宋名臣言行錄外集卷七十三 陸九淵

陸九淵(字は子静、号は象山先生、諡は文安公、?–紹熙三年、享年五十四)。「心即理」を説き、兄・陸九齢とともに「江西二陸」と称された。白鹿洞書院での義利の弁の講義や朱熹との無極太極論争で知られ、象山に多くの学徒を集めた。晩年は荊門知事として城壁の修築などの実務にも手腕を発揮した。

年表(10件)

出自と経歴

  • 陸九淵、字は子静、号は象山先生、諡は文安公。陸九齢(復齋)の弟。乾道八年に進士に及第した。淳熙元年、洪州靖安簿に授けられたが赴任前に継母の喪に服し、喪明けに建州崇安簿に転じた。
  • 淳熙八年、史浩の推薦により都堂審察に任じられたが赴かず、九年に侍従の推薦で国子正となり、十年に勅令所刪定官に遷り、十一年に『寛恤詔令』の編纂を終えて承奉郎に改められ、十三年に宣義郎に転じ将作監丞に任じられたが、省の疏駁により台州崇道観の主管に落とされた。十六年に任期が満ちて祠官を続け、光宗の即位に伴い荊門の知事に任じられた。紹熙三年冬、任地で没した。享年五十四。嘉定三年、諡を賜った。

幼少期の資質

  • 生まれつき非凡な資質があり、端正重厚で自ら誇ることがなく、典籍に心を尽くし実践に努めた。幼くして遊戯にふけらず、静かで重々しく大人のようであった。三、四歳のとき父に随い行事を見るたびに必ず問いを発した。ある日、突然「天地はどこまで続くのか」と問い、父が笑って答えなかったところ、深く考え込み寝食を忘れるほどであった。五歳で読書し、紙の隅を折ることもなくいい加減に済ませず、勤勉に考究した。
  • 「少年のころ程頤(伊川)の語を人が誦するのを聞いて、自分を傷つけるように感じた」と述べ、「伊川の言葉はなぜ孔孟の言葉と異なるのか」とも語った。初めて『論語』を読んだとき、すでに有子の言葉に支離な点があると疑った。

及第と呂祖謙の評

  • 進士及第の際、試験官の呂祖謙は数千人の中からその文を見抜き、後日「まだ直接教えを受けたことはなく、伝聞から得たのみだったが、一目でその優れた文章を見て心が開け、江西の陸子静だと分かった」と語った。
  • 史浩は先生を推薦して「淵源のある学識、沈粋な行い、輩の中でも群を抜き、心悟理融は自得によるものだ」と評した。

白鹿洞書院での講義(義利の弁)

  • 淳熙辛丑二月、白鹿洞書院に寓し「君子は義に喩り、小人は利に喩る」の一節を講じた。「学ぶ者はここで己の志を弁別すべきだ。人の喩る(悟る)ところはその習うところによる。習うところはその志すところによる。義に志せば習うところも義にあり、義に喩る。利に志せば習うところも利にあり、利に喩る。ゆえに学ぶ者は志を弁別しないわけにはいかない」。
  • 「科挙による人材登用は久しく、名儒鉅公も皆ここから出た。しかし合格・不合格は試験官の好悪次第であって、君子と小人の区別ではない。それでも今の世はこれを重んじるあまり、多くの人がこれに没頭して抜け出せず、聖賢の書に日々従事しながらもその志は聖賢と背馳することがある。官位の高下や俸禄の厚薄ばかりを計算するようになれば、国事・民の苦しみに心力を尽くせるだろうか。真に己の身を小人にしてはならないと深く考え、利欲の習いを痛切に恥じ、義に専心して博学審問慎思明辨・篤行に努めれば、科挙に臨んでも文章は必ず日頃の学問と胸中の蘊奥を語るものとなり聖人に背かない。仕官しても職務に勤め心は国と民にあって私利を計らない。これを君子と言わずして何と言おうか」と説いた。
  • 朱熹はこの講義に跋して「わたし(熹)は僚友を率いて白鹿書院に至り、学者を戒める一言を子静に請うたところ、快く承諾された。その発明・敷暢は懇切明白で、聴く者の隠微な深い病弊に切実に響き、誰もが粛然として心を動かされた。ここで自らを省みればおのずと道に迷わずに済むだろう」と述べた。

復讐の志と象山での講学

  • 若いころから靖康の変を聞き、復讐の義に感じ入り、智勇の士を訪ねて武事の利害・形勢の要害・人物の長短について論じ合った。
  • 貴渓に山があり、その形が象に似ていたため「象山」と名づけ、自ら「象山翁」と号して茅屋を結んだ。四方から学ぶ者が集まり数百人に及び、従容として道を講じ、詠歌して楽しみ、そこに終生を送る意があった。

象山での学者への訓示

  • 象山の学ぶ者に「道は人から遠くない、ただ人が道から離れるだけだ。古人が『道に宿り方に郷す』と言ったように、二三の君子は自分の方丈に宿るだけでなく群山にも郷することがなければ、この言葉に恥じないと言えるだろう」と述べ、「学芸の進歩は各々の才による。それが道に損益を与えるものではないが、日を空費し力を怠り、道を知らずして知る者に問おうとしないのであれば、その道もまた推して知るべきである」と自戒した。

荊門知事としての施政

  • 荊門にはもとより城壁がなかった。先生は「ここは古来戦争の場であり、今は次辺にあって江漢の間に位置し四方が集まる地である。南は江陵を防ぎ、北は襄陽を助け、東は随・郢の脅を護り、西は光化・夷陵の要衝に当たる。荊門が固ければ四隣は頼りにできるが、そうでなければ腹背心脇の患いとなる」と論じ、周辺の間道・浅瀬の脆弱性を指摘し、それを敵に利用されぬよう対策の必要を説いた。四千の義勇兵を活用できるにもかかわらず倉庫に鹿が至るほど無防備であったため、歴代の政において子城を修築しようとしても費用を惜しんで実行されずにいたのを、先生は熟慮の末に決断し、義勇を召集して庸直(労賃)を優遇し自ら督励に当たった。人々は喜んで働き力を尽くし、工期は通常の倍の速さで二十日で完成した。

「洪範」講義による祈福の代替

  • 荊門では慣例として上元の日に郡が斎醮(道教の祈祷)を行い民のために福を祈っていたが、先生は吏民を集めて『洪範』の「五皇極」の一章を講じ、これを醮事に代えた。「皇とは大、極とは中である。洪範九疇のうち五番目が中央に位置するため『極』と呼ぶ。この極の大きさは宇宙に満ち、天地はこれによって位を得、万物はこれによって育つ。古の聖王が皇極を建てたからこそ天地に参与し化育を助けることができた」と説き、天が下した衷(極)はすべての民に均しく備わっているが、気稟の清濁・知識の開塞によって差が生じるのであり、聖賢は先に覚った者として民を導く存在であると論じた。
  • さらに「今の天子が皇極を建て教えを垂れるのは、この五福を集めて民に授けることに他ならない。守令は天子の恩を承け宣べ、民に及ぼす者である。民が親を愛し兄を敬うことを知るのは、まさに天が降した衷、天子が授けた福である。この心を保てば夀・富・康寧を得られる。君臣上下・華夷・善悪・父子兄弟夫婦朋友の道を知ることも同じである」と説いた。
  • 「五福を論じるにはただ人の一心を論じればよい。この心が正しければすべて福であり、邪であればすべて禍である。世俗は目先の富貴を福とし目先の患難を禍とするが、心が邪で行いが悪ければ、たとえ富貴でも天地鬼神に背き、聖賢君師の教えに背き、父祖を辱め自らを害するものであり、正しい人が見れば牢獄や汚穢の中にいるのと変わらない。逆に、患難の中にあっても心が正しく行いが善であれば、天地鬼神に背かず、貧賤患難の中にあっても心は自ずと亨通し、正しい人が見ればそれこそが福徳である。善を積む家には必ず余慶があり、不善を積む家には必ず余殃がある。自らの心を考えれば福祥禍咎の至ることは影が形に従い響きが音に応じるのと同じ道理である」と説いた。

「宇宙」の悟りと心即理の説

  • 初めて読書していて「宇宙」の二字に至り突然大いに悟り、「宇宙内の事はすなわち己の分内の事、己の分内の事はすなわち宇宙内の事である」と語った。
  • 「四方上下を宇と言い、古往今来を宙と言う。宇宙とはすなわちわが心であり、わが心はすなわち宇宙である。千万世の前に聖人が出れば、この心この理を同じくする。千万世の後に聖人が出ても同様である。東海・西海・南海・北海のいずれに聖人が出ても、この心この理を同じくする」と説いた。
  • 「人の心は至霊であり、この理は至明である。人は皆この心を持ち、心は皆この理を具えている」とも語った。
  • 「念慮の不正は、瞬時にこれを知れば正すことができる。念慮の不正を瞬時に見失えばそれが不正となる。人には形跡で観るべきものと観るべきでないものがあり、必ず形跡だけで人を観ればその人を知るに足りず、必ず形跡だけで人を縛ればその人を教えるに足りない」とも語った。
  • また「今、天下の学者にはただ二つの道がある。一つは朴実、一つは議論である」とも述べた。

兄・陸九齢との学風(江西二陸)

  • 先生は兄・陸九齢(復齋)とともに理学を講じ、「江西二陸」と呼ばれた。その学は根本を窮めることを務め、章句訓詁によらず、ただ孟子の書を崇め信じ、「この心の良(良知)は天が我に与えたもので、それを信じて口にすれば宇宙はすべて至理となり、聖賢と我とは同類である」と説いた。

人物評

  • 先生は理を明晰に見抜く上に涵養を積んでいたため、己を成しつつ人をも成すことができた。四方の士は風になびき雲のように集まった。その規範は端正厳格で、対する者は邪心が自然に消え去り、その論説は爽やかで峻烈、聴く者は迷いの道から脱するようであった。書物に照らして義利の分、王覇の別、天理人欲の間の微妙な疑似の境目を弁じ尽くし、問い尽くして窮まることがなかった。学問が正大で自然に満ちていなければこのように理に通貫することはできなかっただろう(孔煒が諡を議した言葉)。
  • 門人の楊簡は「本心とは何かとわたしが問うと、先生はその日あった扇の訴訟の是非を挙げて答えられた。わたしは忽然としてこの心の清明を悟り、この心に始めも終わりもないことを悟り、この心が通じないところがないことを悟った。先生の心は口先で称え尽くせるものではなく、日月の明るさは先生の明るさであり、四時の変化は先生の変化であり、天地の広大さは先生の広大さであり、鬼神の測りがたさは先生の測りがたさである。すべてを語ろうとすれば万古を尽くしても語り尽くせない。それでも先生の心と万古の人の心は一貫して二つではなく、学ぶ者は自らこれを見限ってはならない」と行状に記した。

呂祖謙・朱熹との議論(鵝湖の会以後)

  • 呂祖謙は朱熹への書簡で「子静はどれほど滞在しましたか。鵝湖での気象はもう完全に転じましたか。もし一節一目の議論だけで人に磨かれるのであれば、その益は結局大きくないでしょう」と述べた。
  • 朱熹は「子静の従来の考え方はなお残っている。彼が学問の病弊として『意見』『議論』『定本』を挙げるのは、思索すれば意見なしにはいられず、講学すれば議論なしにはいられず、学問の規模を論じれば定本なしにはいられないという事情を無視している。ただ人の資質・病弊に応じて薬を処方すべきであって、一律の定本を立てるべきではないというのが子静の主張であった」とし、「彼は『邪な意見、閑な議論こそが学ぶ者の病だ』と言うが、わたしは『それでは自分で自分を叱りすぎている。邪・閑の字をつけてこそ意味が明確になる』と応じた。先に定本を立ててから整頓すべきだという説にも、それでは禅学と変わらなくなる恐れがあると懸念を示した」と述べた。

太極図説をめぐる論争――兄・陸九韶との書簡

  • 先生の兄・陸九韶(子美)はかつて朱熹に書簡を送り、『太極図説』は正しくないと論じ、「太極」の上に「無極」の二字を加えるべきでないと主張した。朱熹は「無極と言わなければ太極は一物と同じになり万化の根本たりえない。太極と言わなければ無極は空寂に陥り万化の根本たりえない」「無極とはただ形がないということであり、太極とはただ理があるということだ」と答えたが、陸九韶は納得せず周敦頤(濂溪)を批判し続けた。これにより先生も論争に加わり周敦頤を擁護する朱熹に反論した。

第一書――無極の語をめぐって

  • 先生は「『易大伝』に『形而上なるものを道と謂う』とあり、また『一陰一陽を道と謂う』とある。一陰一陽はすでに形而上のものであり、まして太極はなおさらだ。極とは中である。無極と言えば無中と言うことになる。太極の上に無極の字を加えるべきではない。無極の二字は老子から出たもので、聖人の書にはない」と論じた。
  • 朱熹はこれに答え、「大伝が『形而上を道と謂う』と言いながら『一陰一陽を道と謂う』とも言うのは、陰陽を真に形而上とみなしたのではなく、一陰一陽たらしめるものが道体の働きであることを示すためだ。道体の至極を太極と言い、太極の流行を道と言う。名は二つだが実は一体である。周子が無極と言ったのは、方所や形状がなく、物の前にありながら物の後にも立ち、陰陽の外にありながら陰陽の中にも行われ、全体を通貫してどこにでも存在するため、そもそも声臭影響で語れないことを示すためだ。無極を否定すれば太極に形状・方所があることになり、陰陽を形而上とみなせば道器の分を誤ることになる」と反論した。

第二書とその後の応酬

  • 先生は第二書で「太極の上に無極、下に真体の字を加えるのは、上に床を重ね下に屋を架すようなものだ。老子は無を天地の始めとし有を万物の母とする。無の字を上に置くのはまさに老氏の学であり、隠しようがない」と重ねて批判した。
  • 朱熹は「老氏の有無論は有無を二つに分けるが、周子の有無論は有無を一つとする。南北・水火のように正反対のものであり、軽々に批評すべきではない」と応じた。
  • 先生の再書はさらに憤りを強めたが、朱熹は「議論は平心和気で仔細に反復商量し、実に帰着すべきものを求めるべきだ。急迫の中で支離な激しい言葉を放って忿懟の気を晴らすようでは君子長者の態度とは言えない」と諭し、「そうでなければ、各々の聞くところを尊び各々の知るところを行うのみで、必ずしも一致を望めない」と結んだ。

朱熹による陸学批判の言

  • 朱熹は「かつて李延平から聞いた話として、象山の学は話が両端で明らかだが中間は暗い。暗いというのは説き明かさない部分のことで、そこがまさに禅である。『鴛鴦を繍い出して人に見せても、金の針をどう使うかは人に教えない』というように、禅家が自ら大切にする流儀である」と評した。
  • 「彼らの師承を問われれば、天資が高く誰に学んだか分からないが、師伝を問わず自らの気稟のままに学んでは偏りやすい」とも述べた。
  • 「子夀(陸九齢)兄弟の気象は大変よいが、その病は講学をすべて廃して実践躬行だけを専らにし、実践の中で人に本心を悟らせようとする点にある。これが最大の病弊だ。その操持の謹厳さは人に勝るところがあるが、自信が過ぎて規模が狭く、異学に流れても自覚できないのが惜しい」とも評した。
  • 「子静(陸九淵)が日頃自任するのは、自ら学者を率いて天理に専一にし、一毫も人欲を混じらせないことにある」「子静の学は心地の工夫について見識がないわけではないが、これによって古今を睥睨し窮理の細密な工夫を行わないため、結局その得たものまで失ってしまう」とも評した。
  • 「陸氏の学は近年の浅薄で偏った議論の中では卓然として抜きん出ており、その門徒にも修身斉家をよくして政事に応用できる者がいるが、その宗旨はもとより禅学から来ており、隠しようがない」「子静は気を張って人の師となることを好み、人に悟らせようとする」「子静は明らかに禅だが、一つの門戸を成しており、なお拠り所がある」とも評した。

曽祖道との問答(朱熹の記録)

  • 曽祖道が「先年、象山に会った」と語ると、朱熹は笑って「それはよい話し合いだ。象山はどうだったか」と尋ねた。曽祖道は「象山の学はわたしには理解できず、あえて学ぼうとも思わない」と答え、その理由として「象山は『目は視ることができ、耳は聴くことができ、鼻は香臭を知ることができ、口は味を知ることができ、心は思うことができ、手足は動くことができる。これ以上何の存誠持敬が要るのか。一物をもって一物を治めようとするのはなぜだ。詠帰舞雩こそが我が夫子(孔子)の家風だ』と語った」と述べた。曽祖道は「それは理として正しいが、初学の到達できる境地ではないと思う」と象山に答えたところ、象山は「あなたはすでにこれを持っているのに、外に求めることを本としようとするのは惜しい」と言い、曽祖道は「それは先生(象山)の到達した境地であり、初学者にそのまま実践させれば猖狂妄行に陥りかねない」と反論すると、象山は「旧習に絡め取られて陥穽に落ちたようなもので、なかなか除けないだけだ」と答えたという。朱熹は「子静の学は明らかに禅だ」「江西の人はおおむね秀才で文才があり、もし正しく導かれれば大いに明快になったろうに」と評した。

呂祖謙門下との比較

  • 朱熹は「呂祖謙(伯恭)の門徒は気力が乏しく四分五裂して各々勝手な説を立て、いずれ消え去るだろう。子静はそうではなく、精神が鋭く、その説は明快で人を変化させる力があり、朝と夕とで人の考えを変えてしまうほどだ。その流れの害はまだ止まないだろう」と評した(以上、朱熹の言葉をまとめたもの)。