これも取り上げられなかった。紹熙四年、進士に挙げられ、光宗自らこれを首席に抜擢し、建康軍節度判官に授けられたが、翌年に没した。享年五十五。
恢復への一貫した志
- 公は天資非凡で世を睥睨し、常に天下を経綸することを己の任と自任した。壮年で郷挙に推され太学博士弟子員に補せられた。生涯、讎(金への復讐)が雪がれていないことを国の大恥とし、六度朝廷に至って上書し、いずれも恢復を主眼とした。及第後の謝恩詩には「復讐は自ら平生の志、儒臣の鬢髪が白くなったなどと言うなかれ」の句があり、その忠誼の資質は老いてなお篤かった。
淳熙戊戌の上書
- 淳熙戊戌正月、闕下で上書し、おおよそ次のように論じた。「中国は天地の正気であり天命の集うところ、人心の会するところ、衣冠礼楽の萃まるところであり、百代の帝王が相承ける所以である。天地の外の偏邪の気が侵せるものではない。不幸にしてこれを侵し、中国の衣冠礼楽を偏方に寓するに至っても、天命人心はなお係るところがあるが、それは長く安んじて事なきものではない。天地の正気が数十年鬱遏されて久しく発揮されないのは必ずいつか発洩されるものであり、天命人心は決して偏方に留まり続けるものではない」。
- 「南渡の初め、君臣は敵と共に生きないと誓い、敗残の勢いから百戦の敵に勝つことができた。しかし秦檜が和議を唱えてこれを挫き、忠臣義士は南方に追われて死んだため天下の気は墜ちた。海陵王(金の完顔亮)が自ら死を招いた後は、淮南もまた兵戈のことを忘れてしまった。今、金人はすでに根を張って久しく、一挙に滅ぼすことはできない。国家の勢いもまだ振るわず、一朝で大挙することもできない。人情はみな和議を望み、上下がなれ合って苟安する土壌となっている」。この上書は取り上げられなかった。
再度の上書
- 再び上書し、おおよそ「陛下が復讐の志を励まし一隅に安んじないのは社稷への大功である。しかし杭州(浮靡の地)に居して中原を図るのは適した地ではなく、東南の安逸に慣れた民をもって進取を行うのは適した人材ではない。財は府庫に限られ天下の有無に通じず、兵は尺籍に限られ天下の智勇を兼ねられない。ゆえに遷延の計が行われ陛下の有為の志が阻まれている」と論じ、国家の本末と天下の形勢を陳べ、太祖(藝祖)皇帝が天下を経営した本旨に合うべきだと説いたが、八月を待っても何の反応もなかった。
三つの変通の道
- さらに、国家を維持する術も今や窮まっているが、変通の道には三つある――数十年を凌ぐ策、五、六十年の計、数百年の基を再び開く道――として、上書に述べたことを大臣が問うたら答える形で三事を述べた。
- 第一に、二聖(徽宗・欽宗)の北狩の禍は国家の大恥・天下の公憤であり、五十年経って人々の気概が失われたが、主上と大臣がこれを奮い立たせ、人々が私の讎のように思う心を興すべきである(『春秋』が衛人が州吁を殺したことを書いた意に等しい)。
- 第二に、国家の規矩準縄に縛られて臣下が過ちを正すだけで手一杯であり、大功を求める余裕がない現状を指摘した。
- 第三に、太祖が天下の士人を用いて武臣の任事を代えたため本朝は儒をもって国を立てその道が前代より優れているが、今の士は熟爛委靡としており、主上と大臣が方針を転じ士気を興し養えば、事に臨んで材を欠くことなく、国の規模も太祖の本旨に背かず武臣に頼らずとも禍乱を鎮められると論じた。大臣たちはこれを聞いて驚き、公を疎んじたため草莽の身では再び上奏する機会を得られなかった。
戊申の年の上書
- 戊申の年、再び上書し、「本朝は儒道で天下を治め格律で天下を守ってきたため、天下の人は経義を常程、科挙を正路と心得、法によって己の智を自由に用いることができなかった。二百年の太平はこれによって成ったが、艱難変故の際には、書生は議論の正しさを知っても事功が何かを知らず、節義を守ることは知っても形勢の何たるかを知らず、文法にとらわれて自ら脱け出せる者がいない。陛下が非常の人材を求めても、天下が誰を信じられよう」と論じ、自らの意見が用いられることを望んだ。
紹熙初の「鑑成箴」
- 紹熙の初め、皇帝(光宗)に「鑒成箴」一首を献じた。太祖の勃興と天下統一(揚州・李筠討伐、荊南・湖南の平定、後蜀・南漢・南唐の帰服、呉越の納国など)、太宗の親征と河東平定、真宗の契丹対応と澶淵の盟、仁宗(皇祖)の善政と元昊・儂智高への対応、靖康の難と徽宗・欽宗の北狩、高宗の即位と南渡・紹興の和議、孝宗(夀皇)の高宗への孝養と二十八年の在位、光宗の即位までの宋朝歴代の事跡を要約し、光宗に対して「酒色に溺れず、宰相を腹心とし台諫を耳目とし将帥を爪牙とし尚書を喉舌とし、俊良を登用し奸邪を斥け、天は高くとも常に対するがごとく慎み、民は弱くとも治乱に関わると心得よ。禍を蕭牆の内から起こさせず、患いを倉卒の間に生じさせず、私情で公議を曲げず、私刑で国律を損なわず、老成の人を侮らず、無益の物を貴ばず、みだりに民財を費やさず、みだりに土木の役を興さず、些細な機微も見過ごさず、厳しい号令にも人心の逆らいを侮らないように」と説いた。
- さらに「孝を尽くすことこそ明主の政、宰相を選ぶことこそ人主の職である。聖言を侮らず人心に逆らわず、公卿の言に耳を傾け帝王の術に心を遊ばせよ。和議が成ったからといって遠謀を怠らず、大位を得たからといって小さな過ちを疎かにするな。夏の禹王が寸陰を惜しんだように、周の文王が日が傾くまで食事を忘れたように努めよ。夏の桀王の瑤台瓊室や殷の紂王の暴虐に倣ってはならない。薄氷を踏むように、暴れ馬を御するように慎重であれ。小さな過ちも根を絶ち、小さな患いも穴を塞ぎ、左右前後には賢哲を用いよ。ただ王がこの心を戒めれば、民の悦ばぬ者はない」と結んだ。
朱熹との学問論争――王覇義利論
- 朱熹への書簡で「伊洛の諸公(程氏一門)は『三代は道をもって天下を治め、漢唐は智力をもって天下を把持した』と論じたが、この説自体人を心服させられない。近世の諸儒はさらに『三代は専ら天理、漢唐はただ人欲のみ』と言うが、もしこれが正しければ千五百年の間、天地はただ架漏(隙間を糊塗するだけ)で過ぎ、人心もただ牽補(つぎはぎ)で日を送っていたことになる。それで万物がどうして繁栄し道が常に存在できようか。この論は曹操以下の人物を評するには当たるが、漢唐全体を断ずるには不当ではないか」と論じた。
- 「高祖・太宗はもとより君子の射のようなものである。ただ御者(心の制御)が純粋な正でなかったため、その射は外れることもあったが、結局は暴を禁じ乱を戢め人を愛し物を利するという本領の宏大さゆえに成果を残した。三章の約(劉邦の法三章)は蕭何・曹参が教えたものではなく、天下の乱を定めたのも劉文靖(劉文静)が発起したものではない。これは儒者のいう『赤子が井戸に落ちるのを見る心(惻隠の情)』というべきものだ。本領が宏大開広であったからこそ、その発するところが一世を震動させたのだ」と論じ、「漢唐の君主に道の存亡が何ら与らないというのは言い過ぎだ」と主張した。
朱熹の反論
- 朱熹は「兄の高明俊傑さは世間の栄辱得失に動じるものではないはずだが、来書には不平の気が見える。おそらく平生才が高く気が鋭く、論が険しく跡が露わすぎることが災いし、長所に困り短所に疎くなっているのではないか」と応じ、「高帝(劉邦)はなお私意があり無に帰すとは言えないが、太宗(李世民)の心は一念も人欲から出ないものはなかったろう。ただ仁義を借りて私を行う才があり、当時競った者たちがそれ以下で仁義の借用すら知らなかったため、彼が優って見えただけだ。国家を建て伝世久しいことをもって天理の正を得たとするのは、成敗で是非を論じるものであり、獲物の多さだけを見て詭道を恥じないことになる」と論じた。
- 「千五百年、正にこのように架漏牽補で過ぎており、多少の小康があっても堯舜二王周孔が伝えた道は一日も天地の間に行われたことがなかった。道が常に存在するというのは、そもそも人が与れるものではなく、亘古亘今、常に存在し滅びない一物であって、たとえ千五百年の間人によって壊されても滅ぼすことはできない。漢唐の賢君とされる者たちも一分の力もこれを扶助してはいない」と反論した。
応酬の継続
- 朱熹はさらに「兄の人物は竒偉英特で、これまでの得失長短をあえて論う必要はない。ただ賢者にはさらに百尺竿頭一歩を進め、三代以下の人物に甘んじず、漢唐を弁護する気力を使わずに、より洒脱磊落になってほしいと願うのみだ」と述べた。
- 「人はただこの人、道はただこの道であり、三代と漢唐に区別があるわけではない。ただ儒者の学が伝わらず堯舜禹湯文武の相伝えた心が天下に明らかでないため、漢唐の君主が偶然暗合することがあっても、その全体はやはり利欲の上にあった。ゆえに堯舜三代は堯舜三代、漢祖唐宗は漢祖唐宗として、両者は決して一つになりえない」と論じ、「堯舜相伝の心法と湯武反之の工夫を凖則として身に照らし、漢祖唐宗の心術の微妙なところを痛切に検討し、その偶合するところを取りその悖戻するところを退けることでこそ、天地の常経、古今の通義を得られる」と説いた。
- 「約法三章は善いことだが結局三族の令を除けず功臣を粛清し、乱を除く志は善いことだが宮人を私かに侍らせるなど乱倫の事も自ら犯している。始終を挙げて言えば、義理に合う点は小さく少なく、合わない点は大きく多い。後の観る者はこの根本の欠を知らず、理に無害と誤解し、あるいは理に害があっても獲物の多さゆえに構わないと考えているに過ぎない」と述べた。
- 「点鉄成金の譬えは、教えを受けて過ちを改め善に遷る事に用いるべきもので、既往の古人の行いにはそのまま金か鉄か定まった形があり、後人の議論で変えられるものではない。今、功利の鉄を点じて道義の金にしようとするのは、無駄な労力であるばかりか、正しい見識を妨げ将来に害をなす恐れがある」と論じた。
- 「聖人は金の中の金、聖人に及ばず学ぶ者は金の中に鉄が混じっている。漢祖・唐宗の理に合う行いは鉄の中の金、曹操・劉裕の類はただの鉄である。金の中の金は天命の固有のもので、外から与えられたものではない。すでに持っている光明の宝蔵を捨てて鉄炉の傍らで零れた金を拾おうとするのは誤りではないか」とも論じた。
- また「大風が亭を吹き倒したのは天がなすべきことをなしたようなもので、洛陽の亭館を羨む必要もない」「孟子の『大人を見れば藐(かろ)んずる』という言葉を引き、真の大英雄は戦戦兢兢たる慎重さから生まれるもので、血気だけの粗豪な勇では役に立たない。老兄(陳亮)の志は宇宙より大きく勇は終古に亘っている。呂祖謙(伯恭)の評もこれを改めない。若者たちの中から気を吐く人物が出たことは慶事であり、事業の未来も期待できる」と朱熹は評した。
- 最後に朱熹は「兄は高明剛決で過ちを改めるのに吝かでない人だ。義利双行・王伯並用の説を退け、忿りを懲らし欲を窒ぎ善に遷り過ちを改めることに専念し、醇儒の道で自らを律してほしい。そうすれば人道の禍を免れるだけでなく、根本を培い源を澄ませることで、将来の事業もさらに光大高明になるだろう」と結んだ(以上、朱熹の書簡による)。
陳亮の自評
- 朱熹は道学の一世の師表とされたが、公はこれと繰り返し議論し、少しも遠慮しなかった。公は「理義の精微を研窮し古今の異同を弁析し、心を杪忽(微細)に原ね礼を分寸に較べ、積累を工夫とし涵養を正とし、晬面盎背(徳の充実が顔色に表れる様)を体現する点では、わたしは諸儒に対して恥じ入るところがある。しかし堂々の陣、正々の旗をもって風雨雲雷が交々発するように、龍蛇虎豹が出没するように一世の智勇を推し倒し万古の心胸を開拓する点では、世俗の言う『粗塊大臠、飽和して文に欠ける』者ながら、自らいくらかの長所があると思う」と述べた。
紹熙年間の廷試と首席抜擢
- 紹熙の天子(光宗)が多くの士を廷試し公を首席に抜擢した際の誥詞に、「三年ごとの大比は人がただ布衣から出仕する道と思うだろうが、太祖皇帝は『科を設け士を取るのは賢を得て天下を共に治めるためである』と言われた。大いなるかな王言、朕が法とすべきものである。廷試を再び行い汝を得た。汝は早くに文才で賢能の書に首位となり、まもなく上奏の論が慈宸(太皇太后)の耳を動かした。親しく大対を閲してその淵源を嘉し首席に置いた。おそらく天が朕に遺すために留め置いたのだろう」とある。
及第と謝恩の言葉
- 公は若くして文名を天下に知られながら老いてようやく及第し、常に不平の恨みを抱いていた。及第後、宰執への謝辞に「数十年窮居畎畆にあって豹変(立身出世)の思いを遂げられなかったが、五千言(上奏)が冕旒に達し、誤って龍頭(首席)に選ばれた」とあり、また「わたしのような者は才は中人に及ばず学は上達に至らないが、十年璧水(太学)に学び、一つの明窓で六度帝廷に達し中原恢復の策を上奏し、二度宰相の輔佐の才なきを譏った。夀皇(孝宗)の寛容を蒙り、漢の光武帝の大度を継ぎ、張斉賢を留めて主上に遺し、宋璟(廣平)をもって群儒の首とされた恩に浴した」と述べた。
人物像
- 公は才気超邁、筆を下せばたちまち数千言を書き、少しも滞ることなく、議論は風のごとく湧き倦むことがなかった。当世の茍禄竊位の士を蔑ろにするほどであった。自ら画像に賛して「その服は野にして、その貌もまた古風、天に倚りて号び、剣を提げて舞う。ただ稟性の至って愚かなるゆえに、人と多く忤らう。朱紫(正装)を未だ服さぬことを歎き、丹青(画)にみだりに描き取らせる。遠く観ればまるで陳亮のごとし、近く見ればまるで同甫(自分の字)のごとし。似ているか似ていないかはさておき、当今の世に誰が文中の虎であるかを語ろう」と記した。
辛棄疾の祭文
- 辛棄疾(稼軒幼安)は公の死に際し祭文で「ああ同父の才、筆を下せば千言、俊麗雄偉にして珠のように明るく玉のように堅い。人は皆窮して歩みを止める中、我々二人だけは沛然として、荘周や李白すら先鞭をつけられないほどであった。同父の志は万夫に勝り、張載(横渠)が若くして慷慨したように、十万の兵を率いて狼胥山に登り封じるつもりだったに違いない。ああいう輩は皆その庸才を恥じるべきだ」と述べた。
- 「天は同父に豊かな資質を与え、智略は縦横に生まれ、議論は風のように鋭かった。もし早く時を得ていれば管仲や伊尹にも恥じないほどだったろうに、五十歳になってもなお布衣のままであった。その才豪は多方面に発揮されたが、俗物を千人一律と厭う気質のため、少しも妥協せず規則に従うことができなかった。同父の欠点ではない」と続けた。
- 「今なお天下の人々は同父の三度の上書を誦じるが、司馬相如を推挙した楊得意のような人物が世になかったため、その才は困窮の中で発揮された。人はみな彼を殺そうとしたが、我だけはその才を惜しみ、廷尉の獄から救い出し、多くの士の前で名を上げさせた」と回想し、「今にして初めて世は同父を天下の偉人と信じるに至った」と述べた。
- 「人材の得がたさは古来からのこと、それは人を得るのが難しいのではなく天を得るのが難しいのだ。乖崖公(張詠)が時を得なければ呉蜀平定の功績もなかったろう。落魄していたころの張斉賢が同父の境遇と重なる。今、同父が廷試で天子自ら首席に置いたのだから、その登用を憂えることはない。同父の才と志があれば天下の事は成せないことがない、ただ天がその齢を惜しんだのだ」と嘆き、「閩と浙で音信を交わしていたのに、突然の病で永訣することになった。今後、鵝湖の清陰で憩い瓢泉で酒を酌み交わし世事を論じることはもう叶わない」と結んだ。
朱熹の評
- 朱熹は「同父は才が高く気が粗いため文字が明瑩でない。要するに心地が清和でないからだ」「同父は利欲の膠漆盆(べたつく泥沼)の中にいる」と評した。