宋名臣言行錄外集卷七十二 魏挺之

出自と経歴

  • 魏挺之、字は元履、後に掞之と改め字を子実としたが、元履の名で知られたため世間ではこの呼び名を変えることがなかった。建州建陽県招賢里の人。二度郷挙で礼部の試験を受けたがいずれも及第しなかった。
  • 閩帥の汪応辰、建州の知事の陳正同が朝廷に推挙したが、時の宰相がこれを妨げて実現しなかった。乾道四年、詔により遺逸の士を挙げる際、部の刺史・芮曄(〓は底本欠字、以下同様の字体の可能性)がその行誼を言上し、特別に召されて同進士出身を賜り、左迪功郎・太学録に任じられた。後に罷免されて台州の教官となった。乾道九年閏月に没した。享年五十八。淳熙三年、宣教郎直秘閣を追贈された。

幼少期と交友

  • 幼くして大志を抱き、少し長じて郡の学校に学び胡憲に師事し、その才を認められた。その後郷里の儒学の先達を遍く訪ね、四方に遊学して先達・名士と広く交わり、見聞と名声がともに高まった。

趙鼎への弔問と権力者への抵抗

  • かつて衢州の知事・章傑の家に客としていたとき、旧宰相の趙鼎(忠簡)が海上(流謫地)で薨じ、その柩が常山を経て帰った。章傑は日頃趙鼎を怨んでおり、秦檜の意向にも媚びて、その家人を逮捕し厳しく取り調べさせた。人々はその兇暴さを恐れて誰も異を唱えなかったが、魏挺之は独り憤慨して章傑に書を送って責め、長揖して立ち去った。章傑もこれに手を出すことができなかった。

朝廷への上言

  • 召命に応じ辞退できないまま布衣(無位無官)の身で入見し、当世の務めを極言した。その大要は、皇帝に徳業を修め人心を正し士気を養うことを恢復(中原回復)の本とするよう勧めるものであった。孝宗はこれを称え受け入れた。
  • 先聖を釈奠する際、従祀すべき先賢について「王安石父子は邪説をもって天下を乱した者であり、祀典に列すべきではない。河南の程頤・程顥は絶えた学問を明らかにし後世に幸いをもたらした功が大きい」として、上に建言し王安石父子を祀典から除き、二程を追爵して配食させるよう求めた。
  • また、太学の教育は徳行と経術を先とし、次いで世務に通じさせることを重視すべきであり、今のように空言浮説だけで人を選ぶのは誤りであると訴えたが、聞き入れられなかった。

宰相への直言

  • 国家の安危治乱に関わる政事について、宰相が正すことができず台諫・侍従も言えないでいると、必ず上奏して尽言し、三度四度と繰り返した。聞き入れられなければ病と称して門を閉ざし、書簡で宰相を質責することもあり、その言葉は特に厳しかった。宰相は日頃から魏挺之を招いていたが、これによって不快感を抱くようになった。魏挺之も以前から辞職を求めていたため、親を養うことを理由に休暇を得て退いた。

学問と交友の姿勢

  • 学問はあらゆる分野に通じたが、とりわけ前代の治乱興亡廃存の説と本朝の故事の実際に長じ、大要を要領よく把握して貫通していた。日頃の論説を聞く者はみな粛然とした。
  • 人と交わっては誠を尽くしたが安易に迎合せず、善を勧め過ちを救うことに熱心で、後進に一つでも長所があればすぐに称賛し推挙した。地位が高く名望のある者でも意見が合わなければ面と向かって質し、はばからなかった。おおむね義を最も重んじる人柄であった。

直言の姿勢

  • 平生の行いは、急を要する病を救い夷易を譲るという心を旨とし、ひとたび布衣の身から朝廷に列すると、君父に対して隠すことなく、衆人が敢えて言わないことを言った。これは己の保身ばかりを図る者とは比べものにならない姿勢であった。

晩年の述懐

  • 若いころから当世に志があり、晩年に君主に出会ってその学を行えると思ったが、仕官して半年も経たずに意見が合わず帰郷することになった。魏挺之は嘆息して「上の恩がこれほど深いのに、わたしの学が至らず感悟させ報いることができない。わたしの罪は大きい」と語った。

張栻・朱熹の追想

  • 休暇を得て帰郷した際、張栻(南軒)は書簡でおおよそ「兄の論は切実で率直、一時を悚動させた。もしその言葉が用いられずただちに直言の士を退けることになれば、人々は深く憂え嘆くだろう。太学の多くの士人が何蕃を閉じ込めまいとする動きがあると聞くが、それも人心の共感を示すものだ」と述べた。
  • 朱熹は哭辞で「元履は才英気豪、志節堅高であった。若くして名声を発し、賢者に事え仁者と交わり、その評判は四方に及んだ。中年になってからは古を考え今を験し経伝で正して、ますます宏く深い学識を得た。人の善を聞けば自分のことのように喜び推し広め、人の困窮を見れば自分が陥れたかのように救い上げ、力を惜しまなかった」と偲び、その招聘・出仕・帰郷・病没に至る経緯と、二人の長年の交誼を詳しく述べ、「兄は玉、我は石、互いに磨き合った。世の道は険しく孟門・太行の峻険のようだが、兄が行けば我は憂い、兄が帰れば我はこれを迎えた。兄と心を同じくする者は我をおいて他になかった」と結んだ。

張栻撰・朱熹跋の墓表をめぐる経緯

  • 張栻が公の墓表を撰し、朱熹はこれに跋して次のように述べた。「『政事に安危治乱の機に係るものがある』というのは、曽覿の召還の命を指す。当時曽覿の勢力はなお盛んで、わたしは後日その一族に禍が及ぶことを密かに恐れ、あえて明言を避けた。敬夫(張栻)が墓表を作った際もこの意を汲んで同様にしたが、亡友の直言の忠を後世に明らかにできなかった責めは自分にあると、常に恥じ入っていた」。
  • 「後に孝宗は鄭鑑の言を容れ、かつて元履が進言した内容を思い出し、執政の龔茂良らにその率直さを称賛し、再び召し用いようとしたが、その死を知って深く悼んだ。まもなく詔して『朝廷に直諒の士がいなくてはならない。掞之は死してもなお』として、宣教郎直秘閣を追贈しその子孫に告げた」。
  • 「このとき、孝宗は旧恩により曽覿を厚遇していたが、実際の政治には関与させなかった。元履が自ら明らかにしたのはすべて曽覿を厳しく批判するものであったが、孝宗は怒ることなくかえって手厚く褒賞した。この話は遠近に伝わり人々を感動させた」とし、朱熹は「贈官の経緯を記して、孝宗が諫言を容れ賢者を思い近習を抑制した微意を明らかにし、後世の聖君の模範とし、また元履のために墓誌銘の欠を補い、自分の躊躇いの咎を償いたい」と結んだ。

追贈をめぐる朱熹の記

  • 掞之はもともと布衣の身で召見され、天子はこれを喜んで学官に抜擢した。在職わずかの間に幾度も政を論じる上書をなし、ついには近習の不当な進用を強く阻んだため自ら不安を覚えて帰郷し、そのまま没した。しかし孝宗は当初からその言葉を厭うことはなく、五年を経てもなお忘れず嘆き悼み、このように追贈の栄誉を賜った。これは実に盛徳のなせる業であり、人心を感動させ臣節を励ますものである。この由来を記し石に刻んで先帝の光訓を後世に伝え、億万年にわたって地に埋もれさせないようにし、事に当たる臣や志ある士がこれを称え語り継ぎ、互いに励まし合って忠諫の道をますます勧めるようにと願う(朱熹「贈告を記す」による)。