宋名臣言行錄外集卷七十三 陸九齡

出自と経歴

  • 陸九齢、字は子夀、号は復齋先生。撫州金渓の人。太学に入り学録となった。乾道四年に進士に及第し、桂陽軍教に任じられたが、親が老いていて任地が遠いことから淳熙甲午(元年)に興国軍教に改められた。丙申(三年)に赴任し、丁憂(喪)に服し、喪明けの庚子(七年)春に全州教に転じ、九月に没した。享年四十九。

幼少期と学問への専心

  • 幼くして聡明で端正重厚、少し長じて郡の博士弟子員に補せられた。当時秦檜が政を握り、科場では程氏の学を禁じていたが、先生は旧知の者を通じてその説を得て一人心を寄せた。長らくして新任の博士が来る際、その者が放逸を自任していると聞き、慨然として「これはわたしが学びたいものではない」と嘆じ、詩を賦して直ちに帰郷した。
  • 書を読んで滞ることなく、百家の書を昼夜倦まず繙き、陰陽・星暦・五行・卜筮に至るまで通暁しなかったものはなかった。性格は周到謹厳で、いい加減に済ませることを好まず、学んだことは必ず精詳を極めた。

兄弟の学問――陸九淵との切磋

  • 兄弟(陸九淵ら)は皆古を志し学を好み、日常は従容として道義を講論し、誾誾侃侃として和して同ぜず、兄弟の間で師友の関係にあった。先生の徳を成した要因は一端ではないが、家庭における琢磨と育成の功が大きかった。休暇には弟子とともに射を習い「これは男子の当然の事だ」と語り、以来郷里の士人は弓矢を武人の末技として卑しむことがなくなった。

茶賊の乱への対応

  • 乙未の年、湖南に茶賊が起こり近隣の郡を騒がせ、村落の民は皆保塁に入り家を離れて郡に先生を頼るよう請願した。郡はその請いに応じたが、門人の多くは不満を持った。先生は「古は郷里の長がすなわち軍の統率者であった。士人がこれを恥じれば豪俠や武断の輩が専らこれを行うようになる。今、軍事のことは文書によって郡県に動員され、事を進めるには必ず担当者の力を借りねばならない。そうした者が民に対して不当な要求をすることもあり得る。賊が境内に入らなくても、防備を練習しておくことは後の模範となる」と述べた。

人柄と教導の方法

  • 先生は和順で物に逆らわず、不当な意には決して従わなかった。簡潔率直で人に迎合しなかったが、長く付き合うほど味わいが増した。四方から学ぶ者が門を叩き、疑問が胸に詰まって解けない者も、先生が従容として説き明かせば釈然として疑いを解いて帰った。それは単に感化の力だけでなく、先生自身が長く専心して自己修養に努めていたためであった。人の病弊を治療するように、浮沈滑渋の程度を見極めて適切に処置し、また容易に理解できない者には寛やかに養い機の熟すのを待つなど、闇雲に施すことはなかった。
  • 「天下には異端小道に囚われる者が多いが、それらは議論するに足りない。晩進の新学者の中には君子の余論を聞きかじった者もいるが、その文だけを模倣して実を伴わず、規を写して円を描き矩を擬して方を作るようなもので、似ていても真ではない」と論じた。
  • 「道を求めようと勇み進むとき、憤悱として直進し段階を踏まないことがある。しかし先生の志は大きく拠り所は実であり、要点に阻まれることがあれば、たとえ九仞の功を積んでも毫釐の偏りをそのままにせず、たとえ万人の前に立っても安易な公論に頼らず、広く聴き観察して立ち止まり四方を顧み、至平至粋の境地に至らなければ止めることがなかった」とも評される。

鵝湖の会――朱熹・陸九淵との詩の応酬

  • 朱熹が呂祖謙(東萊)を鵝湖まで見送った際、先生兄弟が来会して講論した。先生は詩を作り「幼子は愛を知り、長じては敬を知る。古の聖人が伝えてきたのはただこの心のみ。おおよそ基があってこそ室を築ける。土台なくして山ができるとは聞かない。注釈にこだわれば道が塞がれ、精微にとらわれれば心は沈む。友との切磋琢磨を大切にせよ、今こそ至楽がここにあると知るべきだ」と詠んだ。
  • 弟の陸九淵(象山)はこれに和して「墟墓の興廃、宗廟の尊崇、この人(人間)の心こそ千古の霊。涓流が積もって滄浪の水となり、拳ほどの石が積もって泰華の山となる。易簡の工夫はついに久大となり、支離の事業はついに浮沈する。低きより高きに昇る道を知りたければ、まず真偽を弁別すべきだ」と詠んだ。
  • 朱熹もこれに和して「徳業風流はかねて敬慕するところ、別離三年なお心にかかる。杖に扶けられ寒谷を出で、籃輿に招かれ遠山を越える。旧学は商量してますます緻密に、新知は培養してますます深沈となる。言葉なき境地に至ればなおのこと、人の世に古今の別があるとは思えなくなる」と詠んだ。

鵝湖の会後の書簡

  • 呂祖謙は朱熹への書簡で「子夀(先生)は先日ここに二十余日滞在し、鵝湖での意見をひるがえして誤りだったと考え直し、実質的に読書講論に取り組みたいと望んでいる。心平気下のこうした態度は知人の中でも得がたい」と伝えた。
  • 朱熹はこれに答え「子静(陸九淵)はなお旧来の考えを残しているようだが、子夀の話ではすでに歩みを転じているものの、まだ完全には移りきっていないという。鵝湖での講論のときの勢いに比べれば、今はもう十のうち七、八は改まったのではないか」と述べた。

臨終

  • 先生は臨終の夕、兄弟と語り合い、ただ天下の学術と人材のことのみを気にかけていた。しばらくして正しく横たわり衣衾を整え鬚髯を整えて、安らかに息を引き取った。「仁を以て己の任とし、死してのちに已む」という言葉はここに見られると評される。

張栻との交誼

  • 張栻(南軒)は先生と面識がなかったが、晩年に書簡を交わし学問の要点を語り合い、世道の重責を互いに期し合った。しかし間もなく張栻が没し、半年後に先生も世を去った。道の顕晦にも運命があるのだろうかと評される。

呂祖謙・朱熹の追悼

  • 先生の死に際し呂祖謙は朱熹への書簡で「陸子夀(先生)が起き上がれなくなったのは痛ましい。学問に篤く実践に力を尽くし、旧学の偏りを深く知って益を求めてやまなかった人が、ここに至ったのは後学にとって重大な損失だ」と述べた。
  • 朱熹は祭文で「学問は私説ではなくただ道を求めるものである。誠心をもって善を選べば、順序は異なっても行きつく先は同じである。わたしと兄(先生)は若いころ交わりがなかったが、生涯にただ再会しただけの縁でも、互いに心を開いて親しく語り合った」と回想し、鵝湖での初対面から始まる交流を詳しく述べた。
  • 「初めは易簡の学と支離の学(陸学と朱子学の異同)をめぐって疑いが解けず議論が紛糾したが、兄が容易に論破されず、むしろ深く省みるだろうと悟り、私はしばらく躊躇い立ち去った。その後も書簡のやり取りが続き、道中で偶然再会して大いに論じ合い疑いなく理解し合うに至った」とし、「今年は龍でも蛇でもない年(辰でも巳でもない、意味深長な言い回し)だというのに、なぜ賢人がこうも不幸に見舞われるのか。ただ兄の徳は特に純粋で、厳粛かつ中正で邪心がなく、その心を人に従わせて善を求める姿勢には少しも驕りや吝みの私心がなかった」と結んだ。