宋名臣言行錄外集卷七十二 劉清之

劉清之(字は子澄、号は静春先生、吉州廬陵の人、?–淳熙十六年、享年五十七)。朱熹に学んで詞章の学から義理の学へ転じ、地方官として実践躬行を重んじる学問と施政を行った。孝宗への上言では人材登用や理義に基づく政治を説いた。

年表(3件)

出自と経歴

  • 劉清之、字は子澄、号は静春先生。先祖は臨江の人で、後に吉州廬陵に移った。紹興二十七年に及第し、袁州宜春簿に任じられたが赴任前に父の喪に服した。喪明けに厳州建徳簿に改められ、瑞州高安丞に転じ、撫州宜黄の知事に改められた。
  • 龔茂良・周必大が孝宗に推薦し、召対を経て太常簿に任じられた。喪に服し喪明けに鄂州の倅(通判)となり、任期満了時に諸司から常州知事に推薦されたが赴任前に衡州に改められた。当路の者がこれを嫌い言者に諷して罷免させ、雲台観の主管に差された。
  • 寧宗の即位から一月余り、袁州知事に起用されたがすでに病に伏していた。淳熙十六年九月に没した。享年五十七。

幼少期の学問

  • 四、五歳のとき李瀚の『蒙求』を読み、龔遂の勧農文や文翁の興学の故事を誦して口をやめなかった。父母が「この二人は人に読書と耕作を教えたのだ。人はただ耕すか学ぶかのどちらかだ」と語ると、公は喜んでますます読書に励んだ。長じては兄に学び、朝夕力を尽くし、自ら古の賢人を範として求め、書物を博く極めながら科挙の習いだけに専念することはなかった。

孝宗への上言

  • 孝宗の召対で、まず民の困窮と兵の驕り、大臣が退いて小人に責任を押し付ける弊害を論じ、さらに人材登用について「賢否を弁別すること」「名実を正すこと」「才能を用いること」「意見を聞いて適切に任免すること」の四点を論じた。太常簿に任じられた際の謝辞では、「もし俸禄を懐い世に迎合すれば初心を失うことを恐れる。あるいは諛いをもって取り入るならば、それは自らを厚く遇さないことになろう」と述べた。

常州知事就任時の上奏案

  • 常州知事となった際の奏事案には、「今日の風俗はただ利を得ることのみを知り義を忘れている。詔令が下るたびに、仕える者は俸給が増えるかを、士は挙用を免れるかを、兵は褒賞を受けるかを、民は租税が免除されるかを問うばかりで、そうでなければ良法美意で国に利し民に便であっても空文と見なし無視する。治世の道には政と教があり、理と義がある。今、明らかに理義を知る者を得るのは難しいというが、それは誣言ではないか。今日はまず百官を精選し理義に明るい者を監司・学官・守令・将帥とすべきである。そうすれば風俗は義を知り上下は心を一にし、陛下と大臣が本を正し源を清くすれば、万邦の規範は他でもなく理義から出ることになり、大業を復興するのに難はない」と論じられている。

人柄と学問の転向

  • 公は孝行・友愛に篤く誠実質朴、義を好み、意は広く心は和やかで、強敏でありながら自ら立つところがあった。当初、進士として官を得て博学宏詞科に応じようとしていたが、朱熹(晦翁)に会うと習っていた詞章の学をすべて焼き捨て、義理の学に志を定めた。
  • 厳陵の官を辞めると呂祖謙(東萊)の書院に赴いて経義を講論し数か月留まった。張栻(広漢)が厳陵の知事だった時にはまだ面識がなかったが、すでに公の人柄を深く知っており、その後の書簡の往復は神交心契の間柄となった。公は天資が高い上に諸賢に学んだため学識は日々超逸し、汪応辰(玉山)・李燾(巽巖)ら当代の碩学もこれを敬慕した。

学問の姿勢

  • 公の学問は実践躬行を務めとし空言を事とせず、日常は端座し終日謹み深く、経史を繙かなければ性情を省察し、義を見れば躊躇せず行い、後進を訓え導くにあたっては一人の士も逃さないよう心を尽くし、善があれば直ちに称えて成就させた。
  • 「もし学に志すと言いながら性理の書ばかりを弄び、名声のある士大夫を慕って追従するならば、それはかつて文章に溺れ訓詁に沈み異教に流れた者たちと同じ轍である。一言の誤りは常には些細に見えるが、その時この心が保たれていたか否かを省みるべきだ。一歩の逸脱も常には無害に見えるが、その時この心が定まっていたか否かを省みるべきだ。志ある者は曽子のように容貌顔色言辞に力を用いるか、顔回のように視聴言動に力を用いれば、先儒の教えは簡易明白でみな実行できる。誰がこれを妨げられようか」と語った。
  • 人と交わるときは誠を尽くし言葉は簡潔で理は尽くされ、親のある者には孝敬を勧め、子のある者には教育を急務とするよう勧め、初めて仕官する者には君に事え民を潤すことを志とするよう勧めた。人の善を聞けば喜んで語り続け、人の過ちを聞けば自分の痛みのように悲しみ、士人を特に大切にした。

王安石批判

  • 公はしばしば「王安石は註疏に頼らず聖人の経を修めようとし、当時の法令に頼らず天下の法を新たにしようとした。志は務めを知っていたと言えるが、実行した結果はかえって旧に及ばず、上は神宗(裕陵)を誤らせ今日に至っている。後の君子は註疏の学に安住せず、法令の文に縛られてはならない。この二つが正されれば人材は自ずと出て治道は自ずと挙がる」と嘆いた。

朱熹との師弟の交わり

  • 朱熹への書簡には、王承(王安石の子孫の逸話に基づくか)が子に「学びが心に入るのは浅いが、体で悟るのは深い。礼学の様式を習うより師の姿を仰ぎ見る方がよく、文辞を諷誦するより直接その教えを承ける方がよい」と告げた故事を引き、学問の切実さを述べた。
  • 「元祐年間以来の諸老先生の説を読んで、世にはただこの書があるだけだと思っていたが、今の世に二三の君子がいると聞き、居ても立ってもいられなくなった。しかし体が弱く徒歩で行けず、貧しくて僕馬もなく遠くへ行けないこと、地位が低く上の者に取り入ることができないこと、世の衰えの中で名利に屈する者が怪しまれないのに学士や真儒に学問を問えば『名を好む者』と言われることの三つの理由でためらった」と述べ、「二三の君子(先賢たち)はすでに世を去っており、もはや語ることができない。幸い執事(朱熹)がいまここにおられ、お目にかかる機会があるならば、他に何を言うことがあろうか。願うこと実に十五、六年になる。『経師には遇いやすいが人師には遭いがたい』と言う。素絲の質をもって朱・藍(染色の色)に近づきたい。伏して教えを願う」と結んだ。

朱熹の返書

  • 朱熹はこれに応え、「執事は盛年壮気、清節直道の雅な道を歩み既に当世に名を聞かれているのに、なお学を悦び問いを好む意がますます勤勉であるのは、古人の己のためにする学に志すゆえだろうか」と述べた。
  • また「異学が侵食することを深く憂えているようだが、そればかりを憂えていては憂いが尽きない。ただ講学と体験に力を注ぎ、自分の胸中に疑いのない境地を得れば、異学は害を及ぼせなくなる。聖賢の言葉を身に照らして一つ一つ体察し、明らかに疑いがなくなるまで積み重ねれば自ずと見えてくる。ただ意が精しくなく貪多ないし早計に流れれば明らかにならない。涵養の功は他人に頼れないが、致知の事は朋友との講学の助けが要る。今どんな書を読み、どう玩索し、誰と論じているのか。速さを求めず、疑いを溜め込まず、先後緩急を適切にすれば功は日々進んで窮まりない」と諭した。

朱熹の祭文

  • 公の死に際し朱熹は祭文で「子澄(劉清之)は楽易な資質を持ちながら篤実純厚な行いを実践し、志は高雅で道を信じることは深く堅かった。家庭では孝弟の誉れが高く、友との交わりでは信義が明らかであった。閑居しては道を講じ書を著すことを他人が楽しまないことも楽しみ、官にあっては民を養い風俗を善くすることを他人が憂えないことをも独り憂えた。宗族を収恤し後進を引き立てることに孜孜として全力を尽くし、人の善を喜び人の悪を憐れむことにも誠実さの限りを尽くした」と讃えた。
  • 「賢者は公と交われば自省と改過の益を喜んだが、不賢の者は公との対比で自らの汚点を暴かれる恥を厭った。世には賢者より不賢の者の方が多いため、子澄への誉れは少なく謗りが多く、その道は一州においてすら行われぬまま志を抱いて没するに至った。これはなんと深く悲しみ痛惜すべきことか」と朱熹は嘆き、旧交を偲んで「訃報を聞いてから数か月、病み衰えて文章もその心を尽くせないが、西を望んで涙が流れる」と結んだ。

附記――望祀山川壇をめぐる評

  • 公が衡州で望祀山川壇を建てたという話について、朱熹は「今の有司はただ朝廷の制度を奉行すべきであり、士大夫が自ら創立するのはよくない。張栻(敬夫)もこのようなことを好んだが、中庸を守らず礼楽を勝手に作るような姿勢は恐らく望ましくない」と評した。